六章 黎明 その3

文字数 4,632文字

 多少のトラブルはあったものの聞き取りの調査を終えると准尉は村中を回り、家の中から北門の周辺、また蜂の巣のあった花畑まで上機嫌で調べ回ったという。沼の中に頭から突っ込み、泥だらけになっても様子は変わらなかった。彼の脳内ではかのクラウゼンが生み出した名探偵・ヘルムート・ポールになりきっていた。根拠もある。
 手記には走り書きで村人から聞き取った証言を書き留めてあるのだが、隅の方に小さく書いてある。

「神は細部に宿り給う。大樹の枝葉こそが信仰の経典たり得る」

 一見すると意味不明な文章だが、これも出所がある。同じくクラウゼンの前著『アーベンバッハ殺人事件』でヘルムート・ポールがつぶやいた台詞である。当然、これらの記述も報告書からは消されている。『報告書』と『手記』を比べると削られた証言の差異がよくわかる。削られた証言には先の神父の存在もあれば、「大切な衣装をスライムが食べた」「娘のタンスから見覚えのない小さな靴下が出てきた」「幽霊を見た」など、とりとめのないものもある。ちなみにこれらの証言は全てイボンヌのものである。

 話を元に戻そう。
 探偵気取りの准尉には助手がいた。村長の息子であるスヴェンである。
 死亡した村長には息子が二人いたが、長男のスヴェンが臨時に村長代理として被害状況の確認と再建に乗り出した。スヴェンは生真面目な性格で、周囲からはいずれ後を継いで村長になるのは確実と見られていた。報告書ではスヴェンについては、村長代理とだけ書かれているのみである。文書には加えて興味深い記述がある。丸印で『少尉』と書いてある。
 こちらの意味はすぐにわかった。ヘルムート・ポールの助手役を務めるマテウス少尉のことだろう。完全に探偵小説の名探偵気取りである。スヴェンもさぞ辟易したことだろう。この時点で確認できた生存者は百二名。その中にはふもとの村で治療を受けているティムも含まれている。ちなみに召喚士の死体を発見したのもこの時期である。
 一方で行方不明者の捜索は難航を極めた。木こりのコスタスの妻ワンダ(三十八歳)は村の南側にある木の上で顔半分と胸と左腕のみが残った状態で発見された。大半の行方不明者は死体が発見できず、スライムの体内から取り出された持ち物から持ち主を割り出し、死亡者のリストに加えられた。その中にはジャコモや、ヴィオラの両親やケヴィンの息子・ニコラスの名前もあった。

 ニコラスの猟銃は身につけていたベルトやブーツの金具や北門の外、村の北西部を徘徊していたスライムの腹の中から発見された。父親と別れ、村の警護に当たっていたはずのニコラスの『死体』がなぜ村の外で見つかったのか。ニコラスを最後に目撃したのは、ロビンとエドガーである。離れ離れになった時は日付が変わった午前一時から二時頃である。

 ニコラスを捕食したとみられるスライムが見つかった場所は村の北、およそ三百フート(約四百八十メートル)、発見時刻は事件発生より二日後なので移動自体は不可能ではない。しかしそこで新たな疑問が生まれる。
 スライム発生後、南北の門は固く閉じられ、州兵が到着するまで一度たりとも開かなかったと大勢が証言している。また村の塀は、焦げ(火の付いたスライムと接触したもの)や、流れ弾による傷はあるもののスライム一匹が通り抜けられるような穴はなかったという。村の内と外が隔絶されれば移動は不可能である。しかし北門が閉められた時点でニコラスはまだ村の中で生きていた。
 『トレメル村の悲劇』では父親を探しに単身塀を乗り越え、村を出たところでスライムに襲われたのだろう、と推測している。筆者もおおむね同意見なのだが、当時の状況を踏まえるともう少し小説的な見方も成り立つように思う。
 以下は推測である。
 ロビンとエドガーがスライムに取り囲まれたのを見て、彼は二人の死を確信した。そこでニコラスは南門とは逆に、北門の方へと向かった。彼が南門へ向かっていたのは二人の保護のためである。一人になれば自分の思うままに活動できる。彼は父親を捜したかったのだ。
 北門を乗り越え、森の中をさまよう内にニコラスはおそらく見つけてしまったのだ。
 ケヴィンが放り捨てた猟銃を。父親の猟銃を見つけてしまったニコラスは何を思ったのだろう。
 父親を救い出そうとしたのか。父親の敵を取ろうと思ったのか。
 ニコラス父の猟銃を手に単独で森の奥へと進むうち、スライムに捕まり力尽きたのではないだろうか。
 もちろん、証拠のある話ではない。森の奥へ入ったのももっと別の理由であったかも知れない。
 穴があることも承知している。実を言えば今の推測は、筆者が考えたものではない。
 コルネリウス准尉である。
 『手記』には推理の下書きが残されていたが、明確な証拠がないため『報告書』に書くのは控えたようだ。
 ただ、ケヴィンはおそらく准尉と同じような理由を考えていた。駆逐宣言が出された後、彼は州兵よりニコラスの死を聞かされた。その際、スライムの腹から出たという息子と自身の猟銃を手渡された。ケヴィンはしばらく黙って二挺の銃を見つめた後、自身の猟銃を沼に放り投げたという。
 事件が起こって一週間後の万緑月十九日、スライムを駆逐した州軍は撤退した。
 
 その一月後、コルネリウス准尉はトレメル村の報告書をまとめ上げ、上司に報告した。
 スライムの発生は召喚されたスライムの暴走の可能性を挙げる一方、トレメル村側の対応についても言及している。村長をはじめ村人たちのスライム発見時からの対応について「一部適切な行動があったものの祭りのために反応が鈍くなったことは否めない」と評している。筆者も同感である。実際、祭りの日でなければ村長をはじめ村人たちの対策はもっと早かっただろう。被害者も少なかったかもしれない。スライムを招き入れた作戦については「無知と誤解による愚策」とこき下ろしている。ただし、発案者については触れていない。
 報告書は軍の資料室に保管された。重要度は第二位に設定された。申請すれば誰でも閲覧が可能なものだった。

 以上のようにコルネリウス准尉はトレメル村においてやや偏執的なほどに被害状況を調べ上げた。
 彼がいなければ死亡状況があいまいなままの被害者もいた。アルミンやリリーの死亡状況を調べ上げたのは間違いなく准尉である。
 ただ、『トレメル村の悲劇』で語られていたような職務意識や軍人としての誇りではない。いい年をして探偵ごっこがしたかったから調べた。それだけである。主義も主張もなく、ただ楽しめたらそれで良かったのだ。そこに被害者への同情はなかった。もし一遍でも残っていれば、息子のユーリを失って悲嘆にくれる母親に「息子がスライムに食われた時にお前はどう思った?」などという無神経な発言はしなかっただろう。
 少佐からの削除要請に応じたのも職務だからである。上から「そうしろ」と言われたからそうしただけの話である。『真実のトレメル村』のように決して悔しがってなどいないし、『災厄の泥がもたらしたもの』で書かれていたような阿諛追従でもない。事実、『手記』には証言の聞き書きに混じって「自作自演か?」「スライムに子供を食べさせた?」「スライムをけしかけるトリックは?」「あの猟師は怪しい。まるで××××(筆者注 『アーベンバッハ殺人事件』の犯人に触れているため伏せさせていただいた)のようだ」などのコメントが嬉しそうな筆跡で書いてある。
 筆者は『手記』を貸していただいたお孫さんのウーリ氏にこの結論(もちろん表現は柔らかいものに変えている)を話した。すると彼は眼尻にしわを寄せて大笑いした。
「実を言うと、昔脚本家を志したことがあるんですよ」ひとしきり笑った後、ウーリ氏は過去の夢を語ってくれた。
「まだ私が学生の頃です。演劇を志していましてね」
 当初は役者志望だったそうだが、才能がなかった。そこで演技に早々に見切りをつけて脚本家の道を志したのだという。
「ですが書きかけの原稿を祖父に見つかりましてね。びりびりと破いて捨てられました」
 ――何故そんなことを?
「簡単ですよ」彼はにやりと笑った。「自分もそうされたからですよ。私の曽祖父、つまり父親にね」
 父親の意向で望まぬ道に進められた屈折を奇妙な形で発散した結果が、トレメル村での奇行だったのだろうか。
 後年、テオドール・コルネリウスは二冊の探偵小説を私家版として出版している。
 実を言うとそれらの小説も『手記』と同時にウーリ氏より借り受けている。忌憚のない感想を言わせていただければ、凡百の探偵小説と大差なかった。素人にしてはよく書けている、という程度だろう。記録者としては優秀だったが創作の才能はなかったようだ。
 事件より二年後、グラスヘイムとの戦争でコルネリウス准尉は中尉に昇進した。銃の腕も指揮官としての力量もさほどではなかったようだが、トレメル村以降調査・諜報方面で活躍したという。機密事項も含まれるため全ての仕事を把握できなかったが、主に魔物絡みの調査でその才能を発揮したようだ。シーサーペントに沈められた海難事故や、ミーマ街道を塞いだ一つ目巨人(サイクロプス)の出現の際にも報告書を作成している。最終的には中佐まで昇進していた。一八三四年に軍を退いた後は故郷で悠々自適の生活を始めた。孫を連れて劇場通いするのが楽しみだったようだ。
 その後、何度かフンボルト・タイムズをはじめいくつかの雑誌・新聞、ライターからトレメル村の事件についてコメントを求められたことがある。その際の返事は決まって「覚えていない」だった。『トレメル村の悲劇』では「痛ましい悲劇を前に語る言葉を持たない」と評し、『災厄の泥がもたらしたもの』では「自身の報告書改竄を糊塗するための韜晦」と糾弾している。事実は本人のみぞ知るところだが、もしかしたら、コルネリウスの言葉は本音だったのかもしれない。二人の子供にも恵まれ不自由のない生活を送りながら自身の望む生活を送れず一八五一年に肺の病で他界する。

 一八六四年、報告書作成より五十年が経過した。保管期限が過ぎたために破棄されるところを『トレメル村の悲劇』の著者でもあるラファエル・ヴィルトが注釈を加えた上で、アウフマン&サンズ社により出版した。出版当時は売り上げも芳しいものではなかったが、慰霊碑発見後は四万部に売り上げを伸ばした。今では研究者にとって第一級の資料となっている。

 第一級の資料の理由は情報量の多さである。事件の直後ということもあり、村人たちの生々しい証言を数多く拾い上げている。また、被害状況や件数など事実や数字もほぼ正確である。召喚士の関与など、推測の部分にこそ誤りはあるものの、死んだ家畜の頭数や家屋の被害状況、割れた窓の枚数など、現場に直接訪れた人間にしかわからない部分にも言及している。しかし『手記』と『報告書』を比べると一つ大きな違いがみられる。被害者数である。

 コルネリウス准尉は村長宅の村民簿を回収し、生存者と死者・行方不明者を割り出した。スライムに直接食べられた人間だけでなく、ホラントやマルコのように間接的な被害者も事件の死亡者に含めている。その結果、生存者は一一九名、死者・行方不明者は三十九人を数えた。
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