第86話 優しさをありがとう

文字数 1,978文字

「すみません」
 午後八時。仕事帰りの僕は駅前で声をかけられた。見れば東南アジア系の顔立ちの若い女性だった。道でも聞きたいのかと立ち止まると、彼女は一枚のカードを差し出した。
『恵まれない子供たちのために署名と寄付をおねがいします』
 名刺サイズのカードには片面に日本語、片面には英語で同じ意味の言葉が書いてある。
 彼女は赤い手帳を開いた。子供たちの写真がたくさん貼ってある。目やにと鼻水だらけの子、伸びた服から肩が見えている子。どれも愛を訴えるCMに出てきそうな、いかにも貧困の中に住んでいますと言わんばかりの写真だった。彼女はたどたどしい日本語で語った。
「子供たちかわいそう。お腹すきます。学校ないです」
 彼女は話しながら手帳をめくっていく。最後のページにはたくさんの名前と、その横に『1000』や『5000』といった数字が並んでいた。募金した人と募金額なのだろう。
「お願いします」
 彼女の瞳はまっすぐ僕に突き刺さった。まるで彼女自身が手帳の中の貧困の子供であるかのように強い力で僕を圧迫した。差し出されたペンを取り、署名して財布を開けた。すぐに目に入ったのは10円玉だった。いつもなら募金には10円玉を二、三枚出すだけだが、手帳に書かれた千円台の数字の羅列を思うと、10円玉を出して自分の名前の横に『10』と書く勇気は僕にはなかった。けれど紙幣にはさすがに手が伸びない。結局、500円玉を取り上げて彼女が差し出した封筒に入れた。その時に見えた封筒の中身は硬貨ばかりで札は一枚も入ってはいない。ぼんやりとした居心地の悪さを感じた。
「優しさをありがとうございます」
 そう言うと彼女は僕に背を向け、さっさと歩いていく。彼女の足早な後ろ姿を見ていると『募金詐欺』という言葉が頭に浮かんだ。募金箱を持って街頭に立ち、集まったお金をネコババする。どう考えてもそれだろう。あんな写真にだまされる馬鹿がここにいた。彼女は一冊の手帳で一晩にいくら稼ぐのだろう。もしかしたら僕が書いた『500』の後に彼女は『0』を書き足すのではないだろうか。頭を軽く振ってすぐに考えるのをやめた。僕は恵まれない子供たちのために寄付をする優しい人なんだ。そう思えば穏やかに眠れるはず。
 けれど家に帰っても翌日になっても苦い薬が喉につかえたような気分の悪さが残った。偽善、いい人幻想、いいじゃないか。僕はそうやって目をつぶって500円よりももっと高額な満足を買うべきなのだ。なのに買ったものといえば小さな猜疑心とわずかな嫌悪感。彼女の生活を豊かにして彼女が寒さをしのれげばいいじゃないかというキレイな感情は少しも湧かない。封筒の中に見た100円玉や500円玉を思い出しては心が汚れたような気がする。
「優しさをありがとうございます」
 その言葉がいつまでも僕の本性を暴き続ける。しみったれた見栄ばかりはる、人のために無償で働くことなどしない男なのだと思い知らされる。いつも募金をしていたのは募金箱の無言の威圧に負けたからだという真実を突き付けられる。


 そんなことばかり考えていたある日、ふと思った。もし彼女が本当に恵まれない子供たちに寄付をしていたら? あの500円が正しく使われていたら? 正しく使うとはどういう意味だ? どう使えば正しい使い方だ? 食料か、学資か、医療費か? 誰に対して使えば正しい使い方だ? 手帳の写真の一枚目の男の子か、次のページの女の子か、一番貧しいものにか? その一番をどうやって決める? 彼女の優しさが決めるのか? はたして本当の募金活動だったとして、彼女は本当に優しいのか? ただの自己満足の行動ではないのか?

 悶々と考えはまとまらない。
 コンビニのレジ横に置いてある募金箱に目が留まる。盲導犬の写真が貼られた透明な箱の中に入っているのは1円玉ばかりだ。小銭を整理するため募金箱に入れる、そんな行為は果たして優しさか? 何もかも分からない。
 コンビニを出て、点字ブロックを伝って歩く男性の後ろをぼんやりとついて歩いた。白い杖が規則正しく右に左にと地面を探っている。少し先に自転車が点字ブロックにかかるように駐輪されている。ああ、このまま行けば男性は自転車にぶつかるなと思ったが、僕は何も言わなかった。何をしても偽善だとしか思えなかったのだ。

 その時、向こうからやってきた女性がすっと動いて自転車を道のわきによけた。女性はそのまま男性とすれ違った。男性は何も知らないままだ。それはなんだかとても僕を悔しい気持ちにさせた。どうしてもじっとしていられずに僕は女性に駆け寄った。
「あの!」
 驚いて振り返った女性は、やや緊張した面持ちだった。僕は落ち着かなげに視線を泳がせながら口を開いた。
「優しさをありがとうございます」
 彼女は一瞬目を丸くして、それから恥ずかしそうに微笑んだ
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