八章 没原稿(正式タイトル不明) その3

文字数 4,508文字

「これを筆跡鑑定すれば誰が書いたか一目瞭然です。あなたが書いた筆跡と比べれば、同一人物だということがはっきりするでしょう。たとえば、私にいただいた手紙とか」
 唐突に老婆が獣のような声を上げた。突然のことに一瞬自失してしまう。その隙を突いて、彼女はベッドの上の台本を手に取り、両手で破り始めた。真っ二つにしてから一ページ一ページ細かく引きちぎると、紙をくしゃくしゃに丸めてまたデタラメに引き裂く。また細腕のどこにそんな力があるのかと半ば感心してしまうほどの勢いだった。
 三分と経たないうちにベッドの上に藁半紙の切れ端が落ち葉のようにうずたかく積み上げられていた。
「気は済みましたか」
 肩で息をする彼女が落ち着くのを待ってから私はカバンからもう一冊の小冊子を取り出し、彼女に差し出した。老婆の目が信じられないものを見る目つきのまま固まる。
これも(・・・)コピーです」
 『聖者巡礼の旅』の表紙を見る老婆の目は血走り、手は熱病にかかったかのようわなないている。
「本物は別のところに保管してあります」
 貴重な資料を気楽に持ち歩くほど私の神経は太くない。さっき彼女に渡したのは、複写機で別の紙に印刷したものだ。本物の台本はもっと茶色く変色していたし、表紙には黄ばみやシミの跡がくっきりと残っていた。それらしく見えるよう、紙だけは古紙を使わせていただいた。
「もう十分でしょう」
 状況証拠は積み上がった。物的証拠もある。これ以上の言い逃れは時間のムダだ。
「繰り返しますが、私はあなたを責めるつもりも告訴するつもりもありません。私が知りたいのはあの日あの時何が起こったか、です」
 仮に彼女が本物のアルマ氏を殺害していたとしても、七十年前の話だ。とっくに時効である。
「必要であれば、あなたの現在の名前も匿名にします。今回の本が出ることであなたに不利益が被ることも極力避けましょう。一筆書いたって構いません。ですからぜひ真実を明かしていただけませんか、ドミニク神父」
「私は、アルマ。アルマ・ヴィーグよ」
 老婆はしわがれた声を絞り出すように言った。
「だいたい、私がもしドミニク神父だとしたらどうしてあなたに会う必要があるんですか? 私がもし入れ替わっていたとしたらですよ。今まで取材を一度も受けなかった私が、どうしてこんな風にあなたとしゃべらないといけないのよ。今まで通り、断ればよかったじゃないの。危険を冒す必要なんてないわ」
「あります」サイドテーブルに置いてある紙の束(・・・)に目をやりながら言った。
「私が『手記』、コルネリウスの『報告書』の原本を手に入れたからです」
 『報告書』の方は彼女も見ているだろう。だが、原本となる『手記』に何が書かれていたかは把握できないし、していない。もしかしたら『手記』には彼女にとって不都合な事実、たとえば入れ替わりが露見しかねないような事実が書いてあるかも知れない。それを確認する必要があったのだ。
 取材前に『手記』の一部を読んで、致命的な事実は書かれていないとほっとしていたのだろう。
「だましたのね」
「『報告書』の原本は全てお見せしました。それ以外の資料については何もおっしゃいませんでしたので」
「こんなの詐欺よ、インチキだわ。言いがかりを付けて私をおとしめようとしているのよ。そんなに名前が売りたいの、この売女」
「筆跡はどうなります」
「そんなの当てになるものですか!」
 彼女はふてぶてしい顔を作る。高齢者への敬意も薄れそうだった。
 自分で怪しいと言っているようなものだが、なりふり構わないその態度に私はむしろ感心してしまった。
「もう帰って! 帰りなさい!」
 彼女はそこで呼び鈴に手を伸ばした。私はとっさにひったくるようにして枕元にあった呼び鈴を奪い取った。
「返しなさい!」
「もう少しだけ待っていただけますか。これが終われば帰ります」
 もう少しじっくりお話ししたかったが仕方がない。本当ならば出したくはなかったが、奥の手の出番だ。
「あなたはモリッツのことを覚えていますか?」
 そう言うと彼女は一瞬遠い目をした。質問の意図がつかめないのか、あるいはモリッツの名前を忘れていたのか。
「ええ覚えていますよ。それがどうかしましたか?」
「先程あなたは、子供はいないとおっしゃいました。事実ですか?」
「ええ、それが何か?」
「結婚もされなかった」
「だから何なの?」
「事件の起こる直前、アルマ氏は二日間ほどふもとの診療所までわざわざ受診に行っています。覚えておられますか?」
「忘れちゃったわ」
 さらりと彼女は言った。
「だってもう七十年も前の話なのよ。いちいちそんな細かいこと」
 そこで彼女は言葉を詰まらせた。どうやら私の言わんとすることに気づいたらしい。私は奥の手をカバンから取り出した。もちろん、原本は別の場所に保管してある。
「診療所のカルテです」
 診療所自体は二十年前に閉鎖されている。担当した医師も他界して久しいが、医師の未亡人から当時の患者のカルテを譲り受けた。患者の名前はトレメル村出身のアルマ。
「アルマはね、妊娠していたんですよ。モリッツの子供をね」
 老婆は、身じろぎもしなかった。
「ご存じでしょう。モリッツは別の女性と結婚していました。つまり不義の関係です。そりゃあ、あなたには言えないでしょう。正式な婚姻もしない男女が関係を持ち、妊娠したなんて。あなたに知られたら教団の仕事も辞めなくちゃなりませんし、最悪村にいられなくなります」
 モリッツは女房と別れてからアルマと結婚するつもりだった。アルマも同様だったのだろう。子供が生まれるのも楽しみにしていたに違いない。彼女は赤子の靴下まで縫っていたのだ。
 だが、その機会は永久に訪れることなく、母と子は災厄の泥に消えた。
「いかがですか? 神父」
 老婆は返事をしなかった。数分前よりやつれたように見えたが、目には輝きが戻っていた。
 長い間苦しめられて来たつきもの(・・・・)が落ちたかのようでもあった。
「あなたあの子の孫だと言ったわね?」
 唐突な質問に少々面喰いながらも私はうなずいた。私の素性についてはインタビューの前に彼女に伝えてある。
「本当にそっくりだわ。人を食ったような笑い方なんか特に」
「褒め言葉と受け取っておきましょう」
 昔から祖母似だとはよく言われている。
「長かったわ」彼女は手のひらを見つめてつぶやく。「とっさの思いつきに振り回されてもうこんなところまで来てしまった」
「では、話していただけますね」
 彼女は首を振った。
「私はもう引き返せないの」
 彼女がアルマ・ヴィーグを名乗ってから七十年も経過している。
 関わった人間のほとんどが亡くなっているが、生きている人もいる。
「カルケル少佐ですね」
 元・陸軍中将でフンボルト州知事も二期八年を勤め上げた。既に百歳を超えており、とっくに一線を退いているが、今もフンボルト州の政財界に絶大な影響力を持っている。
「さあ、どうかしら」彼女は曖昧な笑み浮かべた。「神父様ではないからわからないわね」
「ではあなたにお聞きしましょう」私は一番聞きたかった質問を口にする。
「何故、スライムを村の中に引き入れようとしたのですか?」
 神父の判断が完全に間違っていたとは言えない。あのまま門を閉ざし続けていたらいずれスライムが押し寄せて門を壊して村の中になだれ込んでいただろう。そうなれば犠牲者は三十八人ではすまなかったかも知れない。暴発の危険性を知らなかったとしても、スライムを村の中におびき寄せるなら、村人を避難させてからでも遅くはなかったはずだ。そう考えれば神父の行動は早計に過ぎていた。
「私にはわからないわ」自称・アルマ・ヴィーグは懐かしむような顔をした。
「でも神父様はきっと、認めてほしかったのね」
 認める? と私はオウム返しに問い返した。
「神父様は自分の力不足をいつも嘆いていたわ」
 神の子らを導く立場にありながら何をやってもうまくいかない。神父は宗教者でありながら教会という巨大組織の一担当者でもある。教会の使命は信者を増やし導くことにある。ドミニク神父に限った話ではない。若く世間知らずな聖職者共通の悩みであろう。
「でも、彼はいつも一人でありながら超然としていた。だからこそ、彼が気に入らなかったし彼が戻ってくる前にスライムを片付けて自分のことを認めてほしかったのよ」
「誰に、ですか?」
「決まっているでしょう」そこで彼女は童女のようにいたずらっぽく笑った。「あの偏屈者の猟師よ」
 思いがけない名前に私は息をのんだ。
「もしかして、あなたは」
 彼女は私の質問に答えず、ゆっくりと手を伸ばした。
「返して。さもなければ人を呼びます」
 彼女の目に迷いはなかった。先程までの狼狽も焦りも恐怖も消えて清々しさまで見えていた。墓の下まで持って行くと決めたのだろう。
 私は黙って呼び鈴を彼女に返した。広げた資料をカバンに戻し、ベッドの上の紙くずを拾おうとしたところで彼女に止められた。
「もういいわ。あとはこちらで片付けます」
「ですが」
「帰りなさい」
 毅然とした声だった。
 私は拾うのを止めて、彼女に一礼した。
「本日はありがとうございました。どうぞお大事に、ドミニク神父」
「アルマ・ヴィーグよ」彼女は言った。「間違えないで」
 病室の扉に手をかけたところで私は振り返った。
「本が出来たらお送りします。送り先はこちらでよろしいでしょうか?」
「ええ」彼女はうなずいた。「できれば三冊ほどいただけるかしら」
 予想外の反応に私は少々戸惑った。てっきりいらないと突っぱねられると思っていたからだ。
 だが、もらっていただけるというのなら断る理由もない。
「それは構いませんが、どなたかに差し上げるのですか」
「一冊は私、もう一冊は少佐に」
「最後の一冊は?」
「決まっているでしょう」
 そこで彼女はベッドの紙くずに目をやりながらにやりと笑った。
「破り捨てる分よ」

 なお、少佐ことヨースト・カルケル氏にもトレメル村の事件について四回にわたり取材を申し入れたが、全て断られたことをここに付記しておく。

 取材した四ヶ月後、彼女は心筋梗塞のため病院のベッドで息を引き取った。近親者はおらず、葬儀は簡素なものだったという。遺体は病院近くの共同墓地にアルマ・ヴィーグとして葬られた。時折、墓守が手入れをする以外は、ほとんど訪れる者もいないという。
 墓碑には経典の一節が刻まれている。

 名もなき者よ。恐れてはならない。
 信仰は汝を照らす道しるべとなる。
 その魂は地上を去り、天上へと誘われる。
 永遠の楽園へ向かう巡礼となるであろう。

 地上の汚泥がいくら汝を穢そうとも
 安息は聖水となってその身を清める。 
 正義と信仰にその身をゆだねる限り。

     ※手書きによるメモ(八章全部カット。ロタール氏に七章まで提出)
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