第84話 バックヤード
文字数 2,058文字
望美に美術館のバイトを紹介してくれたのは学芸員課程の教官だった。本気で課題に取り組む望美を高く買ってくれたのだ。
「きっと勉強になるよ」
その一言が嬉しくて、内気でバイトなどしたことはなかった望美だが、何があっても頑張ろうと心に決めた。
バイト初日、与えられた仕事は冬期の県展の受付だった。美術館の嘱託職員の神崎さんと長机を並べて参加者の作品をじっと待つ。
「望美さんは学芸員を目指しているのかな?」
祖父と同じ年代の神崎さんに名前で呼ばれると緊張がとけていく。望美は素直にうなずいた。
「美術館の静かな空気が好きなんです」
神崎さんは面白いものを見た、という顔で望美を見た。
「それじゃ、バックヤードを見るのは楽しみだね」
「はい」
嬉しそうに笑う望美を見て、神崎さんはますます面白いといった風に目を細めた。
開館から三十分もすると出展者の列ができた。県内在住者なら誰でも応募できるので、やってくるのも年齢、性別、居住所、様々だった。
作品も絵画、書、銅像、彫刻、拙いものから手の込んだもの、古典的なものから近代的なものまで、なんでもある。そのひとつひとつに氏名と題名を書いた札をつけていく。
出品作は数多く、目が回るほど忙しかった。札をつけた作品は望美と同じ、短期バイトの男子学生達がバタバタと運んでいく。美術館の裏側がこんなに慌ただしいなんて思わなかった。望美は息つく暇もなく働いた。
昼休み、望美はバイト専用の休憩室になっている会議室に戻った。よく暖房がきいた会議室では男子達がすでに休憩していて汗臭かった。バイト仲間に女子はいない。望美はあからさまに眉をひそめないように努力した。
「望美ちゃん、オツカレー」
軽い調子で声をかけられ望美は愛想笑いで会釈する。
「望美ちゃんていくつ?」
「聖蘭女子だよね?」
「彼氏いるの?」
矢継ぎ早に繰り出される質問を曖昧にかわして望美はバッグを持って部屋を出た。昔から望美は騒がしい同年代の男子が苦手だった。
一人になりたくて暗い廊下に向かった。廊下に置かれた台車に腰かけて弁当を食べ終え、県展の作品をゆっくり見てみようと保管室に足を向けた。
保管室の中では昼休みを終えた男子達が働いていたが、望美に気付くと我先にと寄ってきた。また質問攻めにあった望美は身を縮めるようにして後ずさった。ひいている望美の姿に、数人の男子は離れてくれたが、しつこく残る者もいた。
「望美ちゃん、見て見てー」
残ったうちの一人の男子が女性の裸像の隣で同じポーズをしてみせた。望美の腹の底から怒りがわいた。出展者の大切な思いを踏みにじられたと感じた。だが何も言えずに望美は踵を返すと走って逃げた。
午後は憂鬱な気分で過ごした。仕事にも身が入らない。夕方、男子が一足先に帰ってしまってやっと息を吐けた。戻ってきた静けさの中、保管室で出展物のチェックをしている時、ひとつの書が目に留まった。
書などさっぱり分からない望美だが、その作品には強く惹かれた。優しさと、まっすぐな情熱を感じた。書に見入っていた望美に神崎さんが声をかけた。
「良い作品ですね。若い希望と決意が感じられます」
「決意ですか?」
「書の道に青春を捧げる覚悟が見えませんか?」
青春。出展者は若者だろうかと札を見た。
「えっ!?」
その名前は裸像の真似をしてみせた男子学生のものだった。望美は何度も作品と名前を見比べる。
「うそ……、彼がこんな作品を……」
「作品にはその人の全てが出ますね。普段は隠れている裏側の醜さも、美しさもね」
神崎さんの言葉は望びの心を揺さぶった。望美は書の中に男らしい力強さをも感じて、胸が高鳴るのを覚えた。
翌日、望美は恐る恐る自分から男子達に挨拶した。男子達は一瞬、驚いた顔をしたが、我先に望美のそばに寄ってきた。
「望美ちゃん、生理終わったの?」
「は?」
裸像の男子が突拍子もない言葉を口にした。
「昨日、機嫌悪かったじゃん。生理でしょ?」
「信じらんない!」
望美は怒鳴ってその場から駆け去った。
やっぱり男子なんかサイテー! もう一緒に仕事なんかしたくない!
周りも見ずに走っていた望美はロビーの近くで神崎さんとぶつかりそうになった。
「元気よく怒っていますね」
神崎さんの言葉に望美はぽかんと口を開けた。元気よくだなんて、まるで褒められたみたいだ。驚いたせいか、怒りは後悔に変わっていった。
「こんなに怒って、私、大人げない……」
急な感情の変化に、望美は泣きそうになる。
「いつもは怒りませんか?」
「はい、だって恥ずかしいもの」
「望美さんの裏側、発見。素敵ですね。美術館と同じで表側だけしか知らないとつまらないですから」
優しい笑顔でそう言うと、神崎さんは今日最初の出展者を出迎えるために扉を開けた。
吹き込む冷たい風が心にまで届く。自分をもっと知りたいと思った。美や愛や善。そういったもの以外の、自分の騒がしい愚かな汗臭い裏側も全部。
ここでならきっと見つけられる気がした。
生理の話をおおやけでするつもりだけは、なかったが。
「きっと勉強になるよ」
その一言が嬉しくて、内気でバイトなどしたことはなかった望美だが、何があっても頑張ろうと心に決めた。
バイト初日、与えられた仕事は冬期の県展の受付だった。美術館の嘱託職員の神崎さんと長机を並べて参加者の作品をじっと待つ。
「望美さんは学芸員を目指しているのかな?」
祖父と同じ年代の神崎さんに名前で呼ばれると緊張がとけていく。望美は素直にうなずいた。
「美術館の静かな空気が好きなんです」
神崎さんは面白いものを見た、という顔で望美を見た。
「それじゃ、バックヤードを見るのは楽しみだね」
「はい」
嬉しそうに笑う望美を見て、神崎さんはますます面白いといった風に目を細めた。
開館から三十分もすると出展者の列ができた。県内在住者なら誰でも応募できるので、やってくるのも年齢、性別、居住所、様々だった。
作品も絵画、書、銅像、彫刻、拙いものから手の込んだもの、古典的なものから近代的なものまで、なんでもある。そのひとつひとつに氏名と題名を書いた札をつけていく。
出品作は数多く、目が回るほど忙しかった。札をつけた作品は望美と同じ、短期バイトの男子学生達がバタバタと運んでいく。美術館の裏側がこんなに慌ただしいなんて思わなかった。望美は息つく暇もなく働いた。
昼休み、望美はバイト専用の休憩室になっている会議室に戻った。よく暖房がきいた会議室では男子達がすでに休憩していて汗臭かった。バイト仲間に女子はいない。望美はあからさまに眉をひそめないように努力した。
「望美ちゃん、オツカレー」
軽い調子で声をかけられ望美は愛想笑いで会釈する。
「望美ちゃんていくつ?」
「聖蘭女子だよね?」
「彼氏いるの?」
矢継ぎ早に繰り出される質問を曖昧にかわして望美はバッグを持って部屋を出た。昔から望美は騒がしい同年代の男子が苦手だった。
一人になりたくて暗い廊下に向かった。廊下に置かれた台車に腰かけて弁当を食べ終え、県展の作品をゆっくり見てみようと保管室に足を向けた。
保管室の中では昼休みを終えた男子達が働いていたが、望美に気付くと我先にと寄ってきた。また質問攻めにあった望美は身を縮めるようにして後ずさった。ひいている望美の姿に、数人の男子は離れてくれたが、しつこく残る者もいた。
「望美ちゃん、見て見てー」
残ったうちの一人の男子が女性の裸像の隣で同じポーズをしてみせた。望美の腹の底から怒りがわいた。出展者の大切な思いを踏みにじられたと感じた。だが何も言えずに望美は踵を返すと走って逃げた。
午後は憂鬱な気分で過ごした。仕事にも身が入らない。夕方、男子が一足先に帰ってしまってやっと息を吐けた。戻ってきた静けさの中、保管室で出展物のチェックをしている時、ひとつの書が目に留まった。
書などさっぱり分からない望美だが、その作品には強く惹かれた。優しさと、まっすぐな情熱を感じた。書に見入っていた望美に神崎さんが声をかけた。
「良い作品ですね。若い希望と決意が感じられます」
「決意ですか?」
「書の道に青春を捧げる覚悟が見えませんか?」
青春。出展者は若者だろうかと札を見た。
「えっ!?」
その名前は裸像の真似をしてみせた男子学生のものだった。望美は何度も作品と名前を見比べる。
「うそ……、彼がこんな作品を……」
「作品にはその人の全てが出ますね。普段は隠れている裏側の醜さも、美しさもね」
神崎さんの言葉は望びの心を揺さぶった。望美は書の中に男らしい力強さをも感じて、胸が高鳴るのを覚えた。
翌日、望美は恐る恐る自分から男子達に挨拶した。男子達は一瞬、驚いた顔をしたが、我先に望美のそばに寄ってきた。
「望美ちゃん、生理終わったの?」
「は?」
裸像の男子が突拍子もない言葉を口にした。
「昨日、機嫌悪かったじゃん。生理でしょ?」
「信じらんない!」
望美は怒鳴ってその場から駆け去った。
やっぱり男子なんかサイテー! もう一緒に仕事なんかしたくない!
周りも見ずに走っていた望美はロビーの近くで神崎さんとぶつかりそうになった。
「元気よく怒っていますね」
神崎さんの言葉に望美はぽかんと口を開けた。元気よくだなんて、まるで褒められたみたいだ。驚いたせいか、怒りは後悔に変わっていった。
「こんなに怒って、私、大人げない……」
急な感情の変化に、望美は泣きそうになる。
「いつもは怒りませんか?」
「はい、だって恥ずかしいもの」
「望美さんの裏側、発見。素敵ですね。美術館と同じで表側だけしか知らないとつまらないですから」
優しい笑顔でそう言うと、神崎さんは今日最初の出展者を出迎えるために扉を開けた。
吹き込む冷たい風が心にまで届く。自分をもっと知りたいと思った。美や愛や善。そういったもの以外の、自分の騒がしい愚かな汗臭い裏側も全部。
ここでならきっと見つけられる気がした。
生理の話をおおやけでするつもりだけは、なかったが。