あとがき

文字数 2,030文字


   あとがき

 トレメル村の事件にはまだ多くの謎が残されている。スライムの大量発生の原因についても自然発生説はまだ研究の余地が残っている。発生条件やトレメル村への進行ルートなど今後の調査が待たれる。ティムが駆け下りたルートについてもそうだ。被害状況や行方不明者の死亡状況など永遠の謎となる部分もある。トレメル村の事件は、今後も語られていくと思う。筆者も本書を執筆する上で先達の功績に大変助けられた。後世の研究家が本書を役立てていただければ幸いである。
 本書を書く上で大勢の方にお世話になった。取材を受けていただいた方々はもちろん、出版社、編集者、家族、先輩、特に本書を書くようすすめてくれたフェルグ聖国大学のオットー・ヤンケ先生(・・)にこの場を借りて感謝を述べさせていただく。そして事件で犠牲になった三十八名のご冥福をお祈りいたします。
 最後に本書を書こうと思った理由を述べたいと思う。
 一言で言えば祖母のためである。
 祖母は事件の当事者でありながら蚊帳の外にいた。何も知らず、何が起こったのかもわからぬまま友人を失い、恐ろしい体験を過ごさねばならなかった。祖母の知りたかったこと、見たかったもの、聞きたかったものを拾い集めた結果がこの本になった。もしかしたら、祖母が失ったものが何かを再確認したかったのかもしれない。
 祖母は娘に幼くして別れた友達の名前を付けた。
 母は筆者に祖母の名前を与えた。
 祖母の代理人としての役割を果たせたかどうかは本書を読んでいただいた皆様の判断にゆだねたいと思う。

 災厄の泥によって祖母は人生を大きくねじ曲げられた。事件後に家族ともども村を離れ、州都ノ-エンドルフに移住した。曾祖父は代々の家業を捨てて横丁にパン屋を始めた。開店当初は左前だったそうだが、曾祖母と祖母が様々なアイデアを出したおかげで店はだんだんと客足が増えていった。
 やがて祖母が成長しパン屋を継ぐと、婿を取って子を産み、孫が生まれ、一八八四年万緑月十六日に天寿を全うした。
 祖母の後半生は平穏なものだった。事件らしい事件も起こらず、世情の混乱も無縁に過ごした。少なくとも孫の目からはそう見えていた。ただ一回だけ、とても大きな事件が起きたのを見たことがある。最後にその話を紹介して本書を締めくくりたいと思う。
 筆者が七歳の時である。春先の暖かい日だったように記憶している。祖母とともに実家のパン屋『メイプル』で店番をしていた。昼下がりで客の姿もなく、祖母はカウンターの中で『シュテルンベルグ館殺人事件』のペーパーバックを読み、父は店の奥でパンの仕込みをしていた。筆者は祖母の隣で、カウンターで頬杖をつきながら襲って来る眠気と戦っていた。その時、扉に付けたベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
 筆者が反射的にそう言いながら顔を上げると、そこに祖母と同じ年頃のご婦人が立っていた。年相応に目や口元にしわを刻んではいるが、翡翠色の瞳や形の良い薄い唇は幼心に惹きつけられるものを感じた。肌は長年日焼けした褐色に照っている。手に小さな白いカバンを下げ、ギャルソンヌの黒いドレスに黒いツバの広い帽子を外すと、絹糸のように白い髪を手で撫でつけながらカウンターに近づいてきた。腰をかがめて筆者を見下ろすと、微笑ましいものでも見るような笑顔で言った。
「ここは『メイプル』でいいのかしら」
 わずかに磯の香りがした。
「そうです」と答えようとした時、ぱさりと地面に落ちる音がした。振り向くと、隣に座っていた祖母がいつの間にか立ち上がり、本を取り落としたところだった。目に涙をため、口元を両手で押さえながらもどかしげにカウンターから出るとご婦人を抱きしめた。ごめんなさい、ごめんなさい、と謝りながら泣きじゃくった。その姿は当時の筆者よりも幼く見えた。
 ご婦人は片手で祖母の背を撫でると、もう片方の手でカバンをカウンターの上に置き、器用な手つきで開けた。中から取り出したのは小さなビンだった。中に入るのは飴色の粘っこそうな液体のように見えた。ご婦人は祖母にビンを差し出した。
 祖母はビンを両手で受け取ると、ビンをカウンターの上に置き、フタを開けた。
 ハチミツの甘い香りがした。                                          ヴィクトリア・E・フォーベック











『フォーベックの未発表の原稿発見』
「昨年、水難事故により他界したノンフィクション作家・ヴィクトリア・E・フォーベックの自宅より未発表の原稿が見つかった。調査途中のメモや書きかけの原稿に混じって、デビュー作である『The crawler トレメル村怪死事件の真実』の未発表部分もあるという。出版社は遺族と相談の上、公表するかどうか判断すると述べている」
      (『ザガリアル・タイムズ』(聖暦一九三八年 夏雲月十六日号より)
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