第7話 楓さん!

文字数 2,709文字

それから、あっという間に一ヵ月が経った。

夕方から夜にかけてはバーで一生懸命に働き、昼はCDや食べ物を持って奏の部屋を訪ねるという日が続いた。奏は言っていた通り、気分のいい日には俺の食べたいものを昼飯に作ってくれた。パスタやサンドイッチなど簡単なものだったが、それでも俺は他人が作ってくれた手料理が嬉しくて、とても美味しく感じた。俺たちはCDの感想を語り合いながら、一緒に昼飯を食べ、紅茶を飲んだ。奏は日を追うごとに笑顔を見せてくれることが多くなり、俺も奏といると仕事の疲れがとれ、癒された。二人の仲はゆったりと深まっていった。ビル・エヴァンスの『ワルツ・フォー・デビー』のような雰囲気で。

梅雨入りした雨の日、俺は深夜十二時過ぎマンションに向かい歩いていた。雨粒が傘の透明なビニールを滑り落ちる中、前にピンク色の傘をさした若い女性らしき人影が見えた。なんだか見覚えのある背中まで伸びた長い髪。白いブラウスにデニムのミニスカート、紺色のレインブーツを履き、手にはレジ袋を持っている。
「あっ!」
雨音が響く中、俺は一人声を上げた。
「楓さん!」
直感的に察した俺は、そう叫びながら女性の後を追った。しかし俺の声は、どうも降り続く雨の音にかき消されてしまうようだった。女性は予想どおりマンションのエントランスを抜け、そのまますんなりエレベーターに乗った。
「楓さん!」
俺の声が聞こえているはずなのに、女性は振り向きもせずそのまま上に昇っていった。傘を閉じ走って滑り込もうとしたものの、追いつかず扉が閉じ、同乗出来なかった。俺は軽く舌打ちすると、エレベーターの奥にある階段を急いで駆け上っていった。この機会を逃すと、今度はいつ会えるのかわからない。奏は楓が定期的に金と食料を持ってきてくれると言っていた。おそらく勤務後その目的でやって来たのだろう。
階段を全力で走りぬいたにもかかわらず、虚しくも楓が403号室に入っていく光景が見えた。

かなでくん! かなでくん!

楓が気がつかないのなら、そう言って403号室のドアを拳で叩き呼びかけたい衝動に駆られた。だが冷静になってみると、いまは深夜零時過ぎ。奏は眠っているかも知れないし、起きているにしてもそんな行動をとれば騒音で近所迷惑になるだろう。
溜息をつき翌朝訪れてみようと思い直すと、俺は大人しく自分の部屋に入った。

午前中訪ねてみようと思っていたのに、疲れていたのかぐっすり昼まで寝入ってしまった。雨が一晩中降っていたので、気圧が下がって眠りやすかったのかも知れない。それに洗面台の鏡に映った自分の顔を見ると、髪はボサボサ、髭も剃り残しがあってひどい見た目になっている。こんな面構えじゃせっかくの楓との初対面が台無しになってしまう。身だしなみを整えたりしているうちに時間が過ぎてしまい、俺はせっかくの面会の機会を逃した。

落ち着いて奏の部屋を訪れることが出来たのは、二日後の定休日だった。近所の洋菓子店で買ったショートケーキを手土産に、午後三時頃持っていった。
「あおくん、久しぶりじゃん」
不貞腐れたような口調で、奏は言った。グレーの半袖シャツに白い半ズボン、黒い髪を短く切り揃えていた。
「床屋、行ったんだね」
「それくらい僕だって行くよ。不潔っぽくなるのは嫌だからね」
奏はいつもどおり、硝子のティーポットで紅茶を淹れてくれた。
「この前、雨の夜、楓さんを見たよ」
奏がケーキ皿とカップをテーブルに置くと同時に、俺は言った。
「思いきって名前を呼んで、声をかけてみたんだよ。でも雨で聞こえなかったみたいで…挨拶しそびれてしまった」
聞いているのかいないのか、奏は黙って先に苺のショートケーキを食べている。
「翌朝挨拶に行こうと思っていたんだけど、タイミングを逃してしまって…その後もなんかバタバタしちゃってね。楓さんとは、ちゃんと話が出来たの?」
「もう姉のことは、忘れてください」
奏の口調と表情に不機嫌の色が表れているのを感じて、俺はハッとした。もしかして、喧嘩でもしたのだろうか。引きこもっている今の生活を注意されたり責められたりしたのだろうか。
「今付き合っている彼と半同棲していて、ゆくゆくは結婚するつもりらしいです。あおくんのことは、僕から話をしていますから大丈夫ですよ」
そうなのか。でもやっぱり、下心抜きにしても一度直接話をしてみたい。

「ねえ、かなでくん。床屋に行けるんだったら、今度一緒にジャズライブでも観に行ってみない?」
奏は黙って俯いたままマグカップで紅茶を飲んでいる。
「井上銘さん、たまに桜木町のお店でライブやってるみたい。かなでくんと一緒に行けたらどんなに楽しいかと思ってさ。ジャズの話出来る友達、他にいないんだよ。お金なら俺が払うからさ」
その時、テーブル下の白いラグに、小さな黒いスティックが落ちていることに気がついた。
「なんか落ちてる…なんだ、これ」
右手で拾い上げてみて、リップスティックだとわかった。先日来た楓さんが、落としていったものなのかも知れない。
「かなでくん、口紅が落ちてたよ。楓さんの落とし物なんじゃない? これ」
蓋を開けて捻ってみると、筒状になったピンクのリップクリームが顔を覗かせた。それでも奏が硬い表情を崩さなかったので、俺はあることを思いついた。自分では、名案だと思っていた。
「ねえ、かなでくん。こっち、こっち。ちょっとこっち向いて」
顔を上げ、うっすら口を開いていた奏の上唇半分に、ふざけてリップクリームを一筋塗ってみた。
「ほら、やっぱり! 思った通りだ。楓さんにそっくり!」

一瞬、何が起きたのかわからなかった。突き飛ばされた俺は、ラグの上にひっくり返り、天井を見上げる形になった。
「あおくんの、馬鹿っ! 大っ嫌いだよ!」
奏は立ち上がり、汚れでも落とすかのように置いていたティッシュで口元を強く(ぬぐ)った。口元だけではない。目元も拭いているのが、上半身を起き上がらせた状態で見えた。

え? え? もしかして泣いている? なんで? 俺なんか悪いこと言った?

「かなでくん、あのう…」
「あおくん、なんにもわかってない! ジャズライブなんて行けるんだったら、最初っからさっさと行ってるよ! 引きこもりなんてやってねえよ! なんで、そんなこともわかんねえんだよ!」
奏の激しい感情に戸惑うばかりで、俺は言葉が続かなかった。
「あおくん、なんにもわかってない…」
俺に背中を向け、俯いて呟く両肩が微かに震えている。
「かなでくん、ごめん…」
それだけ言い残すと、俺は部屋を出た。扉を閉めてからも、
「かなでくん、ごめん…本当にごめん」
わけがわからないまま立ち尽くし、一人扉に向かい謝り続けていた。

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