第4話 自己紹介

文字数 2,453文字

初出勤の翌日は、体中が筋肉痛だった。
噂どおり、やはり飲食業はきつい。基本的に立ちっぱなしの仕事だし、清掃、接客、皿洗いと常にせわしく動きまわっていなければならない。

「きみが、佐藤さんの甥御さんかあ。彼女なんているの? ひょっとして、まだ童貞?」
なんてデリカシーのないセクハラまがいの発言をしてくるオヤジもいた。客は皆顔馴染みで、おやっさんを慕って集まって来る友人同士の溜まり場になっていると感じた。それだけに失言は出来ず、酔客の相手も大変だった。
でも、働くって、たぶんこういうことだ。『ザキブルー』の伝統を守るためにも、俺を拾ってくれたおやっさんのためにも、今度こそ簡単に仕事を放り投げるわけにはいかない。多少無理をしてでも、ここで踏ん張らなければ。そう決意した。

肩やふくらはぎが痛む中、ベッドから出たのは昼前だった。昼飯を食べ、シャワーを浴びたら、出勤の身支度をしなければならない。その前に、再度403号室を訪れてみようと思った。どうせまた誰も出てこないかも知れないし、今度は気楽に。
力を抜いてインターホンを鳴らすと、意外やすぐに扉が開いた。白いロングTシャツにハーフパンツを穿いた美少年が、青白い顔を覗かせた。この子が、爆弾を作っている引きこもりという噂の弟さんなのか。姉弟(きょうだい)なだけあって、あの時の美少女と顔がそっくりだ。

「あの…」
こんなにすぐ人が出てくるとは思ってなかった俺は戸惑った。
「昨日、いえ一昨日(おととい)隣に引っ越してきた君島と申します。ご挨拶が遅くなりまして。これからよろしくお願いいたします」
そう言って、紙袋から取り出した包装箱を遠慮がちに差し出した。少年は受け取ろうともせず、なぜかじっと俺の顔を見つめている。
「どうぞ」
そう言って、さらに前方、少年の手元辺りに差し出した。ようやく品物を受け取った少年の肩ごしに、思わず部屋の奥を覗き見る。あの美少女が中にいるんじゃないか。爆弾を作ってはいないか。ひょっとしてゴミ屋敷になっているんじゃないか。いろいろと気になり興味がある。
「人んち、じろじろ見てんじゃねーよ!」
少年はいきなりそう言って、品物を持った右手で軽く俺の左肩を押した。つい踵を伸ばしていた筋肉痛だった俺の足は、それで簡単にバランスを崩した。ひっくり返り、硬いコンクリートの床に尻もちをついた。
「あいたたた!」
持っていた紙袋は宙を飛び、俺は体を(かば)おうとした左肘に軽い擦り傷を作ってしまった。

悪いと反省してくれたのか、少年は俺を部屋の中に招き入れ、傷の手当をしてくれた。どこからか救急箱のような小箱を持ち出してきて、中に入っていた消毒液を塗り絆創膏を貼る。
「すいません。怪我をさせるつもりじゃなくって」
一転してしおらしく、謝ってくれた。俯いた横顔が、あの時の美少女と重なる。
「いいんだ。俺もつい部屋を覗いてしまって」
少年は本気で悪かったと思っているらしく、白いティーポットで俺のぶんだけ紅茶を()れてくれた。それで、少年の繊細な一面が垣間見られた。なんだか安心した。この子が、爆弾なんて作っているわけがない。

少年が紅茶を淹れているあいだ、部屋の中を見回した。二人で住んでいると聞いていたので、てっきり間取りは2LDKなのかなと思っていたら、同じ1LDKだった。インテリアは白とピンクで統一されていて、カーテンもラメの入ったストライプ柄のピンク。ベッドカバーもピンク。ポットとカップの置かれた小さな丸テーブルは白。そして部屋のあちこちに、可愛らしいぬいぐるみやキャラクターグッズが飾られている。いかにも若い女の子の部屋といった様相だ。

「実は引っ越してきた当日、きみのお姉さんと思われる女の人と、エレベーターで一緒になったんだよ。この部屋に入っていくのを、確かに見たんだ」
少年は黙って、開いた花のような形になった白いティーカップを、俺の前に滑らせた。「ありがとう」と言って、俺は温かい紅茶に口をつける。
「もしかして、お姉さんは楓さんという名前なの?」
少年は、頷いた。
「自己紹介するの忘れてました。僕は奏って言います。青山奏(あおやま かなで)
「俺は君島碧(きみしま あお)紺碧(こんぺき)の碧。改めてよろしく」
あの美少女は、青山楓ちゃんっていうんだ。先に名前が書いてあったから、多分そうだと思っていた。

「今日は楓さんは、家にいないの?」
「ご覧の通り、ここはもともと姉の家なんですけど、最近滅多に帰ってこないんです。どうも彼氏が出来たみたいで」
奏の言葉に俺は大きな衝撃を受けたが、それを取り繕うように「そう」と静かに言って紅茶を飲んだ。アールグレイのフルーティな風味が、なんだか苦々しく感じる。奏は見透かしたかのように、
「姉のこと、気になりますか?」
そう言うと、くすりと笑った。嘘をついてもつまらんと思い、
「きれいな人だったからね。仲良くなれたらいいなあと思って、内心期待してた。でもあれだけきれいだったら、そりゃ彼氏がいるだろうね」
「姉はキャバクラで働いていて、ここはもともとお客さんの持ち家だったんです。それを譲ってもらって住んでいたんです」
あ、なるほど。最初は男の人が一人で住んでいたというおやっさんの話と、これで辻褄(つじつま)が合う。

「このマンションは、飲食業の人が多く住んでるって近所の人が言ってた。俺も昨日から親戚のジャズバーで働き始めたし」
奏の大きな瞳が、一瞬煌めきを見せた。
「僕、ジャズ好きですよ」
話を合わせてくれてるだけなのかなと思った。
「本当? 若いのに、珍しいね。どんなジャズが好きなの?」
「和ジャズとかJJAZZとか呼ばれている日本のジャズが好きです。井上銘(いのうえ めい)とか、魚返明未(おがえり あみ)とか」
二人とも将来を嘱望(しょくぼう)されている、新進気鋭の若手プレイヤーだ。
「俺、いまジャズを勉強中で、名前は知っているんだけどアルバムはちゃんと聴いたことないんだよ。いつか聴きたいとは思ってるんだけど」
「もし良かったら、二人のデュオアルバム持ってるんで、貸しますよ。怪我をさせてしまった、せめてものお詫びに」
奏がそう言ってくれたので、甘えてCDを貸してもらうことにした。

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