五章 抵抗 その4

文字数 6,295文字

 間に合ったか、とバルトは胸をなで下ろした。襲われていたのはやはりエリカとヴィオラだ。
 二人ともほっとしたのかバルトに抱きつき、声を上げて泣き出した。バルトは太い腕でそっと頭をなでてやる。子供の死ぬところなんぞ見たくない。
 バルトは子供たちの頭をなでながら落ち着かせようとする。この辺りは娘を持つ父親だけあって手慣れている。
「まったくお前らときたら、悪い子だ。後で叱ってもらうといい。それで、ほかの連中はどうした?」
「いない」しゃくり上げながらエリカが首を振る。「私たちだけ」
「そいつは」おかしいな、と言いかけて口をつぐんだ。最悪の想像が脳裏をよぎった。ベリエスたち捜索隊の安否も気になったが、今ここで口に出すべきではなかった。

 バルトたちは知らなかったのだが、ベリエスたちは無事に村へ戻っていた。六人ひとかたまりで森の捜索に出たのだが、肝心の花畑に向かう途中でスライムの群れに出くわし、すぐに逃げ戻っていた。その頃には村の周囲にはスライムが群がっていたのだが、ニコラスらの援護により村に無事戻ることが出来た。ヴィオラの両親がものの三十分もしないうちに戻ってきたペリエスたちを罵倒したのは、スライムが暴発する直前である。
 命からがら舞い戻ったものの、マイクとヘクトールはスライムの暴発時にスライムの雨を浴びて死亡している。
「子供のおもりは後にしろ」
 ケヴィンが油断のない目つきで言った。スライムを退治したわけではない。すぐにまた向かって来る。
「村まで戻るぞ」
 
 ケヴィンは予備の弾を装填する。今使っているのはモリッツのものだが、村で使われている猟銃は、同じ型なのでさして不都合はなかった。強いて言うならば少々軽すぎるくらいだが、許容範囲だ。ケヴィンを先頭に、バルトが後詰め、間にヴィオラとエリカを挟んで進む。子供たちは未だ泣き止まず、たまにのどを震わせて泣きわめいた。ケヴィンは鼻白むばかりであやすどころか、その努力すらしようとはしなかった。
「ほーら、よし、いい子だなあ」
 そのため子守はもっぱらバルトの役割になった。何とか泣き止ませようと撫でてやると、エリカの髪の毛や首の周りがぬるりとしているのに気づいた。一瞬血かとバルトは焦ったが、甘い匂いがした。ハチミツだった。ケヴィンの弾で蜂の巣が砕け散った時、蝋化していたハチミツの破片が首の裏にひっつき、歩いているうちに体温で溶けたようだった。
 ヴィオラが笑った。エリカはむっとして毛に付いたハチミツをヴィオラの首筋になすりつけた。
「こらこらケンカするんじゃない」
 バルトが困り顔でたしなめる。ケヴィンは不機嫌そうに唇を曲げていたが何も言わなかった。
 子守をしていては当然周囲への警戒もおろそかになるため、後ろへの注意も払わねばならなかった。さりとて、代わりに子供の面倒を見るという選択肢も選ばず、ただ無言で周囲の警戒に当たった。
 四人は無事に村の入り口まで戻ってきた。途中、スライムと出くわすことはなかった。そう、途中では。
 そこで見たのは、村の塀を取り囲むスライムの大群だった。大きさは人の頭くらいだが、数が多すぎた。村の中に受け入れられたのは、ごく一部に過ぎなかった。塀の向こう側からは煙と火の粉が舞い上がり、時折、悲鳴が上がった。
 当然、北門は閉まっていた。ケヴィンとバルトが何度か呼びかけたが返事はなかった。乗り越えようにも門だけでなく、板塀に沿うようにスライムは集まっていた。ましてやこちらは子連れである。塀を超える前に溶かされるのは目に見えていた。
 大量のスライムを相手にしていては命がいくつあっても足りない。
 村へ戻ることを断念せざるを得なかった。
 一度元来た道を引き返すことにした。村に帰れないと知ったエリカもヴィオラも緊張の糸が切れたのか声を上げて泣きわめいた。
 ケヴィンは舌打ちをするだけで、二人をあやすのはバルトの役目だった。
 山道沿いの岩場でスライムのいないことを確認してから小休止する。
 ヴィオラとエリカを道ばたの岩に座らせ、大人組は今後の対策を話し合った。
 南門の方へ向かおうという主張は一致していた。
 手持ちの猟銃では塀を壊すのは難しい。何よりスライムの大群を村の中に招き入れてしまう。
 スライムの隙をついて塀を乗り越えるのは子供たちがいては難しい。さすがにスライムが山の上と下、両面から攻めてきたとは考えにくい。あれだけ北門に固まっているのなら南側は手薄だろう。村の者は南門近くに非難しているか、南門から外に逃げただろう。既にふもとへ助けを求めに誰かを走らせているはずだ。南門側に回って村の者と合流して改めて善後策を講じるべきだ。
 問題はルートである。現在は北門のやや北東部にいる。ここからなら時計回りに村の外周を回った方が早いとバルトは提案した。ケヴィンは反対した。
 時計回りということは村の東側を通ることになる。東側の森は狭くて、リース川も近いせいか沼地も多い。水辺はスライムの寝床だ。遠回りになるが、西側を通るべきだ。バルトは引き下がらなかった。
 エリカもヴィオラも疲れ切っている。早く親の元に返してあげるべきだ。時間をかけていられない。岩場を選んでいけば沼地に足を取られることもないだろう。結局、バルトの案で行くことになった。

 泣き疲れて今にも眠りそうなヴィオラとエリカをバルトがなだめすかして、森を南下する。塀の外周沿いはスライムがとりついていたため、やや距離をとりながら村を時計回りに進む。当然、ろくに整備もされていない獣道である。ケヴィンを先頭にバルトはエリカの手を取りエリカはヴィオラの手を引き、草むらをかき分ける。子供の足に合わせているため余計に進まない。ケヴィンが時折、苛立たしげに舌打ちする。そのたびにバルトは気まずい思いで体を縮こまらせなくてはならなかった。そもそもヴィオラとエリカの行動にバルトは何の責任もないのだが、責任を感じてしまうあたりが彼の人の好さだった。いっそ背負っていきたかったが、二人にいてはさすがに難しいし、何かあった時に対応が出来ない。頭上への警戒も必要なのだ。
 やがて川のせせらぎが聞こえてきた。リース川が近くなったのだ。
 木々を抜けると、足下が柔らかくなっている感触に顔を上げる。
 沼地に出た。小さな沼が点在している。わずかな星明かりを穏やかな水面が反射して、か細い光を瞬かせている。ここを突っ切れば、南門まで安全な坂道に入る。安全地帯は目の前だが、気を抜くわけにはいかない。
 スライムにとっても沼地は格好の餌場である。泳ぐ速度は魚には劣るとはいえ、歩くよりはずっと速い。足を取られて動きの遅くなった人間など格好の餌食だ。
「気をつけろ」
 ケヴィンが声をかけながら沼地の縁を歩く。ケヴィンの歩いたところをバルトたちも歩いた。
 沼から這い上がる湿気が肌にしっとりと絡みついてくる。気味の悪さに背筋に冷たいものが走ったという。
 頼りない足下をランタンでかざしながら進んでいた。沼の深さはどこもたかが知れている。せいぜい半フート(約八十センチ)前後だろう。それでも縁を歩けばどうしても泥に足を取られる。靴は泥まみれだ。普段なら気にもとめないが、沼にスライムが潜んでいれば確実に引きずり込まれるだろう。
 普段は虫や蛙の鳴き声でやかましい沼も静まりかえっていた。
 時折スライムの難を逃れたフクロウの声が聞こえた。
 最初は泣きじゃくりながら歩いていた少女たちも息を潜め、無言で歩いていた。
 あと沼を二つ三つ抜ければ、湿地帯を抜けられる場所まで来た。その時である。
 ぼとり。
 バルトの目の前に黒いかたまりが落ちてきた。木の上からスライムが降ってきたのだ。足下に気を取られて気づくのに遅れた。至近距離に突然現れたスライムにバルトはうろたえ、とっさに猟銃を構える。
「よせ!」
 ケヴィンが叱りつけるような声音で叫んだが、間に合わなかった。
 バルトは引き金を引いた。
 弾はスライムの真ん中に当たり、赤紫色の体の一部を飛び散らせた。
 スライムの一部が砕け散り、それ自体が意志を持ったかのように宙を飛んだ。
 花火のように飛び散ったスライムの破片は放物線を描いてバルトの顔を横切り、エリカの頭上を飛び越えてヴィオラの首筋に当たった。
 ヴィオラは泣き叫んだ。
 小さな体のどこに詰まっていたのかとおどろくほどの声量だったという。花火のようによじり身もだえしながら泣きわめくと、エリカの手をふりほどき、あさっての方向に走り出した。
「ヴィオラ! 行っちゃダメ」
 エリカが呼び止めるが、ヴィオラは走り続けた。沼地の縁を駆けながらあさっての方向に向かっていく。三人は後を追った。ヴィオラの動きは速かった。まるで早く動くことで首筋に付いたスライムを引きはがそうとしているかのようだった。
「火をよこせ」
 走りながらケヴィンがバルトに呼びかける。
 浄化塩などない時代である。体に付いたスライムを引きはがすために今できることは火で焼くことだけだ。火傷の痕は残るかも知れないが、放っておけばスライムに溶かされるだけだ。捕まえようとするのだが、小さな体はケヴィンの腕の間をすり抜けていく。沼地に足を取られて思うように進めない。それに引き替え、ヴィオラの小さな体はぬかるみにほとんど足を取られることなく、どんどん先へと進んでいく。バルトの大柄の体は既に膝下まで沈み込んでいる。
「ヴィオラ、止まって!」
 エリカは悲痛な声で何度も呼びかける。ヴィオラは痛い痛いと泣き叫びながら森の中の沼地を抜ける。
 沼と格闘しているバルトを残し、ケヴィンとエリカが一分ほど遅れて森を抜けると、川原に出た。
 トレメル村付近はリース川の上流にあたる。切り立った岩は急流に跳ね上がった水しぶきで濡れて、滑りやすくなっている。川幅は狭いものの、川底は深い。現在でも足を滑らせた観光客や釣り人の溺死者が出ている。
 先を行くヴィオラも小さな体では岩を乗り越えるのは難しかったのだろう。岩場の上でふらつきながら川原をよたよたと歩いている。
 ようやく追いつくかとエリカがほっとため息を漏らした時、ヴィオラの体が大きく傾いた。川縁で足を滑らせ、少女の小さな体はリース川の急流に飲み込まれた。
「ヴィオラ!」
 エリカが最後に見たのは、川から伸びた白い手と、浮き袋のように見え隠れする赤紫の塊だった。

 その後ケヴィン、バルト、エリカらは川沿いに探し続けた。初夏だというのに肌を切るような冷たさの水に足を入れ、川底に手を入れヴィオラは発見できなかった。正確な捜索時間ははっきりしない。エリカは五分ほど、といいバルトは三十分は探したと証言している。いずれにせよ夜間であり、ろくな装備もなく、避難の最中とあっては、長時間の捜索など不可能だったろう。ケヴィンとバルトは捜索を断念した。
「まだいるよ、お願い探してよ」
 懇願するエリカをバルトが強引に抱え上げ、予定通り南門へ向かった。

 三人はその後スライムに襲われることもなく、沼地を抜けて南門の外れに避難している村人たちと合流した。
 エリカは両親と再開することが出来た。父親のルドルフはすさまじい剣幕で怒鳴りつけ、娘を張り飛ばした。エリカは頬を腫らして泣き続けた。叱られたせいでも頬の痛みでもなかった。
 バルトはカールとマグダの姿を探した。ヴィオラの両親である。幼い娘に起きた惨事を伝えなくてはならない。バルトは自分が突き落としたかのように青ざめた顔をしていた。ケヴィンは逃げ延びた者たちと素知らぬ顔で今後の対策について話をしていた。自分だけに厄介ごとを押し付けるつもりかと、バルトは恨みがましい目でにらんだ。バルトの心配は杞憂に終わった。ヴィオラの両親は既にスライムの餌食になっていた。娘を探して逃げ遅れたという。
 バルトとケヴィンはそのまま村人の護衛に就いた。村の中ではいまだ惨劇が続いていた。
 大半の村人は外に避難したが、まだ三十名ほどが取り残されていた。
 スライムは人や家畜を食らい、成長を続けていた。一・五フート(約二・四メートル)まで成長しているものもいた。いずれもぶよぶよとした不定形の体を引きずりながら餌を求めて徘徊を続けていた。
 繰り返しになるが、スライムに殺された人は死体も残らないため被害者がどのような最期を遂げたのか不明な点が多い。
 目撃証言を抜粋する。
 コルネールとウルスラの夫妻は事件後、ぼろぼろの衣服が三軒先の木下で見つかっている。おそらく、家の中に飛び込んだところをスライムに襲われ、死亡した。その後二人を腹の中に納めたスライムが移動したため、そのような場所で発見されたのだろうとコルネリウス准尉は報告書で推測を述べている。
「オラフ、ペッツ、リヒャルトは櫓に登り抵抗を続けていた。手にたいまつを持ち、物見台に寄ってくるスライムたちを火で牽制していた。スライムはどんどん集まってきた。十は超えていただろう。四方を囲まれ、時折『来るな来るな』と涙声で叫ぶのが聞こえた」
 残された村人の多くは屋根の上や高所に登り難を逃れようとしていた。
 スライムは、木登りは得意であるが、捕食し体積の増えた分、動きは鈍くなっていた。また苦し紛れに火のついたたいまつを近づけると、この頃になるとスライムは(正確な表現ではないかもしれないが)正気を取り戻していた。腹が膨れたことで暴走状態から脱したらしく、火を怖がり避けるようになったという。直接ぶつければ飛び散って被害を拡大させてしまうが、近くで炙るだけなら飛び散ることもないし水分を奪うことも出来る。
 オラフたちはある程度コツというものをつかんでいたのだろう。
 だが、幸運はそこまでだった。
「午前三時頃だったか、メキメキという音がした。大きなスライムにのしかかられて櫓の足が折れて、倒れようとしていた。オラフたちは隅っこに固まってバランスをとろうとしていた。けれど、とうとう物見台は倒れて三人はスライムの大群の中に落ちていった」
 三人の叫び声は村の外に避難していた者たちの耳にも入った。

 村の外に避難した者たちは村を下った森の中で眠れぬ夜を過ごしながら救助を待っていた。
 ホラントとマルコがうまく討伐隊を引き連れて来てくれること願っていた。
 だが、彼らが村に戻ることはなかった。
 後日、州軍の捜索隊が村の南側を捜索していたところ、巨大な熊と出くわした。すぐに射殺したが、死体の側で衣服の切れ端を発見した。
 死骸を解剖したところ、人間の指や髪の毛、靴を履いたままの足首が見つかった。
 村の生存者が確認したところ、ホラントの靴と証言した。
 おそらく、ふもとへの村を下っている途中、熊に出くわしたものと思われる。
 マルコは谷底から転落死体で見つかった。場所は熊の巣穴からさして離れていなかった。
 おそらくホラントと二人で山を下りる途中で熊と遭遇したのだろう。ホラントはそのまま殺され、マルコは逃げる途中で足を滑らせて転落したものと思われた。

 かろうじて避難した者、迫り来る災厄の泥におびえる者、皆が明日の朝が来ることを願い、応援が来ることを待ち望みながら長い夜が明けるのを待っていた。たとえ絶望的に見えても朝の来ない夜はない。
 夜明けは確実に近づいていた。
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