第3話 ザキブルー

文字数 2,548文字

午後一時にもう一度403号室を訪ねてみたが、やはり応答がなかった。左隣のおばさんが言う通り、引きこもりの弟がいるのなら出てきそうなものなのだが。

ジャズバー『ザキブルー』は、イセザキモールという商店街から一本奥に入った路地裏にあった。大岡川に近く、徒歩十分ほどで辿り着くことが出来る。築五十年の三階建てビルと同じ年数ぶん歴史があり、客の大半は創業当初からの常連客だ。つまり、ほとんど若い客はいないようだった。一階が店舗、二階が住居兼倉庫、三階が住居になっているとのことで、エレベーターなどはない。五十代前半のおやっさんは、毎日三階まで左側にある階段を昇り降りしなければならなかった。

右側にある格子柄になった硝子扉を開けると、奥に八席のバーカウンターが見える。カウンター奥の棚には約三千枚のLPレコードや酒のボトル、コップが並べられており、左脇に二連のLPブレイヤーがあった。左奥壁の両脇にアルテック製A7スピーカー、壁や天井には国内外問わずジャズミュージシャンたちの写真やポスター、雑誌の切り抜きが隙間なく貼り付けられている。店の右側は扉と同じく格子の硝子窓になっており、すぐ前にグレーのソファーと木製のテーブル。他に同様の四人掛け椅子とテーブルが、六セット置かれてあった。照明は、天井の四隅と所々壁に取り付けられた間接照明のみ。ほとんどのジャズバーがそうであるように、薄暗い中ジャズを堪能出来る、雰囲気のある店だった。

扉を開けると、おやっさんが黒いタイルの床にモップがけをしているところだった。
「おやっさん! 清掃なら俺がやるよ」
声をかけると初めて俺の存在に気がついたようで、
(あお)か」
振り返り、か細い声で言った。
おやっさんは、身長が百六十センチもない小柄な男性だった。そのせいで独身だったのか知らないが、気持ちはとても大らかであたたかく、魅力的な人だ。八の字になった眉毛、笑うと半円形になる目元に、人柄の好さが表れていた。

「どうや。マンションから近いやろ? この店。この店に通いたくてあのマンション買ったから当然や。帰るにしても終電とかなんも気にせんでいいから楽よ。歩いてすぐ帰れるから、閉店時間まで気張って働いてもらうで」
三日月のような半円形の曲線を目元に描き笑った。母とおやっさんは、中学生の頃まで九州の大分で生まれ育ったと聞いている。そのせいで横浜に移り住んでからも、親しい人間相手だと時折大分弁が出てしまうそうな。と言っても、だいぶ月日が経っているので、ほとんど忘れてしまっているらしいのだが。

俺は、おやっさんからモップを奪い取ると、床を磨き始めた。
「おいちゃんな、定年退職したらカフェでも経営したいちずっと思っちょったんや。飲食店経営に必要な資格も全部取って、準備しちょったんやで。そこにここのオーナーさんが病気で倒れて閉店するっち話が出て。やったら俺が継ぐち話になったんや」
おやっさんは、昔から自分のことを『おいちゃん』と呼ぶ。
「前にも聞いたことがある。ビートルズ・カフェだろう?」
「そう! ビートルズ・カフェ! ビートルズの曲ばかり流して、ファンが集う夢のようなカフェ」
おやっさんは、ジャズとビートルズ、つまり六十年代の音楽を好む人だった。ここはジャズバーだというのに、いまも店内に流れているのはビートルズの音楽だ。
「俺には勉強のためにジャズをたくさん聴けと言ってるくせに…開店前にビートルズのレコードかけるなよな」
「ごめんごめん。開店したらジャズばかりで、ビートルズ聴けんけんね。碧は、ちゃんと家でおいちゃんの渡したCD聴いてジャズの勉強しちょるか?」
俺は、返答の言葉に詰まった。やっぱりなんだかんだ言って、おやっさんと同じく自分の聴きたい音楽をつい聴いてしまうからだ。

「ジャズかあ。おやっさん、覚えてる? 十年くらい前、赤レンガ倉庫でブルーノート・ジャズ・フェスティバルやったじゃん。あの時出演したパット・メセニーやロバート・グラスパーは好きになったよ。あの時から興味を持って、あの二人はよく聴いている」
「パット・メセニーは、ジャズやないけん!」
出たあ。コテコテのジャズマニアのオジサマたちがこぞって主張する、お決まりの定説。
「あれはジャズやなくてフュージョンやけん!ロバート・グラスパーもヒップホップやR&Bに聴こえるけん。ここにはリストブックにも載っちょらんし、レコードも置いちょらん思うよ」
「じゃあどうして、二人ともジャズ・フェスティバルに出演してたの?」
「それは…よう知らんけど…。とにかくうちの店では、そういうことなんよ」
まったく、古いなあ。客が中高年しかいないはずだよ。イケてるジャズカフェやジャズバーのオーナーは、現代ジャズの幅広さをちゃんと理解していて、スティングでさえジャズ・ミュージシャン扱いしている人もいたのに。この店は、どうもホームページすら開設していないらしいし。このまま若い新規客を獲得していかないと、まずいことになるぞ。

そうこう話をしているうちに、開店時間を迎えようとしていた。
「そういえば、おやっさん。今日両隣の部屋に引っ越しの挨拶に行ったんだけどさ。403号室の人が不在で、挨拶出来なかったんだよ。どういう人が住んでいるんだか、知ってる?」
「403…? ああ、確か水商売の女の子だったかな。ほとんど話をしたことはないんだけど」
やっぱり。おばさんの言っていた話と合致する。
「最初は、確か男の人が一人で住んでいたはずなんだよ。それが途中から、いつの間にか若い女の子に変わって…おいちゃんも、ようわからん」
「反対側の部屋のおばさんが、引きこもりの弟と一緒に住んでいるって言ってたんだけど」
「おばさん? ああ、鈴木のママさんか。あの人噂好きやから、あの人が言うなら、そうなんやろう」

その時、常連の男性二人女性一人の三人組が、
「佐藤さん、来たよ! ジョージ・シアリングかけて! 『バードランドの子守唄』」
賑やかに喋りながら店に入って来た。おやっさんはレコード棚に移動しながら、
「何事も、最初が肝心やけん。明日もう一度行って、ちゃんと挨拶しとき。そんな弟さんがおるんやったら、余計慎重にならな」
客に聞こえないような小声で、アドバイスしてくれた。

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