追善能
文字数 2,132文字
楽屋口から駐車場に出ると、門が閉められ警備員が立っていた。駐車場の門の向こうには、ぎっしりと無数の人が詰め寄せている。一体何事だろう、何かあったのだろうか?
「あの、車を出したいんですが」
警備員に話しかけると、彼はビックリして振り向き、かなり大きな声で言った。
「あんたたち、能楽堂の人!? 今、車出すのは無理だよ!! 花火が終わるまで待って!」
そうか。今日は8月1日。大濠公園花火大会の当日だ。街の中心部で開かれるこの花火大会のために交通規制が行われることを失念していた。
言われてみれば、門の向こうの人達は色鮮やかな浴衣に甚平、サンダル、団扇、水ヨーヨー。ざわざわと聞こえる喧騒の中に、明るい笑い声が目立つ。
「すみません、吾郎さん。オレがいつまでも稽古してたから……」
振り返ると、省平君は肩をすくめて俯いている。
「いや、構わないよ。急ぐこともない。楽屋にでも居させてもらおう」
大濠公園能楽堂は県営なので時間制限に厳しい。予約していた時間を過ぎると、一秒の猶予もなく電気はすべて消されてしまう。私たちが出てきた時にはすでに真っ暗で、夜警のおじさんから渋い顔をされた。
事務所に顔を出しておじさんに断り、楽屋に入れてもらった。電気をつけなければ居て良いととのこと。助かった。一番奥の楽屋なら窓の障子を開ければ公園の明かりが入るだろう。
冷房はとっくに切ってあるのに、ひいやりした空気がどこからか漂ってくる。窓の外、水銀灯の光が入り、畳敷きの楽屋の中は薄っすらと青い。
腰を落ち着けても、省平君は変わらず肩を落としたままだ。初めての経験で緊張している彼に、何か力づけるようなことを言ってやるべきなのだろうが、そういう気分にはなれなかった。
私が大先生から最後に教わったのが「翁 」だったので、この舞台でも翁のシテを舞う。若輩の身に重責が軋みを上げて圧し掛かる。
ふと見ると、省平君が座ったまま舞っている。彼の熱心さが、今は妬ましくさえある。
「とうとうたらりたらりら」という翁の歌いだしの意味を、私は能楽堂での通しが終わったというのに、未だに掴めていなかった。結局、最後まで大先生は、その意味を教えてはくれなかった。
兄弟子たちに尋ねても「大先生が教えないことを勝手に教えるわけにはいかない」と言われるだけだ。それは、重々、承知のこと。
だが、今日の申し合わせが終わり、本番は4日後だ。このまま舞台を迎えるわけにはいかない。
いつの間にか袴の下で握った拳は汗をかいていた。
省平の手が左右する。彼の頭の中で「熊野 」が終わりに近づいているらしい。
彼は大先生の最後の直弟子で、入門から間がない。今回の追善能が初舞台となる。番組は「仕舞 熊野 」。
幼い頃から能が好きだったが家が貧しかったため習い事などできず、働きだして自分で稼いだお金で教わっている。
その情熱は稽古中にもよく見てとれる。私は彼の一足から火が立つのではないかと、いつも恐れる。
私と大して年が違わないが、扇を握る彼の荒れてゴツゴツとした手を見ると、自分の生白い手を恥ずかしいと感じてしまう。
たまたま能楽師の家に産まれただけで、私は能を愛していないのではないだろうか。少なくとも、彼ほどには。
彼のひたむきな爆発するほどの愛情こそ、能を演じるものに必要なものではないだろうか?
ぐらん、と頭が揺れるほどの衝撃を受けた。同時に窓の外が朱に染まる。
一発目の花火が上がったのだ。
あまりに近すぎて、爆発音が衝撃として体に突き刺さってきた。
窓の外、橙、赤、黄、と光が姿を代え、ぱらたたたた……という残響を残して闇が戻ってくる。
またすぐに、衝撃、光。腹に響く轟音を次々と感じながら、幼い頃、この場所で大先生と、今日と同じようにして花火を見たことを思い出した。
花火が終わる寂しさに「もっと続けばいいのに」と呟いた私に大先生が仰った。
「吾郎、能は花火の後の余韻だ。ドン、と開いた後のぱらたたたと言う小さな音。次々上がる花火の合間には、けして聞こえない音。この美しさなんだ。今は花火を楽しむといい。けれど、大人になったら花火の余韻を味わえるようになりなさい」
私はわけもわからず「はい」と答えた。果たして私は今、花火の余韻を楽しめるのだろうか?
色とりどりの影が楽屋の畳の上を舞い散り、あっという間に最後の一つが打ちあがった。
「ぱらたたた」
「翁ですか?」
知らず呟いていた私に、省平君が尋ねた。私は聞き返す。
「翁?」
「今、とうとうたらり、って言いませんでした?」
「いや……どうだろう」
いったい私はなんと呟いたのだったか、ぼうっとした頭から零れ出た言葉を、今ではもう覚えていない。
「俺にはそう聞こえました。もう一度聞きたいですが……、もう能楽堂を出ないといけませんね」
私は寂しげな省平君の顔をまじまじと見つめる。そうか。答えはここにあったのか。大先生は、とっくの昔に私に教えてくださっていたのか。
私は黙ったまま笑って見せると、窓の外に目をやった。今はもう真っ黒に戻った夜空に、光が静かに消えて、なお、花火の姿は目の前に広がる。
目を瞑り心に刻んだ。もう二度と、消えていった花の姿を忘れることのないように。
「あの、車を出したいんですが」
警備員に話しかけると、彼はビックリして振り向き、かなり大きな声で言った。
「あんたたち、能楽堂の人!? 今、車出すのは無理だよ!! 花火が終わるまで待って!」
そうか。今日は8月1日。大濠公園花火大会の当日だ。街の中心部で開かれるこの花火大会のために交通規制が行われることを失念していた。
言われてみれば、門の向こうの人達は色鮮やかな浴衣に甚平、サンダル、団扇、水ヨーヨー。ざわざわと聞こえる喧騒の中に、明るい笑い声が目立つ。
「すみません、吾郎さん。オレがいつまでも稽古してたから……」
振り返ると、省平君は肩をすくめて俯いている。
「いや、構わないよ。急ぐこともない。楽屋にでも居させてもらおう」
大濠公園能楽堂は県営なので時間制限に厳しい。予約していた時間を過ぎると、一秒の猶予もなく電気はすべて消されてしまう。私たちが出てきた時にはすでに真っ暗で、夜警のおじさんから渋い顔をされた。
事務所に顔を出しておじさんに断り、楽屋に入れてもらった。電気をつけなければ居て良いととのこと。助かった。一番奥の楽屋なら窓の障子を開ければ公園の明かりが入るだろう。
冷房はとっくに切ってあるのに、ひいやりした空気がどこからか漂ってくる。窓の外、水銀灯の光が入り、畳敷きの楽屋の中は薄っすらと青い。
腰を落ち着けても、省平君は変わらず肩を落としたままだ。初めての経験で緊張している彼に、何か力づけるようなことを言ってやるべきなのだろうが、そういう気分にはなれなかった。
私が大先生から最後に教わったのが「
ふと見ると、省平君が座ったまま舞っている。彼の熱心さが、今は妬ましくさえある。
「とうとうたらりたらりら」という翁の歌いだしの意味を、私は能楽堂での通しが終わったというのに、未だに掴めていなかった。結局、最後まで大先生は、その意味を教えてはくれなかった。
兄弟子たちに尋ねても「大先生が教えないことを勝手に教えるわけにはいかない」と言われるだけだ。それは、重々、承知のこと。
だが、今日の申し合わせが終わり、本番は4日後だ。このまま舞台を迎えるわけにはいかない。
いつの間にか袴の下で握った拳は汗をかいていた。
省平の手が左右する。彼の頭の中で「
彼は大先生の最後の直弟子で、入門から間がない。今回の追善能が初舞台となる。番組は「
幼い頃から能が好きだったが家が貧しかったため習い事などできず、働きだして自分で稼いだお金で教わっている。
その情熱は稽古中にもよく見てとれる。私は彼の一足から火が立つのではないかと、いつも恐れる。
私と大して年が違わないが、扇を握る彼の荒れてゴツゴツとした手を見ると、自分の生白い手を恥ずかしいと感じてしまう。
たまたま能楽師の家に産まれただけで、私は能を愛していないのではないだろうか。少なくとも、彼ほどには。
彼のひたむきな爆発するほどの愛情こそ、能を演じるものに必要なものではないだろうか?
ぐらん、と頭が揺れるほどの衝撃を受けた。同時に窓の外が朱に染まる。
一発目の花火が上がったのだ。
あまりに近すぎて、爆発音が衝撃として体に突き刺さってきた。
窓の外、橙、赤、黄、と光が姿を代え、ぱらたたたた……という残響を残して闇が戻ってくる。
またすぐに、衝撃、光。腹に響く轟音を次々と感じながら、幼い頃、この場所で大先生と、今日と同じようにして花火を見たことを思い出した。
花火が終わる寂しさに「もっと続けばいいのに」と呟いた私に大先生が仰った。
「吾郎、能は花火の後の余韻だ。ドン、と開いた後のぱらたたたと言う小さな音。次々上がる花火の合間には、けして聞こえない音。この美しさなんだ。今は花火を楽しむといい。けれど、大人になったら花火の余韻を味わえるようになりなさい」
私はわけもわからず「はい」と答えた。果たして私は今、花火の余韻を楽しめるのだろうか?
色とりどりの影が楽屋の畳の上を舞い散り、あっという間に最後の一つが打ちあがった。
「ぱらたたた」
「翁ですか?」
知らず呟いていた私に、省平君が尋ねた。私は聞き返す。
「翁?」
「今、とうとうたらり、って言いませんでした?」
「いや……どうだろう」
いったい私はなんと呟いたのだったか、ぼうっとした頭から零れ出た言葉を、今ではもう覚えていない。
「俺にはそう聞こえました。もう一度聞きたいですが……、もう能楽堂を出ないといけませんね」
私は寂しげな省平君の顔をまじまじと見つめる。そうか。答えはここにあったのか。大先生は、とっくの昔に私に教えてくださっていたのか。
私は黙ったまま笑って見せると、窓の外に目をやった。今はもう真っ黒に戻った夜空に、光が静かに消えて、なお、花火の姿は目の前に広がる。
目を瞑り心に刻んだ。もう二度と、消えていった花の姿を忘れることのないように。