第9話 涙の告白

文字数 2,086文字

次の休日も、夜遅くに雨が降った。

マンションに向かって、ピンク色の傘をさし紺のレインブーツを履いた長い髪の女性が歩いてくる。女性が傘を閉じエントランスに入った瞬間、
「楓さんですよね?」
郵便受けの前で待ち伏せしていた俺は、声をかけてみた。女性は一瞬前を向いたまま足を止めたが、またすぐに歩き始めた。丸襟、七分袖のフェミニンな白いワンピースを着ている。

「どうして答えようとしないんです」
エレベーターを待つ女性の横に立ち問いかけてみたものの、返事はない。平静を装い無視し続けているが、傘を持つ左手が微かに震えているのを俺は見た。
「声が出せないからですよね?」
エレベーターに一緒に乗り込んでからも、女性の右横に立ったまま質問を続けた。
「声が出せないんだ。誰だかわかってしまうから」
エレベーターが四階に止まると、女性はいきなり走り出した。403号室の前で、持っていた白いショルダーバッグから慌てて鍵を取りだそうとする。あたふた焦っていたためか、手元がもたついた。ようやく開いた扉を、閉められないよう俺は強引に右手で押さえつけた。
「閉めないで! 部屋の外じゃ、ちゃんと話が出来ない」
女性は観念したかのように俯いて、ピンク色の下唇を噛んだ。
「ちゃんと話が出来ないよ。かなでくん」
俺は静かに言うと、扉を閉め403号室の玄関に入った。

「きみの本当のお姉さんと思われる人に、先日部屋の前で会った」
奏は黙って、濡れた傘を靴箱の横に立てかけた。
「推理してみたんだ。この前俺がふざけてきみに口紅を塗った時、どうしてあんなに急にブチキレて怒りだしたのか」
ウィッグと思われる長髪の後頭部に向かい話しかけた。
「きみは深夜になると女装して、近所を徘徊していた。その姿を見かけて、俺は勝手にきみのお姉さんの楓さんだと思い込んだ。女装していたことや真実がバレることを恐れて、きみはあの時、あんなに怒ったんだ」
「…その通りだよ」
振り返った奏の両目には、涙が溢れかえっていた。
「あおくんの、言った通りだよ」

奥の洋室に入ると、テーブルの上に俺があげたCDが置かれてあった。奏はちらりとそれを見て、
「ニューアルバムありがとう。姉があおくんと話したと言って持ってきたから、ああ、わかったんだな、って思ってた」
電気ケトルで、お湯を沸かし始めた。深夜を気遣って「ノンカフェインじゃないけど、いい? 」と聞きポットとカップの用意をする。
「今夜は、じっくり話をしたいんだ。明日からまた仕事だから」
向かい合って、温かい紅茶を飲んだ。なんだかずいぶん久しぶりのように感じた。

「僕は、性同一性障害なんだ」
マグカップを両手に持ちながら、奏は言った。
「幼い頃から、可愛いものとかきれいなものが大好きで…でもそれは、姉の影響なのかなって思ってた。両親も、そう思ってたみたい」
茶色の長い髪を前に垂らしながら、訥々(とつとつ)と話す。俺は、ただ黙って耳を傾けていた。
「でも中学あたりから、はっきりと自分の性別に違和感を感じ始めるようになって…男の子が好きなんだって、その頃からわかるようになった。高校に入って好きになった男の子に告白してみたら、アウティングされちゃって…学校に行きづらくなって、実家に引きこもるようになったんだ」
「誰か相談出来る人はいなかったの? 先生とかお姉さんとか」
「鬱っぽくなったから心療内科に行ってカウンセリングを受けてみたりしたんだけど…根本的な解決には、ならなかった。姉や両親には、とてもじゃないけどカミングアウト出来ないよ。姉は今でも、僕がこっそり姉の服や小物を借りて女装していることは知らないと思う」
「でも…この辺りは女装している人なんて、いっぱいいるだろう? お姉さんも水商売されてる方だったら、理解してもらえると思うんだけど」
「うん。実は昨年ここに越して来たのも、野毛(のげ)や日ノ出町は僕みたいな人が多くいるって聞いてさ。実家にいた頃は、女装するなんてことは出来なかったんだよ。ここに来て姉が留守がちになって、姉の服を眺めているうち女装するようになったんだ」
俺は頷きながら、ゆっくり紅茶を飲んだ。
「近所の人の目があるから、深夜の時間帯だけ、こっそりと野毛辺りを散策するようになった。確かに、女装している人が多くいるね。でも僕は、まだあの人たちみたいにオープンにはなれない。自分の生き方に、まだ迷っているんだ」
「俺は引っ越し当日、初めてかなでくんを見た時、なんて可愛い美少女なんだと思ったよ。下心丸出しで、ぜひお近づきになりたい、って。いまでもきみは、本物の女の子より可愛い美少女に見えるよ」
奏は少し頬を赤らめ、照れくさそうに笑った。
「ありがとう。実はあの時が初対面だったんだよね。僕はあおくんが挨拶に来た時、エレベーターで話しかけてきた人だ、ってすぐわかった。最初は下心が丸見えで鬱陶しいなあ、って思ってたけど…」
奏は言葉に詰まり、そのまましばらく顔を伏せた。
「だけど、好きになっちゃった」
絞りだした声が、涙声になっている。
「あおくんのことが、本気で好きになっちゃった」

顔を上げた両目に涙を浮かべ、肩を揺らし泣きじゃくり始めた。

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