第8話 手紙

文字数 1,697文字

"愛しいプルーデンス、外に出て遊ぼうよ。
新しい一日に挨拶してごらん。
陽はのぼり、空は青い。
素晴らしいんだ。そしてきみも。
愛しいプルーデンス、目を開けてごらん。
空は晴れ、風はやさしく、鳥たちは歌う。
まわりを見わたしてごらん。
愛しいプルーデンス、笑顔を見せてほしい。
愛しいプルーデンス、お外で遊びたいよ。"

「いい曲だね」
開店前 『ザキブルー』 のソファーに座って、ビートルズの 『ディア・プルーデンス』 という曲を聴かせてもらった。おやっさんが、
「ビートルズの曲の中に引きこもりを歌った曲がある」
と教えてくれたためだ。
「ビートルズがインドで超越瞑想(ちょうえつめいそう)の修行しちょった時、ミア・ファローち女優の妹が精神不安定になって部屋から出てこなくなったんよ。それでジョン・レノンがその妹に曲で呼びかけたんよ」
「ジョン・レノンの気持ちがわかるなあ」
俺は腕組みをしながら、知ったふうな顔をして言った。
「レノンもコルトレーンも、天才やった。二人とも同じ四十歳という若さで惜しくも亡くなった。天才は美人と同じで薄命なんかねぇ」
俺は凡人だから、たぶん長命だな。
「おやっさん、俺は精神不安定になっている弟さんに、何をしてあげればいいのかな。曲なんて書けないし」
おやっさんは、レコードを棚に戻しながら言った。
「むげねえけど、しばらく、そっとしとき。その弟さんがほんとに困って助けを求めてきた時、出来るかぎり親切にして助けちゃり。情けは人のためならずよ。必ず自分に返ってくるものやけね」
『むげねえ』とは大分弁で、可哀想という意味らしい。おやっさんらしい答えだった。でも俺は内心もう一度楓と会って、なんとか話をすることは出来ないかと思っていた。おそらく月に一度は、奏の許を訪れているんじゃないかと思う。今度こそチャンスを逃さず、その時が来るのを待ってみることにした。でも、その時まで何もしないというわけにもいかない。

『かなでくん、この前は怒らせてしまってごめん。魚返明未のニューアルバム、まだ聴いてないって言ってたからプレゼントさせて。何か困ったことがあったら、いつでも言ってきて』

そう書いた手紙とCDを小さなレジ袋に入れて、ドアノブにぶら下げておいた。
出勤するため部屋を出る時、403号室の前に若い女性が立っているのが見えた。女性は驚いたことに、袋に入れておいた俺の手紙を両手で持ち、俯いて読んでいた。
「あの…」
俺は半ばムッとして、
「その手紙、ここの部屋の子に書いたものなんで。勝手に読まないでもらえますか?」
きつい口調で言った。
「あらあ」
女性は長い黒髪をなびかせながら、笑顔で振り返り俺を見た。
「ひょっとして、あなたが君島さん? ええと…君島 碧さん」
目が大きく、顔立ちがどこか奏に似ている。きょとんとしている俺を見て、女性は、ふふっと、いたずらっぽく笑った。

「どうも初めまして。私が奏の姉の楓です。四月にこちらに引っ越してこられたんですよね? ご挨拶するのが遅くなってしまって」
俺は軽い衝撃を受け、混乱した。自分がこれまで楓だと思い込んでいた女性と目の前にいる女性は、背格好こそ似ているが、全然違う。愛想が良く、元気で人懐っこそうな雰囲気。ジャケットの襟と裾に黒いラインが入った白いスカートスーツを着ていた。
「奏からお話は伺っております。奏がいつもお世話になっているみたいで。このプレゼントも、気を遣っていただいてどうもすみません」
「ちょ…ちょっと急いでますんで」
出勤前で、時間がないのは確かだった。しかしそれより、早く一人になって頭の中を整理したかった。
「ありがとうございますう」
逃げるように去って行く俺の背中に向かって、女性は明るく大きな声を上げた。なんだ。なんなんだろう、一体これは。狐につままれた、とは、おそらくこういう気分のことを言うのではないか。さっきの女性が本物の楓だとしたら、先日雨の晩見た女性は、一体誰だったんだ。確かに403号室に入っていくのを、この目ではっきりと見た。顔はよく見えなかったから、同一人物ということなのだろうか。それにしても、あまりに雰囲気が違い過ぎる。

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