第3話 見知らぬ女性は電話のベルを二度鳴らす

文字数 906文字

 現代において独身男性の一人暮らしの家で固定電話を置いている人は少数派ではあるまいか。
 母が「うちには電話権が余ってるんだから、固定電話でもつけときなさい。第一、固定電話があるほうが社会的信用があるってものよ」と言うので、仕方なく、そう仕方なく固定電話を家に置くことになった(だいたい、最近の若者ではないけれど、固定電話にかかってきた電話をとる、ということがストレス極まりない)。

 インターフォンとおなじくらいけたたましい音量で固定電話が鳴る。2回鳴ったところでぼくは受話器をとる。
「もしもし」とぼくが受話器越しに弱々しい声で言う。
 すると相手は挨拶も抜きに本題に切り込んできた。「いまあなたは厄介な状況に巻き込まれているようですね。吉と出るか、凶と出るかはあなた次第です。申し遅れました、私は叶環と言います。いいですか、『かのう・たまき』ですよ。いまからとても重要なことをあなたにお伝えします。あなたには大きめの黒のボストンバッグがあったはずです。あれに『大切なもの』だけを入れて、その家を出ていくことです。戻ることは許されていません。もちろん自由意志というものは存在します。私もそれは重々承知です。ただ、あなたがこの家に戻ってしまったその際は、あなたの身の安全は保証しかねます。ここまではいいでしょうか」

 ぼくは呆然としながら彼女の話を聞いていたけれど、まるで夢のなかで電話しているみたいだった。ぼくの身が危ない? 旅に出よ? もううちには戻ってくるな? 

叶環の声はつづく。「聞こえてますか? あなたが戸惑っていらっしゃることもわかります。これは二重の意味での『わかる』ですが、まぁそれはいいでしょう。とりあえず、その家を出て二度と戻ってこない。これは私の善意からのアドバイスです。それでは気をつけて」

 それきり受話器からは叶環の声は聞こえなくなった。「もしもし」と何度も呼びかけても一向に返事がない。やはり電話は切れたのだ。

 それにしても。それにしても、とぼくは腕組みをしながら考える。
 黒田正三に叶環、なんだかぼくの人生にドカドカと変な人たちが入り込んできたなぁ、と思いながら黒のボストンバッグを見やる。
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