オーロラの下、祈る
文字数 1,317文字
壁に貼ったオーロラの写真だけが生きる糧だった。
旅行会社のパンフレットを切り抜いただけの写真。擦り切れて色もなくなった。
毎日、見上げていた。
父に体をまさぐられながら。
母は私が十二の時に消えた。
それからすぐ私は初潮を迎えた。
私の血の色を見た父は、私を組みしいた。
父は抵抗する私の顔を、腫れて形がわからなくなるほどに殴ったから、私はただ怯えることしか出来なかった。
うちは貧しい。父も弟も働かないから。
私が見ず知らずの男の下で、足を開いて金を稼ぐ。
街で金づるの男を漁っている時に見つけたのだ。
あお、みどり、しろい光。
なんて不思議なものだろう。
雲を知らない人が初めて雲を見たら、きっとこんな気持ちになるだろう。
私はパンフレットを胸に、家に帰った。
その時から私に「夢」というものができた。
オーロラの写真を見上げながら、そこに行くんだ、あの空を見るんだと、歯をくいしばり夜を耐えた。
先月、弟が消えた。
シンナーで歯がぼろぼろになっていて無一文だったから、どこかで冷たくなっているだろう。けれど、探そうとは思わなかった。
私が壁の写真を見つめて父に揺さぶられている時、弟は襖の影から私の股間を盗み見ていたから。
破瓜から六年、私は父の体の下で「あ」と声をあげてしまった。
その時に決めた。
父を殺そうと。
オーロラの写真を見つめながら、今夜が最後なのだからと歯を食いしばった。
それが終わった時には、深更になっていた。
思うさま私をなぶり、酔っ払い寝てしまった父の胸に、包丁を突き立てた。
刃は抜くな。血が飛び散る。
いつだったか、私を抱いた後にそう教えた男がいたっけ。
私にはもう家はなかった。この世のどこにも、私を縛る家はなくなった。
壁から写真を剥がし胸に抱く。
今なら行ける。この場所へ。
だけど、家中のお金をかき集めても、写真の場所、遠いこの国へ行ける額に足りはしない。
それでも。
それでも、私は出来る限り北へ、北へ向かった。
何本も電車を乗り継いだ。
途中、誰かが読んでいた新聞のすみに、父の遺影が載っていた。
見つかったってかまわない。
私はもう、どこにいても自由なのだから。
それでも私の足は北へ、北へ。
とうとう、最北端と言われる地へたどり着いた。
岸壁から見る波は荒く、
降りかかる雪は、激しく私の背中を押す。
この海の向こうに、わたしの夢がある。この海のすぐ向こうに。
崖から最期の一歩を踏み出そうとした時、空にふしぎな雲を見つけた。
鉛色の空に、そこだけ白く、ゆらゆらゆれる雲。
見つめていると、雲は徐々に広がっていき、青くたゆたう光にかわった。
「オーロラだ……!」
天の女神のヴェールがひらひらと踊るような。
みどりから、あお、しろ、ももいろ。
呼吸にあわせて波打つ静寂。
光が生きて、踊っていた。
オーロラが消えるまで、ただ黙って何時間も見つめていた。
いつしか私は泣いていた。
警官に取り押さえられた時には、すでに涙は枯れていた。
けれど私のまつげには、涙の滴が凍りつき、まばたくと世界はきらきら輝いた。
今、生まれてはじめて祈る。
誰も痛い思いをしませんように。
誰も飢えて寒い思いをしませんように。
誰も消えてなくなりたくなんて、なりませんように。
この空の下すべてのものの幸せを祈った。
心から。
旅行会社のパンフレットを切り抜いただけの写真。擦り切れて色もなくなった。
毎日、見上げていた。
父に体をまさぐられながら。
母は私が十二の時に消えた。
それからすぐ私は初潮を迎えた。
私の血の色を見た父は、私を組みしいた。
父は抵抗する私の顔を、腫れて形がわからなくなるほどに殴ったから、私はただ怯えることしか出来なかった。
うちは貧しい。父も弟も働かないから。
私が見ず知らずの男の下で、足を開いて金を稼ぐ。
街で金づるの男を漁っている時に見つけたのだ。
あお、みどり、しろい光。
なんて不思議なものだろう。
雲を知らない人が初めて雲を見たら、きっとこんな気持ちになるだろう。
私はパンフレットを胸に、家に帰った。
その時から私に「夢」というものができた。
オーロラの写真を見上げながら、そこに行くんだ、あの空を見るんだと、歯をくいしばり夜を耐えた。
先月、弟が消えた。
シンナーで歯がぼろぼろになっていて無一文だったから、どこかで冷たくなっているだろう。けれど、探そうとは思わなかった。
私が壁の写真を見つめて父に揺さぶられている時、弟は襖の影から私の股間を盗み見ていたから。
破瓜から六年、私は父の体の下で「あ」と声をあげてしまった。
その時に決めた。
父を殺そうと。
オーロラの写真を見つめながら、今夜が最後なのだからと歯を食いしばった。
それが終わった時には、深更になっていた。
思うさま私をなぶり、酔っ払い寝てしまった父の胸に、包丁を突き立てた。
刃は抜くな。血が飛び散る。
いつだったか、私を抱いた後にそう教えた男がいたっけ。
私にはもう家はなかった。この世のどこにも、私を縛る家はなくなった。
壁から写真を剥がし胸に抱く。
今なら行ける。この場所へ。
だけど、家中のお金をかき集めても、写真の場所、遠いこの国へ行ける額に足りはしない。
それでも。
それでも、私は出来る限り北へ、北へ向かった。
何本も電車を乗り継いだ。
途中、誰かが読んでいた新聞のすみに、父の遺影が載っていた。
見つかったってかまわない。
私はもう、どこにいても自由なのだから。
それでも私の足は北へ、北へ。
とうとう、最北端と言われる地へたどり着いた。
岸壁から見る波は荒く、
降りかかる雪は、激しく私の背中を押す。
この海の向こうに、わたしの夢がある。この海のすぐ向こうに。
崖から最期の一歩を踏み出そうとした時、空にふしぎな雲を見つけた。
鉛色の空に、そこだけ白く、ゆらゆらゆれる雲。
見つめていると、雲は徐々に広がっていき、青くたゆたう光にかわった。
「オーロラだ……!」
天の女神のヴェールがひらひらと踊るような。
みどりから、あお、しろ、ももいろ。
呼吸にあわせて波打つ静寂。
光が生きて、踊っていた。
オーロラが消えるまで、ただ黙って何時間も見つめていた。
いつしか私は泣いていた。
警官に取り押さえられた時には、すでに涙は枯れていた。
けれど私のまつげには、涙の滴が凍りつき、まばたくと世界はきらきら輝いた。
今、生まれてはじめて祈る。
誰も痛い思いをしませんように。
誰も飢えて寒い思いをしませんように。
誰も消えてなくなりたくなんて、なりませんように。
この空の下すべてのものの幸せを祈った。
心から。