第二章 異変 上

文字数 3,447文字


 二章 異変

 最初の異変は北側の門付近で起こった。
 正確な時刻は定かではないが、その後の事態から夜の七時前後ではないかと、多くの研究者は推測している。
 四人の若者はその時、各自猟銃を携えながら交代で見張りをしていた。猟銃は村長から貸し与えられたものだ。村長宅では有事に備えて猟銃を何丁か予備として保管してある。
 クンツとジムソンは門の周囲を見回り、モリッツは門の前で北側の警戒、ティムは門の陰に隠れながら、猟銃をまるでぬいぐるみのように後生大事に抱えていたという。北の門の前にはランタンだけではなく、左右にはかがり火も焚かれている。門のすぐそばは深い森であり、森を縦断するようにして山頂へと続く道が通っている。
 北門の真上には見張り台代わりの小さな櫓が建てられていた。丸太と板で組んだ簡素なものである。それに登ればもっと見やすかったろうが、夜中ではさほど役に立たない。
 村の顔役たちの指示では、各自交代で仮眠をとりながら門の前で警護することになっていた。それを無断で変更したのはクンツである。「ただ待っていても退屈だから」「事前に熊を発見できれば、村に近づく前に始末することが出来る」というのが一応の理由だったそうだが、誰も信じてなどいなかった。クンツには、クララという娘に思いを寄せていた。クララはバルトの娘である。父親も倒せなかったような大熊を倒せば、クララもいやとは言うまい。そういう色気がらみの功名心もあったようだ。
 一応、二人一組の交代制ということになり、先行したのはクンツとジムソンの組である。
 クンツとジムソンは猟銃とランタンを持ちながら山頂へと続く道へ見回りに出た。首には熊笛も提げている。熊に出くわせば、すぐに吹き鳴らす手はずになっている。クンツもジムソンも出かけるときはかなり鼻息も荒く、「俺たちで熊を倒す」と息巻いていた。
 その二人が戻ってこなかった。
 見回りと言っても山頂へと続くなだらかな道を進み、森を抜ける辺りで戻ってくるだけである。夜の森に入っての探索など自殺行為だ。ほかの猟師たちからも強く止められている。そのため道の周りだけにしておこうと四人で(実質はティム以外の三人で)取り決めたばかりである。
 熊に出くわしたにしても銃声の一つはするはずだ。猟師のクンツもいる。二人同時に声一つ上げられずにやられたとは考えにくい。何か別のトラブルがあったのかも知れない。
 そう思ったモリッツはティムを捜索へ向かわせることにした。当然、彼は嫌がった。
「あの二人ならすぐに帰ってくるよ。それよりこっちに熊が出たらモリッツ一人で対応できるのか? 何かあったらどうするんだよ」
 それもそうか、と思い直したらしくモリッツはすぐに自案を取り下げた。
 代わりに別の提案をした。
「なら二人で探しに行くか」
 ティムはまた顔を青くした。
「持ち場はどうするんだよ」
「すぐに戻ればいいだけの話だ」
 実際、北門の辺りから森の出口まで三十分もかからない。往復でも一時間程度だ。そのくらいならいなくなっても支障はあるまい。
 なら応援を呼んだ方がいい、というティムの意見をモリッツは切り捨てた。
 北門を任されたのは自分たちである。クンツやジムソンもひょっこり戻ってくるかもしれない。まだ熊が出たともはっきりしないうちから応援を呼んでは腰抜けと呼ばれてしまう。俺はお前とは違うんだ。
 モリッツはそう言って歩き始めた。実を言えば、彼にも功名を得たい理由があった。妻のある身でありながら、別の娘とわりない仲になり、孕ませてしまったのだ。女房のタマラは眉毛の太い美人であるが気が強いばかりで恥じらいもなく、人前でも平気で屁をこいた。何より許せなかったのは食べ方である。食べこぼしが多く、食事の後、テーブルの上は野良犬が食い荒らしたかのようだった。連れ添ってまだ二年だが、既にうんざりしていた。出来れば女房と別れてそちらの娘と一緒になりたがっていた。けれど離婚すれば、悪評が立つ。狭い村では致命傷にもなりかねない。それが村の英雄となれば女房と別れて娘との結婚もスムーズに進む、という判断があったのだろう。
 涙目になるティムであったが、夜中独りになるのも怖かった。半ばモリッツの背中にへばりつくようにして後に続いた。

「クンツ、ジムソン、どこだ」
 モリッツは声をかけながら奥へと歩いていく。ティムは何度も振り返りながらモリッツの後についていった。さすがに道を外れることはしなかったが、五分も進めば北門は見えなくなる。さぞ心細かったことだろう。猟銃は二丁ともモリッツが持っている。手に一丁、背中に一丁担いでいる。恐怖で暴発でもされたらそれこそ大変だ、という判断からである。その代り、ティムにはランタンを持たせている。
「おい、早く歩け」
 モリッツが何度も苛立たしそうに声をかける。明かり役が後ろを歩いているのだから歩きづらいのだろう。
 ティムはその度に首を振った。実際気を失いそうになるほど、この青年はおびえていた。やがて喉から絞り出すように声を震わせながら言った。
「変だこの森」
「何が変なんだよ」
「それは」
 彼にとって夜の森など恐怖の対象である。だからこそわかるのだ。
 さっきから虫の声もしない。ホウホウうるさいフクロウだって全然鳴いてやしない。この森は何かおかしい。しかし、声に出しては言えなかった。言えばまた怒鳴られるに決まっているからだ。
「はっきり言えよ、男だろうが!」
 おどおどとした態度が余計にモリッツを苛立たせている。それに気づきながらもティムはどうすることも出来ずに何度も怒鳴られながら森の出口まで来た。
 ここから先は岩肌の露出した山頂への一本道である。朝になれば、雲のかかったトレメル山の頂上が聳え立つのが見えるはずだった。
 仮に二人が何かに襲われたとしてもここより手前の場所だろう。
「ねえ、帰ろ」
 ティムが何十回目かの提案をしようとした時、モリッツが、うえ、とうめくような声を上げて、片足を持ち上げる。
「何か踏んだ」
 おい、とティムにあごで指図する。ティムはおずおずとランタンを照らす。
 淡い光に映し出されたのは、大きな血だまりである。赤黒く、蜘蛛の糸のように粘ついていた。さほど時間が経っていないのは明らかだった。
 血だまりの真ん中には、やはり黒いものが転がっている。モリッツは息を詰まらせた。
 斜め半分に割れた、熊の頭部である。左耳から鼻の下辺りまで左側がぱっくりとえぐり取ったかのように消失していた。右目の上には古い弾痕らしき傷跡が刻まれ、そこだけ毛が抜けて白々とした肌を露出させていた。
 ティムが悲鳴を上げて来た道を駆け戻った。モリッツも後を追った。
「おい、待て」
 モリッツが取り乱した声音で引き留める。ティムはランタンを持ったままだ。暗闇に取り残されるなどティムでなくても真っ平だろう。
「おい、待て」
 ティムは返事をしなかった。息を切らせて走り続ける。ティムにすればそれどころではなかった。あの大きな熊が死んでいるのだ。絶対危険なことが起こっている。逃げなきゃ死んでしまう。それを考えたら後で殴られた方がよほどましだ。
「おい、ま」
 何度目の呼びかけが突然途切れた。それっきりモリッツの声は聞こえなくなった。
 それでもティムは立ち止まらず村への道を駆け下りていた。後ろに何かいる。何かが迫って来る。これは臆病だからではない。本当に何かがいる。
 後ろから這いずるような音がする。きっと、大蛇だ。クンツとジムソンはひと呑みにされたんだ。モリッツもやられたに違いない。
「助けてくれ」
 叫んだつもりであったが、声にはならなかった。恐怖で声が引きつぶれていた。余計に焦りが募った。
 どくどくと心臓の音が耳ざわりだ。まるで心臓が耳のそばまで移動したようだ。とにかく逃げないと。肺が締め付けられるような痛みを覚えながら走り続けていると、背後の気配と少しずつ距離が開けてきた。
 このまま村まで逃げきれれば、と思った時、真後ろでどさり、と重たいものが落ちる音がした。
 反射的にティムは足を止め、振り返ってしまった。
 大柄な男が液体の中に力なく浮いていた。目はすでに瞳孔が開ききっており、口の中は暗黒をのぞかせていた。
 クンツの溺死体だった。
 ティムはようやく悲鳴を上げることができた。
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