第12話 至上の愛

文字数 1,983文字

その時ちょうど、『ザキブルー』のアルテック製スピーカーが大きな唸り声を上げ、鳴り響いた。流れてきた音楽は、ジョン・コルトレーンの『ア・ラブ・シュプリーム』、邦題『至上の愛』だった。
「あ、『至上の愛』だあ」「いいねえ。『至上の愛』」
店内の常連客たちも、あちこちでざわめき声を上げる。おやっさんが、にやつきながら近寄ってきた。
「おいちゃんの好きな曲なんよ、『至上の愛』。いまの二人にぴったりの曲や思うてな。これ、おいちゃんの奢り。今夜は最後まで、ゆっくりしてってな」
大皿に入れたオードブルセットを、テーブルの上に置いていってくれた。
「お誕生日おめでとうございます。今度改めて品物を持ってご挨拶に伺います」
奏が言うと、右手を顔の前で振りながら、
「硬いこと言わんでいいの、いいの」
おやっさんは去って行き、ソファーを俺たち二人だけに独占させてくれた。俺は奏とシャンパングラスを重ね乾杯した。

「それにしても、よく面接に行こうって気になったね。ずいぶん勇気が要っただろうに」
奏は、ピンク色の口角を上げ笑った。
「実は前から、深夜にこっそり店の下見に行っていたんだ。でも、なかなか勇気が出なくって。今日、ようやくやっと」
金色に輝くシャンパンを飲む横顔に、俺は見惚れる。
「あおくんのおかげだよ」
グラスをテーブルに置くと、改めて俺に向き直った。
「あおくんが肯定して受け容れてくれたから、自分自身を肯定することが出来たんだ」
「楓さんには、バーに勤めることは話してみるつもりなの?」
「両親にはまだ無理だけど、姉には話してみて理解してもらおうと思ってる。性同一性障害についても」
奏はここ最近で、ずいぶん前向きになってくれたようだった。本当にそれが俺のおかげなら、嬉しいんだけど。
「ここは、ジャズバーだよ。きみは今日、一人でここへ来ることが出来た。これからは、一緒にジャズクラブヘ遊びに行ってくれるね?」
奏は笑顔を見せた。
「うん。でも、あおくんにお金を出してもらうのは、やっぱりいやかな。初めてお給料がもらえたら、その時は一緒に遊びに行こう」

宴会は、閉店時間を過ぎても続いた。俺と奏がようやくマンションに着いた頃には、午前一時になっていた。
「おやすみ」
さんざん酒を飲まされ、酔っぱらった俺はそう言ってまっすぐ部屋に戻ろうとした。奏は、千鳥足(ちどりあし)になった俺の右手を掴み、強引に自分の部屋へと引き入れた。靴を脱がされ、そのまま奥の寝室まで連れていかれる。

ベッドの前で、奏は両手を後ろに回しファスナーを下ろすと、ワンピースを床に落とした。やはり胸元にレースの花模様がついた、上下白のキャミソール姿になった。
「かなでのこと…好き?」
潤んだ瞳で、俺を見上げて言う。
「まだちゃんと答えを聞いてなかった。かなでのこと、あおくんはどういうふうに思ってるの?」
おいおい、かなでくん。その目、その顔、その格好でそんなふうに言われたら、どう思っていようと体が反応しちゃうよ。俺は若い男なんだから。
「今日お店のマネージャーに、今後は普段から女として生活しろって言われたの。女の言葉で話して女の格好をして、完全に女になれって。これからはもう自分のこと『僕』って言うのはやめようと思う。かなで、完全にあおくん(ごの)みの女の子になりたい」
キャミソールにはカップが入っているようで、胸が膨らんで見える。目の前の奏は、すでに完全に俺好みの女の子になっている。
「あおくんは、これからかなでにどういう服を着てほしい? どういう言葉遣いをしてほしい? 教えて」
やや首を右に傾げて聞く仕草が可愛い。この子を理想の美少女に仕立て上げたいという欲望がむくむくと膨らんでくる。俺は半分寝ぼけて、とろんとした目で答えた。
「そうだな…いかにも女の子らしい、フリルやリボンのついたヒラヒラした洋服が好きかな。このレースの下着も可愛い。自分のこと『かなで』って名前で呼ぶのも可愛くて好き。てか、かなでくんは何を着ても何をやっても可愛いよっ!」
酔った勢いで、つい奏に抱きつき、そのままベッドの上に押し倒してしまった。

「じゃあ…する?」
奏は反転して上になると、そう言ってゆっくり唇を近づけてきた。
「今晩、かなでとエッチしてみる?」
耳元で、吐息と共に色っぽく囁く。俺はその時正気に戻って、ハッと目が覚めた。
「ストップ!」慌てて後ずさりし、奏の誘惑から離れる。
「ストップ!! かなでくん!」
つい、漫画のタイトルのような台詞を叫んでしまった。
奏は急に不機嫌になり、
「だったら、最初から押し倒してんじゃねーよ!」
俺を思いきり両手で突き飛ばした。
「あいたたた!」
俺はバランスを崩してベッドから落ち、夏用ラグの上に尻もちをついた。腕力は男なだけに、たちが悪い。体は痛かったが、それでも顔は緩んで笑っていた。

これから奏と一緒に幸せな夏を過ごす。
なんとなく、そんな予感がしていた。




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