人魚姫のカクテル

文字数 824文字

 目まぐるしく色が変わるネオンに照らされたネオンテトラは、はたして何色の皮をまとっているのかさえわからない。人間たちはそんな魚を見ながら熱に浮かされたように歩く。
 水族館はいつも暗く、ひやりとして、厚い壁の向こうの水の匂いがするようだ。

 登場人物は二人。私と彰彦。
 エキストラは、手を繋ぎクラゲに見入るカップル、遠足の幼稚園児たち、魚を見るより写真に納めることに夢中な女性たち。舞台は、ここ。水族館の中。
 幕が、上がる。

「ねえ、あなた鮫みたいね」

「鮫?」

「鮫にはエラがないから、泳ぎつづけていないと息が出来ないのよ」

「それは、どういう意味?」

 しばしの沈黙。幼稚園児たちがきゃあきゃあと楽しそうに舞台袖にハケる。

「あなたは泳ぎつづけていないと呼吸が出来ないんでしょう、女たちの間を」

「何を言ってるんだ? 僕にはわからない」

 カップル、腕を組み舞台下手へ消える。

「私がわかっているから、あなたはわからなくてもいいの。ただ、」

 女性たちが焚いたフラッシュが私と彰彦の目をきつく焼く。見えなくなる水、音さえも消し去って、私と彰彦は互いから切り離される。静寂と白い光が去ると、暗い穴蔵のような展示室が戻る。

「ただ、私は」

 私と彰彦は黙って舞台上手へ移動する。しゃれたバーカウンターが水槽の合間に突然現れる。私と彰彦はギムレットを頼む。カクテルグラスがバーのネオンを反射して魚のようにひらめく。

「知ってる?ギムレットの意味」

 私の科白に彰彦は頬を軽く歪ませる。私と彰彦はギムレットを飲み干す。

「長いお別れ」

 私は舞台に背を向けて歩き出す。彰彦はいつまでも、舞台上からハケて消え去れなかった水槽の前に立ち止まったまま、幕が下りる。

 日の光に目が眩む。ギムレットの軽い酔いが頬に朱を乗せる。甘い甘い本物の、ローズ社のライムジュースを使ったギムレットを思って私は歩きだした。
 ローズ社はすでに失われて久しい。けれど確かに誰かの胸に、まだ存在する幻のその味を思って。
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