序章

文字数 4,160文字


   序章

 フンボルト州の名物と言えばリミノに尽きる。
 リンゴに似た果実だが皮は柔らかく、味はむしろ桃に近い。
 かじると淡い緑色の果汁がしたたり落ちる。焼き菓子に混ぜても美味い。

 かつては州の森のあちこちに生えていたが、現在では天然のリミノの樹はほとんどお目にかかれない。市場に出荷されているのは、ほぼ果樹園で育てられたものだ。たたでさえ乱獲により収穫量が落ちていたところにとどめを刺したのが、高速道路の建設による森林伐採である。

 ヴィルッダ州からフンボルト州を抜ける高速道路の計画が立てられたのは聖暦一八六四年、今から三十五年前の話である。フェルグ聖国南西部から南東部へ、国境付近まで六時間で通り抜けられる道路として建設省など政府関係者からは経済・流通の面で期待を寄せられていた。そこから土壌汚染の発覚とその対策、環境保護・議会・予算・反対運動と大規模な公共事業にお決まりのイベントを一通りこなしつつ着工に入ったのは、十年後の一八七四年夏雲月の六日のことである。
 州の間には、峻厳なライヒヴァイン山脈が横たわっている。
 標高百フート(約六〇〇メートル)を超える山がいくつも並んでいる。当然、工事は難航を極めた。工事の詳細については、本文と関係がないのでここでは措くが、工事にはいくつかの難所が立ちはだかった。

 そのうちの一つがトレメル山である。標高約一〇七二フート(一七一五m)、ブナ、カシ、黒スグリ、マロニエ、ラトリス、ミズナラ、リンデ、ヤドリギと豊富な樹木の生える場所であるが、山の中腹より上からは木々も少なく、灰色の岩肌が露出している。ここが難所になった理由は、山肌がもろくて耐えきれそうにないのと、斜面の角度が急なため、柱の建設位置が決まらなかったためだ。二度の計画変更の後、トレメル山を迂回して中腹にある平地に柱を作ることになった。
 聖暦一八七六年新生月の二十七日、基礎工事のために掘削作業をしていたところ、工事作業員が奇妙な物を掘り返した。

 巨大な岩である。四角く削られていて、ノミか何かで削った跡もある。明らかに人工物だった。
 工事現場のあたりは、旧トレメル村の地域である。
 自然に埋まっていたのではなく、人為的に埋められた痕が残っていた。
 当初、作業員の報告を受けた現場監督はその朝、市場で買ったリミノをかじりながら苦い顔をしたという。聖国の建築法第三十七条付帯事項「旧遺跡等歴史的遺物ニオケル保存保護ニツイテ」では、旧帝国より以前の遺跡や遺構を発見した場合、歴史保存局に届ける義務があるからだ。ただでさえ計画変更で工期が遅れているのに、これ以上面倒事を増やしたくない、というのは人情であろう。岩なのだから粉々に砕いてしまえばわかりはしない。あとは現場のスタッフに酒でも飲ませておけば、ばれはしないだろう。どうせただの石灰岩だ。第二式程度の魔法でも砕くことは十分に可能だった。
 半ば本気で魔導杖に力をこめた現場監督だったが、掘り返された岩の表面を見た瞬間、気が変わった。
 岩にはこう刻まれていた。 

 『災厄の泥に呑まれた三十八人の犠牲者の冥福を祈る』

 岩は慰霊碑だった。
 現場監督はあわてて魔法式を止め、本社に報告するべく無線機を手にした。呪われる、と思ったらしい。面倒臭がりであったが、信心深い男でもあった。フンボルト州近辺には、用足しの前に声をかけないと黒い妖精が便座の中に引きずり込むという迷信があり、五十を超えても口笛を吹きながらトイレに行っていたという。

 歴史の闇に埋もれていたトレメル村の惨劇、通称『トレメル村事件』はこうして再び日の目を見ることになった。
 慰霊碑が発見された当初は、新聞や雑誌がこぞってかつての事件を取り上げた。歴史学者の中にもフェルグ聖国大学准教授(現・教授)オットー・ヤンケや、ホーエンツォレアン国際大学教授メーメット・ゲストヴィッツのように論文を執筆した人もいる。
 トレメル村で巻き起こった惨劇については、既に多くの方がご存じだろう。ラファエル・ヴィルト『トレメル村の悲劇』、イェローム・テルバッハ『真実のトレメル村』、ベリエス・ステアンコプフ『三十八人はなぜ死んだのか? トレメル村の悲劇を辿る』、メーメット・ゲストヴィッツ『災厄の泥がもたらしたもの』など、事件を取り上げた著書も出版されている。
 トレメル村の事件はフィクションの世界にも多大な影響を与えた。オリーヴィア・リチウスは、トレメル村の事件を題材にしたホラー小説『首くくりの少女』を発表し、アマデオ・プレートはミステリー小説『死と戯れる』の作中でこの事件を取り上げている。村や被害者の名前は変えてあるが、村の地形や環境、一部被害者の死亡した状況は明らかにトレメル村がモデルである。
 認知度の高い事件である反面、その知識の正確さには疑問符を付けざるを得ない。世間ではトレメル村事件に関する多くの誤解が広まっている。憶測や偏見、デタラメ、記憶違い、証言者の記憶違い、無知による偏見など、事実でないものが多々含まれているのもまた事実である。
 事件の犠牲者を無能や愚か者よばわりする心無い誹謗中傷も多い。
 資料をよく読み、また当時の事情を鑑みれば、見当外れの批判ばかりだとすぐにわかるというのに。
 すでに事件から七十年以上が経過している。事件の当事者や、事件を直接見聞きした人もほとんど他界している。事件そのものも、またその原因についても今では風化したもの、ととらえる向きもあるだろう。だが、筆者はそうは思わない。この事件にはまだ我々が学ぶべきこともまだ残されている。
 本書では記録や関係者の証言を元に事件を再構成し、あらためて時系列順に経過を追いながら、世間に広まっている誤解も訂正していく。なお、本文中に記載されている年齢は全て事件当時のものである。
  
 本書を執筆にするにあたって、筆者は多くの幸運に恵まれた。中でも一番大きな幸運は、大勢の方にお世話になったことだろう。執筆にあたり、事件の関係者やそのご遺族など百人近くの男女からお話を伺った。特に『トレメル村事件』の生存者であるクラリッサ・ロイス氏(旧姓クラリッサ・ショルツ)、エーリッヒ・カウフマン氏からお話を聞くことができたのは僥倖だった。お二人とも事件の際は七歳と十二歳だったが、事件の日のことは今も鮮明に覚えているという。お二人からは当事者しか語りえない、生々しい証言をお聞きした。詳細は本文にて語る。
 また、取材を続けるうちに事件について今まで口を閉ざしていた方から「会って話がしたい」という旨の手紙をいただいた。差出人の名前はアルマ・ヴィーグ氏。事件の生存者の一人で、やはり彼女しか知りえない事実を語ってくれた。取材時は入院しており、お話を伺ったのはほんの数十分程度だったが、貴重な時間を過ごせたと思う。
 氏は取材から四か月後に心筋梗塞のため、亡くなられた。氏とは知人の分を含めて三冊、お届けする約束をしていた。完成した本書をお見せできなかったことが残念でならない。 
 また本書を書く上で貴重な資料にも当たることができた。州軍の活動記録や当時の報道はもちろん『コルネリウスの手記』も拝読することができた。事件の公式報告書をまとめ、作成したフンボルト州軍の調査室主任テオドール・コルネリウス准尉(調査当時の階級)の個人的な手記である。
 コルネリウス准尉は、調査局長の命によりトレメル村の事件を調査している。実際にトレメル村を回って当時の状況を確認し、百人以上の生存者からの聞き取り調査も行い、事件の経緯とその対策までを公式の報告書として提出している。通称『コルネリウス報告書』である。原本は現在も州軍の特別資料室に補完されている。
 間違いなく『トレメル村事件』第一級の資料だ。だが、報告書に書かれたことが全てではない。意図的あるいはコルネリウスが不要と判断して報告書に載せなかった『事実』も存在する。
 コルネリウス准尉は報告書を書いた際の下書きや没原稿、村で回収した資料、あるいは聞き取りの際のメモや、それを聞いた自身の感想などの書類を捨てることなく、まとめて保管していた。その書類一式を研究者の間では『コルネリウスの手記』と呼んでいる。
 それまで存在は知られていたものの、一八四四年のコルネリウス家の火災で焼失したものと思われていた。
 それが発見されたのは二年前である。発見にはお恥ずかしながら、筆者も関わっている。
 本書執筆のため筆者は、テオドールの孫にあたるウーリ・コルネリウス氏に取材を手紙にて申し入れた。ウーリ氏は快諾して下さった。事前準備として、氏が祖父の遺品を整理していた際に偶然見つけたのだという。テオドール氏によると、准尉は火災で焼け残った荷物を木箱にまとめて倉庫の奥に押し込んでいたそうだ。そのまま四〇年以上も放置されていたのだが、取材の手紙を見てその箱の存在を思い出されたという。
「先生にご協力するよう、祖父が天国から教えてくれたのかもしれませんね」
 ウーリ氏はそう苦笑されていた。孫には厳しい祖父であったらしい。スープの音一つ立てても叱責が飛んだそうだ。
 筆者としては先生と言われて恐縮するしかない。なぜならノンフィクションの執筆など本書が初めてであり、それまではいくつかの雑誌に雑文を書き散らすだけのライターに過ぎなかったからだ。
 筆者がなぜ本書を執筆するに至ったのか。その理由については最後に述べさせていただくとして、『コルネリウスの手記』(以下、必要に応じて『手記』と略す)には、これまで語られてこなかった事実も書いてある。中には故人の名誉を著しく損なうものもあった。本書ではそれらの事実にも触れている。
 誤解のないように言っておくが本書の目的は、故人の名誉の毀損でもなければ、刑法でも民法でも裁けないような犯罪を掘り返すためでもない。
 ましてやゴシップ誌のような扇情的な醜聞を暴き立てるつもりは毛頭ない。本書はあの時、トレメル村で何が起こったのかを知るための道標であり、筆者の建てたもう一つの慰霊碑である。
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