第10話 宝石

文字数 1,535文字

その晩は、奏と抱き合って寝た。
泣きじゃくる奏を撫でたり摩ったりして慰めているうち、気がついたらベッドに入り眠っていた。奏はワンピースのまま、俺はスウェットの部屋着のままで。先に目が覚め奏の寝顔を眺めているうち、俺のことを本気で好きだと言ってくれた言葉を思いだした。

俺自身は、どうなのだろう。奏が生き方に迷っていると言ったように、俺の気持ちもはっきり定まらないよう感じた。奏のことは好きだが、それは友情なのか、恋愛感情なのか。そもそも奏は男なのか、実は女なのか。雨はすっかり上がりピンク色のカーテンから陽が漏れていたが、俺の気持ちは晴れないまま、黙って部屋を出た。

「ねえ、おやっさん」
開店前の『ザキブルー』で、俺はグラスを磨きながらおやっさんに質問をしてみた。
「人生って、どう生きるのが一番正しいんだろうねえ」
「なんや、急に。なんか悩みでもあるん?」
「おいちゃん、なおすわ」と言って、おやっさんは俺の磨いたグラスを棚に入れる。『なおす』というのは大分弁で、仕舞うという意味らしい。
「いや別に。だけど誰の人生でも、突然人生の岐路に立たされることってあるだろう? そういう時は、どういうふうな選択をするのが一番正しいのかなって」
おやっさんは、いつもどおり両目に半円形の線を作り笑った。
「自分のほんとにやりたいことを、やりたいふうにすることやねえ」
「自由に生きてもいい、っこと?」
「そりゃ犯罪とか人様に迷惑かけるようなことは、いけんよ。でもそうやなかったら、おいちゃんみたいに好きなことをやって好きなふうに生きれば、それでいいんよ。自分が幸せに生きれば、周りも幸せになれるもんよ」

俺は黙って、おやっさんの笑顔を見つめていた。おやっさんは俺が何か悩みを抱えていると感じたのか、
「おまえは宝石なんやけん。自分の選択に自信を持って、自分の好きなように生きればいい」
意味ありげなことを言った。
「どういうこと?」
「お母さんから、聞いちょらんか。おまえの『碧』っちゅう名前は、『青く緑がかった美しい宝石』ちゅう意味があるんよ。実は、おまえが産まれた時おいちゃんが提案したんよ」
何それ。そんな話、いま初めて聞いたんだけど。
「お父さんもお母さんも、初めて授かったおまえを宝物や言うちょった。そやけん『宝石』ちゅう名前を採用してくれたんや思う。おまえは宝石なんやけ、自分らしく輝いて生きればそれでいいんや」
俺は内心、静謐(せいひつ)な感動を味わっていた。
「…とか言うて、おいちゃん実は『ブルー』ち名前にしたかっただけなんやけどな。ここの『ザキブルー』とか『ブルーノート』の名前から由来して」
「なんだよ。結局、ジャズにちなんだ名前にしたかっただけじゃないかよ」
笑い合って話は終わったが、少し心が力を取り戻したように感じた。自分らしく、自分を信じて生きる、ってことか。簡単なようで、なかなか難しいことなんだろうけど。

「あおくん、いらっしゃい」

奏はこれまでと変わらず、いつ行っても快く部屋の中に招き入れてくれた。俺も奏も、互いの心に深く立ち入り詮索するような言動は、無意識に避けていた。立ち入ったら、またぶつかったりギクシャクしてしまうのが、わかっていたのかも知れない。それより、一緒に楽しく過ごすことのほうが大切だと思った。奏もたぶん、同じように感じていたのだろう。いままで簡単だった手料理も煮物や焼き魚など、より手の込んだものを提供してくれるようになった。俺への好意を言葉ではなく形として差し出してくれることに、感謝した。俺たちはただ無邪気に、食べ、笑い、語り合い、一緒にいて楽しい時間を共有した。二人とも悩みや迷いを抱えていたが、結果的にそれぞれが決断するものであり、自然と時間の流れにまかせようとしていた。

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