六章 黎明 その1

文字数 4,394文字


 六章 黎明

 夜明け前である。
 その日、クレムラート村の外れに住むエッカルトはいつもより早く目覚めた。畑の様子が気になったためだ。数日前から狐やイノシシが頻繁に山から降りてきて、村の麦畑を荒らしていた。エッカルトの畑は家のすぐそば、山側にある。おまけに山頂へと向かう道のすぐそばのため、何度も被害に遭っている。鉄ばさみなどの仕掛け罠や鈴を鳴らして追い払おうと対策を練っているがまるで効き目はなかった。獣や魔物対策にと柵を囲ってはいるが、大人の胸辺りの高さしかなく、さして頑丈なものではない。身の軽い狐には軽々と飛び越えられ、勢いの乗ったイノシシに突き破られた。
 まだ眠っている女房を起こさぬようベッドから抜け出すと、手早く着替え、カンテラを持って外に出た。
 トレメル山から吹き下ろす冷たい風に身を縮こまらせる。山は静かだった。稜線がうっすらと光り始めたばかりで、日が昇るにはまだ一時間は間がある。
 そういえば山奥のトレメル村では祭りだったと聞いている。去年のトレメル村の祭りにも参加していた。
 今年も酒が出るそうなので行きたかったのだが、畑のこともあり断念した。
 去年ふるまわれた蜂蜜酒がうまかったなあ、と思い出しよだれを手の甲で吹きながら畑の様子を見に行こうとしたその時である。
 山から何かが駆け下りてくる音がした。イノシシにしては足音が軽すぎる。人間の足音かと思ったが靴音にしては妙に音が湿っていた。
 とっさに山道を見上げながらカンテラをかざす。
 エッカルトは目をみはった。
 血まみれの少年が息も絶え絶えな様子で山道を駆け下りてきた。
 腕や足からは血を流し、服はぼろぼろでズボンも右足が膝下から素足がのぞいている。上着も破れ、半裸に近い有様だった。
 少年はぜえぜえと喉をいがらっぽそうに鳴らし、肩で息をしながら村の入り口まで来ると、そこで崩れ落ち、膝をついた。エッカルトはあわてて駆け寄った。
「おい、どうした。誰にやられた?」
 盗賊にでも襲われたと思ったのである。身ぐるみをはがされたかのような少年に近づいてカンテラで顔を照らし、エッカルトはさらに衝撃を受けた。
「ティムじゃないか」

 北門で警護に当たっていたティムがなぜ、ふもとの村までたどり着いたのか。
 後に、本人が語ったところによると、北門でスライムに襲われ、一度は足を捕まれたものの、靴を脱いだことでどうにか逃げ延びることが出来た。
 痛む足をこらえ、森の中をさまよい、スライムから逃げまどいながら村へとどうにか戻ったのが、午前零時頃である。
 村の周りは既にスライムに囲まれていた。
 その時、ティムの頭の中によぎったのは「助けを呼ばないと」ということであった。
 スライムを避けるべく、トレメル村を反時計回りに南下する。ケヴィンが主張したルートである。村を回り、南門に行けば大勢の村人と合流できたはずだが、ティムは南門には寄らず、岩場から獣道を下って大きな山道への合流地点にたどり着いた後は熊を避けたり、足を踏み外して坂道を転げたりしながらまっしぐらに山道を駆け下りてきたのだという。言葉にすれば簡単であるが、実際には多大な労力をともなう。奇跡と言い換えてもいい。
 一八七九年、『ウィーズリー』誌四月号の企画で、同誌の編集部はティムの駆け下りた道を実際に辿っている。証言を元にルートを割り出し、当時のティムの格好で山道を下るというものだ。駆け下りたルートについては細かい道筋については推測も混ざっている。ティム自身、夜間に加えて興奮状態だったこともあり岩場から大きな山道までの正確に把握していなかった。
 走ったのは同誌の編集者である。誌面では氏名は明らかにしていないが、二十四歳の最年少編集者が選ばれたのだという。
 安全のため日中に行われたのだが、それでも困難の連続だった。ティムの駆け下りた反時計回りのルートには木々が密集して生えており、傾斜も急なため何度も木にぶつかりそうになった。全速力で走れば必ず樹にぶつかっていただろう。森を抜けた後もとがった岩場を下らねばならず、チャレンジした記者は途中負傷のためリタイアを余儀なくされた。学生時代山岳部にも所属していた山登りの経験者にもかかわらず、だ。企画自体は別のスタッフに交代し、ルートを完走こそしたものの時間的にはティムの記録に届かなかった。
 ティム自身「無我夢中の行動であり、もう一度やれと言われても絶対に不可能」と述べている。
 確かなのはスライムに襲われたはずのティムが翌朝、ふもとの村に現れたという事実である。
 村に着いた正確な時刻は不明だが、気象台に確認したところ、この時期のフンボルト州の日の出は午前五時二十七分。前後の時間から察するに、村に到着したのは午前四時過ぎ頃であろう。
「何があった? 親父さんはどうした?」
 エッカルトはトレメル村の気弱な少年のことを知っていた。
 たまに父親とともにふもとまで炭を卸しに来るので面識があった。
 四つん這いになって肩で息をしていたティムは目の焦点が合っていなかったが、エッカルトの顔を見るとたちまち生気を取り戻し、溺れた者のようにしがみついてきた。
「村が大変だ。スライムに襲われて」
「スライム?」
 エッカルトの頭に疑問符が浮かんだ。彼も昨夜までのトレメル村の住人同様、スライムの恐ろしさを知らなかった。
「早く助けを」
 そこでティムは精根尽きたのか突っ伏すように倒れ込んでしまった。
「おい、しっかりしろ」
 何度か呼びかけたが、返事はなかった。かろうじて息はしているが、衰弱しているのが素人目にも明らかだった。
「えらいこった」
 エッカルトは頭を抱えた。スライム云々ということは信じられなかったが、ティムがぼろぼろになって飛び込んできたのは事実である。何度か話したこともあったが嘘を付くような人柄には見えなかったし、こんな大怪我をしてまで嘘を付く人間がいるとは思えなかった。
 エッカルトは未だベッドの中、夢うつつであろう女房をたたき起こすべく、自宅へと駆け戻った。
 女房のマルゴットを揺すったものの目を覚まさなかった。大きな声を出しても目を覚まさないためエッカルトはかっとなった。自分がこんなに大変な目に遭っているのに、何のんきに眠ってやがるんだ、このアマ。気づいたときには花瓶を女房の頭の上でひっくり返していた。水とカサブランカの花をかぶったマルゴットはバネ細工のような動きで跳ね起きた。
 後日夫婦喧嘩で盛大にやり替えされるのだが、それはまた別の話である。

 ティムの介抱を女房に任せ、エッカルトは村にある軍の詰め所へと飛び込んだ。
 国境に近いため、州軍は当時いくつも詰め所をもうけていた。
 クレムラート村にも合計十四名が三交代で村の周りの見張りと警邏を担当していた。
 主な目的な隣国への警戒であるが、魔物対策用の浄化弾や洗礼槍も配備されており、エッカルトが向かったのは後者のためだった。
 その時、詰め所に居たのはヨハン・グスタフ軍曹である。当時三十八歳、一フート(約一六十センチ)と軍人にしては小柄な体格だが、目つきは鋭く、黒髪を短くまとめ、眉毛も太く、声は「メガホンをつけて生まれてきた」と評される大きかった。
 残っている写真を見ると軍人というより、侠客のような雰囲気の男である。事実、威勢がよく、親分肌であったためか人望は高かった。元々は州都の軍本部に勤務していたのだが、勤務中に博打を打っていたのが上官に見つかり、クレムラート村の詰め所勤務になった。早い話が左遷である。
 その時、グスタフ軍曹の機嫌は最悪だった。昨夜、出勤前に子供の進学のことで女房とケンカをしたこと、夜勤交代前の一番眠い時刻だったこと、そしてカモにするつもりで部下二人を誘った博打に 大負けしていたことだ。
 くさっていたところに激しく詰め所の扉を叩く音がした。
 詰め所と言っても、掘っ立て小屋に近いものだった。一応、周囲を塀で囲っているし、門にも見張りを常時二名、立てている。だが、詰め所の扉を叩くということは見張りが仕事をしていないせいである。彼らは今、本来の職務を離れ、カードで軍曹からなけなしの小遣いを巻き上げたところである。怒鳴りつけてやりたいところだったが、自分から誘った博打とあってはそれも叶わなかった。
「開けてくれ」
 エッカルトの声だとすぐにわかった。狭い村なので村人の顔と名前はたいてい覚えている。
「おい」とグスタフ軍曹は博打の相手であるナウマン二等兵に命じた。
 ナウマン二等兵が扉を開けると、エッカルトがあわてふためいた様子で異変を告げた。ティムから聞いたトレメル村の危機をなるべく正確に話していったが、だんだんと声が小さくなっていったという。トレメル山にスライムが出たという話はついぞ聞いたことがない。話しているうちに自分の話していることが信じられなくなってしまった。
「どう思われます?」
 もう一人の博打の相手であるシュリケ一等兵が上官に尋ねた。
「まずいな」
 グスタフ軍曹は顔色を変えてつぶやいた。もし、そのティムとかいう小僧の言っていることが本当なら自分たちの手に余る。
「至急、本部に連絡しろ。トレメル山山頂付近に大量の魔物が現れた。ただちに応援求む。要第三種装備だ」
 第三種装備は半魚人や海蛇など、水棲の魔物用の装備である。
 水棲の魔物はその性質上、水分の枯渇に弱い。当然スライムにも有効である。グスタフ軍曹はスライムの恐ろしさをよく知っていた。
 州本部に勤務していた頃、地底洞窟の魔物討伐に参加している。
 地下トンネル開通工事中に地底洞窟にぶつかり、そこから大量の魔物があふれ出したのである。工事を請け負っていた会社から警察を投じて軍に要請が入り、殲滅作戦に乗り出しており、グスタフ軍曹も参加していた。作戦自体は半日ほどで終了したものの軍人三名が殉職している。うち二名はスライムに溶かされたものだった。
 音もなく天井から落ちてきて、大の大人を飲み込む。一度捕まれば逃げることは困難である。あれが巨大でかつ大量に出てきたとなれば、村人なんかの手には負えない。
 スライムによる大量死という凄惨な事件の中に幸運があるとすれば、グスタフ軍曹というスライムの恐ろしさを知る人間がたまたまその時刻に居合わせたことだろう。賭け事好きの軍曹は勤勉ではないが、無責任ではなかった。素早く応援を要請したことでその後の対応はスムーズに進んだ。
 グスタフ軍曹の救援要請を受けたフンボルト州東部方面軍は州軍本部へと報告する。そして州軍本部は、フンボルト州陸軍東部方面軍の猛獣及魔物災害対策軍第三部隊の派遣を決めた。
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