第2話 引っ越しの挨拶
文字数 1,465文字
ジャズバーは午後四時開店なので、二時間前には出勤していなければならない。それまで、隣近所に引っ越しの挨拶を済ませておくことにした。
なんといっても、あの403号室。またあの美少女と会えるのではと思うと、胸の高鳴りを抑えることが出来ない。これをきっかけに美少女と仲良くなり、しいては付き合えたりなんかして。詰んでいた俺の人生、ここで百八十度転換出来る転機になるのかも。
挨拶の品を紙の手さげ袋に入れ、午前十一時頃部屋を出た。渡す品物は、無難に今治 タオルの二枚組セットにしてしまった。こんなことなら、もっとお洒落でインパクトがあるものにすれば良かったかも知れない。
胸の鼓動を全身で感じながら、403号室のインターホンを鳴らした。六十秒ほど待ってみたが、誰も出てこない。もう一度、ボタンを今度はゆっくり強めに押してみる。やっぱり反応はなく、音もしなければ気配もない。昨夜帰宅が遅かったから、まだ就寝中なのだろうか。あんなに緊張し興奮したのが馬鹿みたいだ。諦めて、やむなく出直すことにした。
今度は、左隣の401号室を訪ねてみる。
「はあい」
インターホンを鳴らすと、快活そうな女性の声がすぐに返ってきた。クリーム色の鉄扉 が開き、六十代くらいの髪の短い女性が笑顔を見せた。家の中だがきちんと化粧をして、白いブラウスに薄紫のパンツを清潔に着こなしている。
「昨日の夕方、隣の402号室に引っ越してきた君島と申します。今後どうぞよろしくお願いいたします。これ、つまらないものですけど」
そう言って紙袋の中から、一つ包装箱を差し出した。いつも「つまらないものですけど」と謙遜するたび、「だったら渡すなよ」と内心ツッコミを入れてしまう。
「まあまあ、ご丁寧に。お気遣いありがとうございます。あなた、佐藤さんの甥御さんでしょう? 佐藤さんから話は聞いているわよ。お店を手伝うことになったんですって? 偉いわねえ」
話の内容から、女性が『おやっさん』と懇意 にしていることが伝わってきた。陽気で話しやすそうな女性なので、付き合いやすいのだろう。
「とんでもないです。403号室にもご挨拶に伺ったんですが、お留守のようで。いつ頃、ご在宅なのかおわかりになりますか?」
何か知っている気がして、さりげなく聞いてみた。
「ああ、あそこね。若い女性が弟さんと住んでいるみたいよ。はっきり聞いたことないけど、水商売をされている方みたい。お昼のほうが家にいると思うけどね」
水商売…やっぱりか。あの格好であの時間帯歩いていることが、それで納得がいく。女性は急に声を潜めて、
「あそこの弟さん、ちょっと変わってるのよね」
ちらりと403の方向を見た後、手のひらで口元を隠すようにして言った。
「変わってる?」
「ほら、俗に言う引きこもり…? お姉さんのほうは夜たまに見かけるんだけど、弟さんは夜も日中も出かけているのを見たことがないって、もっばらの噂よ。部屋に引きこもって爆弾でも作っているんじゃないかって。怖い怖い」
女性は両手で二の腕を摩る仕草をして見せた。爆弾って…そんな、まさか。引きこもりなんて今時珍しい話じゃなし、俺だって少し前まで実家に引きこもっていた。そんな噂をする住人たちのほうが、よほど恐ろしく感じる。
「わかりました。また午後にでも改めて伺ってみます」
「このマンションは、場所柄飲食業の人たちが多いのよ。あたしも伊勢佐木町でスナックやってるしさ。よかったら、今度佐藤さんと一緒に遊びに来てね。あたしもジャズバー寄らせてもらうわね」
いかにも接客業の笑顔を見せながら、女性は扉を閉じた。
なんといっても、あの403号室。またあの美少女と会えるのではと思うと、胸の高鳴りを抑えることが出来ない。これをきっかけに美少女と仲良くなり、しいては付き合えたりなんかして。詰んでいた俺の人生、ここで百八十度転換出来る転機になるのかも。
挨拶の品を紙の手さげ袋に入れ、午前十一時頃部屋を出た。渡す品物は、無難に
胸の鼓動を全身で感じながら、403号室のインターホンを鳴らした。六十秒ほど待ってみたが、誰も出てこない。もう一度、ボタンを今度はゆっくり強めに押してみる。やっぱり反応はなく、音もしなければ気配もない。昨夜帰宅が遅かったから、まだ就寝中なのだろうか。あんなに緊張し興奮したのが馬鹿みたいだ。諦めて、やむなく出直すことにした。
今度は、左隣の401号室を訪ねてみる。
「はあい」
インターホンを鳴らすと、快活そうな女性の声がすぐに返ってきた。クリーム色の
「昨日の夕方、隣の402号室に引っ越してきた君島と申します。今後どうぞよろしくお願いいたします。これ、つまらないものですけど」
そう言って紙袋の中から、一つ包装箱を差し出した。いつも「つまらないものですけど」と謙遜するたび、「だったら渡すなよ」と内心ツッコミを入れてしまう。
「まあまあ、ご丁寧に。お気遣いありがとうございます。あなた、佐藤さんの甥御さんでしょう? 佐藤さんから話は聞いているわよ。お店を手伝うことになったんですって? 偉いわねえ」
話の内容から、女性が『おやっさん』と
「とんでもないです。403号室にもご挨拶に伺ったんですが、お留守のようで。いつ頃、ご在宅なのかおわかりになりますか?」
何か知っている気がして、さりげなく聞いてみた。
「ああ、あそこね。若い女性が弟さんと住んでいるみたいよ。はっきり聞いたことないけど、水商売をされている方みたい。お昼のほうが家にいると思うけどね」
水商売…やっぱりか。あの格好であの時間帯歩いていることが、それで納得がいく。女性は急に声を潜めて、
「あそこの弟さん、ちょっと変わってるのよね」
ちらりと403の方向を見た後、手のひらで口元を隠すようにして言った。
「変わってる?」
「ほら、俗に言う引きこもり…? お姉さんのほうは夜たまに見かけるんだけど、弟さんは夜も日中も出かけているのを見たことがないって、もっばらの噂よ。部屋に引きこもって爆弾でも作っているんじゃないかって。怖い怖い」
女性は両手で二の腕を摩る仕草をして見せた。爆弾って…そんな、まさか。引きこもりなんて今時珍しい話じゃなし、俺だって少し前まで実家に引きこもっていた。そんな噂をする住人たちのほうが、よほど恐ろしく感じる。
「わかりました。また午後にでも改めて伺ってみます」
「このマンションは、場所柄飲食業の人たちが多いのよ。あたしも伊勢佐木町でスナックやってるしさ。よかったら、今度佐藤さんと一緒に遊びに来てね。あたしもジャズバー寄らせてもらうわね」
いかにも接客業の笑顔を見せながら、女性は扉を閉じた。
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