第5話 おやっさん

文字数 1,280文字

カウンターを拭いていると、二階から酒のケースを両手に持ったおやっさんが降りてきた。
「どうしたん? その絆創膏」
俺は黒い半袖のTシャツを着ていたので、左肘が見えたらしい。
「ああ、なんでもない。マンションで転んじゃって」
「気いつけや。初仕事で、体よだきいやろ」
『よだきい』とは大分弁で、怠い、というような意味らしい。
「若いんだから、なんてことないよ。おやっさんこそ、しんどいだろ」
「おいちゃんは、それでも楽しいよ。毎晩仲間内でパーティやってるようなもんやから」
よっこらしょ、と言いながらケースをカウンター内の床に置く。俺は、ははっと笑った。昨夜はまさに、そんな感じだった。

「昨日話した403号室の人、昼にやっと挨拶出来たよ。引きこもりって噂されてた弟さん。話してみると、意外にいい子だった。日本のジャズが好きなんだって」
「日本のジャズ言うたら、なんといっても渡辺貞夫(わたなべ さだお)よ! 九十代で、まだまだ現役よ。日野皓正(ひの てるまさ)穐吉敏子(あきよし としこ)…みんな横浜でジャズを学んだ人たちよ。おいちゃん若い頃、もう夢中になった」
いやまあ、日本のジャズ・ジャイアンツたちの偉大さは確かに認めるんだが。いまは世界で評価されている若手有望株、いっぱいいるんだがなあ。

「好きなCD貸してくれてさ、俺もお返しに何か貸してあげようと思うんだけど、おやっさんのお薦めって他に何かあるかなあ」
「おいちゃんに聞いたら、なんといってもジョン・コルトレーンよ。『ブルー・トレイン』とか『バラード』とか聴きやすい思うよ。そもそもコルトレーンは、日本人に人気が高いんよ。なんちゅうかなあ。おいちゃんが思うに、音楽に対して徹底的に、真摯に探究していこうとする姿勢。これが日本人の気質に合っちょるんやなあ」
そうなんだ。好きなロバート・グラスパーがコルトレーンの『アフロ・ブルー』をカバーしていたのは知っているくらいだ。あまり知られていないが実は『アフロ・ブルー』は、コルトレーン作曲ではないらしいんだけど。

「好きな曲なら、いっぱいあるよ。最初の奥さんに捧げた『ナイーマ』『マイ・フェイヴァリット・シングス』『ジャイアント・ステップス』『インプレッションズ』『ア・ラブ・シュプリーム』『アイ・ウォント・トゥ・トーク・アバウト・ユー』『ザ・ナイト・ハズ・ア・サウザンド・アイズ』…」
やばい! 話が止まらなくなってくる予感!
「わかった、わかった。他に誰かお薦めのアーティストっている?」
「人によってどうしても好みちあるけんねえ。でもまあ、コルトレーンとかマイルス・デイヴィスのバンドにおった人たちを聴いておけば間違いない思うよ。マイルスは、人を見抜く力を持っていたとしか思えんのよ。それくらい偉大なミュージシャンたちと共演している。ソニー・ロリンズ、ホレス・シルヴァー、ビル・エヴァンス、ハービー・ハンコック、チック・コリア、キース・ジャレット、ロン・カーター、トニー・ウィリアムス、ウェイン・ショーター…」
そうなのか。全然、わからん。それじゃあ、マイルス・デイヴィスの代表的なアルバムを聴いておけばいいんじゃないかと、個人的には思った。

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