第87話 謎解き VS ビジネスマン
文字数 2,007文字
まさか、と思った。
この薄汚れたホテルで目にするものではあり得なかった。
いや、おそらく一生、実物を目にすることはないだろうと思っていた、ルームサービスのワゴンが304号室の前の廊下に鎮座していた。
糊のきいた白いテーブルクロスが銀色のワゴンにかけられ、その上に真っ白な大きな皿が三枚、小さな皿が二枚、皿の蓋であろうドーム型の銀色のものが三枚重ねて置いてある。
つまり、こういうことだろう。三枚の大皿に三つの蓋が被せられ、二枚の小皿と共に部屋に運ばれ、何者かが大皿に乗っていた料理を二枚の皿にとって食べた。つまり、この304号室には二人の人間が宿泊している……のだろうか。
このホテルは全室シングルルームのはずだ。現に私が泊まっている305号室は狭いシングルだ。シングルベッドと言えなくもない寝返りもうてないほど狭いベッド、膝を抱かないと入れないバスタブ、尻を拭くのもままならない狭いトイレだけのシングルルームだ。まさかそこに二人の人間が泊まっているとは思えない。私の部屋と304号室、303号室の間の距離を歩数で数えてみた。三つの部屋はきっちり同じ狭さだ。
そもそもどうやって部屋の中にこのワゴンを運び入れたんだ?ドアを開けたら廊下と言えそうな空間は、半畳ほどのスペースがあるだけだ。もし半畳に入ったとしても、どうやってそれで食事をするというのか。ワゴン周りに立つことすらできない。ベッドに正座して食べるのは、なんとかできるだろう。だがもう一人はどうする? トイレの便座に座って食べるか? 便所飯か?
しかしバスルームの扉は外開きだ。ユニットバスルームに入っていてワゴンが運び込まれたら、とんだ密室の出来上がり。とんだサイコホラーのワンシーンだ。犯人はホテルマンか304号室の宿泊客だな。誰か死んだわけではないだろうけれども。
まじまじとワゴンを見ていて、ふと違和感を覚えた。大きな皿が三枚。小さな皿が二枚。皿の蓋が三枚。ワゴンに乗っているのはそれだけだ。
どうやって食べたのだ、304号室の人物は。手づかみか? シティーホテルで手づかみでルームサービス。もうわけが分からない。それはプアなのか、リッチなのか。
そうだ、ホテルの人間に聞けばいいのだ。外出しようとしていたのを中断して部屋に戻り、ベッドのヘッドボードに置いてある電話でフロントにかけた。
「はい、フロントでございます」
「あの、ルームサービスやってますか?」
「は?」
「あの、ルームサービス……」
「恐れ入りますが、当ホテルではご用意いたしておりません」
「そうですよね、はは……。なんでもありません」
受話器を置いて頭をかきむしった。ホテルマンに「は?」と言われるような馬鹿な質問をしたぞ、私は。
こんな安ホテルでルームサービスがあるわけがないじゃないか。
ドアからそっと顔を出して隣の部屋をうかがう。変化はない。
と、その時一人の青年が私の部屋の前を駆け過ぎ304号室の前で止まった。呼び鈴を鳴らすと、低くきしんだような不安をかきたてるチャイムが鳴って、ドアが中から開けられた。出てきたのはあごひげを蓄えサングラスをかけ、赤いキャップを被った太った中年男だった。
「遅いぞ!」
「すみません、コンビニがなくて」
「それでカトラリーはあったのか」
「あの、これが……」
青年は袋から割り箸を取り出した。
「ばっかもーん! どこの世界にルームサービスを割り箸で食う奴がいるんだよ! シルバーだろ、シルバー! 銀食器だよ! いや、もうこうなったらスチールでもいい。銀色のナイフとフォークがなきゃ、恐くもなんともないだろ! お前が撮りたいのはホームドラマか? 俺が撮りたいのはサイコホラーなんだよ!」
「すみません、監督! もう一回行ってきます!」
青年はものすごい勢いで走っていった。その背中をぽかんと見ていた私に、監督と呼ばれた中年男が話しかけてきた。
「お騒がせしてすみませんね。映画の撮影なんですよ。『恐怖の304号室、血染めのバスローブは何を見た!?』っていう傑作でね」
「それで、カトラリーをお探しですか」
「そう。銀器を注文したんだが間に合わなくて」
私は部屋にひっこみ、すぐにアタッシュケースをひっつかんでルームサービスのワゴンの上に中身を広げてみせた。
「銀器です! ナイフ、フォーク、スプーン、燭台、ティーポットもあります!」
監督は大きく両手を開いてから頭を抱えるというオーバーアクションで喜びを示した。
「なんてこった。あなた行商ですか」
「はい、銀器をデパートに卸しております」
監督は銀器をごっそり、言い値で買ってくれた。私は幸運に舞い上がって、つい聞いてしまった。
「サイコホラーなら、404号室のほうがそれっぽい数字じゃないですか?」
監督は悲しそうに答えた。
「そうだが、このホテルは3階建てじゃないですか」
私はバターナイフを一本、おまけにつけてあげた
この薄汚れたホテルで目にするものではあり得なかった。
いや、おそらく一生、実物を目にすることはないだろうと思っていた、ルームサービスのワゴンが304号室の前の廊下に鎮座していた。
糊のきいた白いテーブルクロスが銀色のワゴンにかけられ、その上に真っ白な大きな皿が三枚、小さな皿が二枚、皿の蓋であろうドーム型の銀色のものが三枚重ねて置いてある。
つまり、こういうことだろう。三枚の大皿に三つの蓋が被せられ、二枚の小皿と共に部屋に運ばれ、何者かが大皿に乗っていた料理を二枚の皿にとって食べた。つまり、この304号室には二人の人間が宿泊している……のだろうか。
このホテルは全室シングルルームのはずだ。現に私が泊まっている305号室は狭いシングルだ。シングルベッドと言えなくもない寝返りもうてないほど狭いベッド、膝を抱かないと入れないバスタブ、尻を拭くのもままならない狭いトイレだけのシングルルームだ。まさかそこに二人の人間が泊まっているとは思えない。私の部屋と304号室、303号室の間の距離を歩数で数えてみた。三つの部屋はきっちり同じ狭さだ。
そもそもどうやって部屋の中にこのワゴンを運び入れたんだ?ドアを開けたら廊下と言えそうな空間は、半畳ほどのスペースがあるだけだ。もし半畳に入ったとしても、どうやってそれで食事をするというのか。ワゴン周りに立つことすらできない。ベッドに正座して食べるのは、なんとかできるだろう。だがもう一人はどうする? トイレの便座に座って食べるか? 便所飯か?
しかしバスルームの扉は外開きだ。ユニットバスルームに入っていてワゴンが運び込まれたら、とんだ密室の出来上がり。とんだサイコホラーのワンシーンだ。犯人はホテルマンか304号室の宿泊客だな。誰か死んだわけではないだろうけれども。
まじまじとワゴンを見ていて、ふと違和感を覚えた。大きな皿が三枚。小さな皿が二枚。皿の蓋が三枚。ワゴンに乗っているのはそれだけだ。
どうやって食べたのだ、304号室の人物は。手づかみか? シティーホテルで手づかみでルームサービス。もうわけが分からない。それはプアなのか、リッチなのか。
そうだ、ホテルの人間に聞けばいいのだ。外出しようとしていたのを中断して部屋に戻り、ベッドのヘッドボードに置いてある電話でフロントにかけた。
「はい、フロントでございます」
「あの、ルームサービスやってますか?」
「は?」
「あの、ルームサービス……」
「恐れ入りますが、当ホテルではご用意いたしておりません」
「そうですよね、はは……。なんでもありません」
受話器を置いて頭をかきむしった。ホテルマンに「は?」と言われるような馬鹿な質問をしたぞ、私は。
こんな安ホテルでルームサービスがあるわけがないじゃないか。
ドアからそっと顔を出して隣の部屋をうかがう。変化はない。
と、その時一人の青年が私の部屋の前を駆け過ぎ304号室の前で止まった。呼び鈴を鳴らすと、低くきしんだような不安をかきたてるチャイムが鳴って、ドアが中から開けられた。出てきたのはあごひげを蓄えサングラスをかけ、赤いキャップを被った太った中年男だった。
「遅いぞ!」
「すみません、コンビニがなくて」
「それでカトラリーはあったのか」
「あの、これが……」
青年は袋から割り箸を取り出した。
「ばっかもーん! どこの世界にルームサービスを割り箸で食う奴がいるんだよ! シルバーだろ、シルバー! 銀食器だよ! いや、もうこうなったらスチールでもいい。銀色のナイフとフォークがなきゃ、恐くもなんともないだろ! お前が撮りたいのはホームドラマか? 俺が撮りたいのはサイコホラーなんだよ!」
「すみません、監督! もう一回行ってきます!」
青年はものすごい勢いで走っていった。その背中をぽかんと見ていた私に、監督と呼ばれた中年男が話しかけてきた。
「お騒がせしてすみませんね。映画の撮影なんですよ。『恐怖の304号室、血染めのバスローブは何を見た!?』っていう傑作でね」
「それで、カトラリーをお探しですか」
「そう。銀器を注文したんだが間に合わなくて」
私は部屋にひっこみ、すぐにアタッシュケースをひっつかんでルームサービスのワゴンの上に中身を広げてみせた。
「銀器です! ナイフ、フォーク、スプーン、燭台、ティーポットもあります!」
監督は大きく両手を開いてから頭を抱えるというオーバーアクションで喜びを示した。
「なんてこった。あなた行商ですか」
「はい、銀器をデパートに卸しております」
監督は銀器をごっそり、言い値で買ってくれた。私は幸運に舞い上がって、つい聞いてしまった。
「サイコホラーなら、404号室のほうがそれっぽい数字じゃないですか?」
監督は悲しそうに答えた。
「そうだが、このホテルは3階建てじゃないですか」
私はバターナイフを一本、おまけにつけてあげた