第9話 不敗の剣
文字数 1,142文字
不敗の剣
○江戸の下町本所、江戸中期
江戸の下町本所にある「M庭念流剣術道場」は、道場主が下野の藩を出奔した浪人風情であるにもかかわらず入門志願者が後を絶たない。
道場の主人は、出水幸吉楼と名乗っているが、それがいかにも吉原狂いを天下に知らしめているようで、若い直弟子の正吉には歯痒くてならない。
「先生、出水というのは江戸に出てきてからの偽名でしょう。本名を名乗っては如何ですか。何しろ、先生は江戸に来てから真剣の立ち合いで一度も敗れたことがないという話なのですから」
「たまたまじゃよ。勝負は時の運」
師は、いつもこのように柳に風と受け流すばかり、夏山を往く天雲の如し。
それでも、門弟達は当流派に伝わるという「流水の受け」が身に付けたくて仕方がない。これさえ身に付ければ、生涯不敗であるという。
「先生、流水の受けというものは、如何なものなのでしょうか」、正吉は憚りながらも意を決するが如く聴いた。
「そんなものはない」
師匠は、とりつくしまもない。
そんな、師匠と直弟子がとりとめもない問答をしている時。
「御免っ!」
道場の入り口に現れたのは、身の丈六尺、重さは三十貫はありそうな大漢。手には長槍を持ち、腰には脇差を佩ている。
「手前は、元仙台藩先手長槍組頭、鬼塚五郎左衛門と申す者。道場主の出水殿と真剣にて勝負致したく参上した次第っ!」
漢は、必殺の気合にて意気軒高である。
出水は、漢を頭の天辺から爪先までジロリと見ると急に顔をしかめて腹を抑えだした。
「あっ、いたたた」
「ど、どうなされたか?」
「どうも昨晩夕餉の膳で頂いたハマグリがいたんでいたらしい。朝から腹が渋ってのう」
「そ、それはいかん。すぐにでも薬師に見て貰わんと」
「拙者はこれから小石川の診療所に向かうゆえ...」
「うむ、勝負は後日。大事になされよ」
漢は、道場から去っていった。
○それから半刻後...
「先生、先程のやりとり、納得がゆきませぬ」
若い正吉は、気持ちが真っ直ぐである。
「何がじゃ」
出水は、道場の窓から見える夕の月を眺めている。
「腹が渋るというのは仮病でしょう。兵法家として恥ずかしくないのですか?」
「ハジ?それは仕官した者が、俸禄の為に体面を保つことではないか。わしは天下の浪人、箱根の夏山をも悠々と超える天雲の如し」
はーっ、正吉は嘆息した。
「御免!当道場に入門したく参った次第..」
また新しい入門者が門を叩きに来た。
それでも流行るこの道場が、自身も何か離れがたいこの道場が、正吉には不思議でならなかった。
「これも縁というものかな」
○江戸の下町本所、江戸中期
江戸の下町本所にある「M庭念流剣術道場」は、道場主が下野の藩を出奔した浪人風情であるにもかかわらず入門志願者が後を絶たない。
道場の主人は、出水幸吉楼と名乗っているが、それがいかにも吉原狂いを天下に知らしめているようで、若い直弟子の正吉には歯痒くてならない。
「先生、出水というのは江戸に出てきてからの偽名でしょう。本名を名乗っては如何ですか。何しろ、先生は江戸に来てから真剣の立ち合いで一度も敗れたことがないという話なのですから」
「たまたまじゃよ。勝負は時の運」
師は、いつもこのように柳に風と受け流すばかり、夏山を往く天雲の如し。
それでも、門弟達は当流派に伝わるという「流水の受け」が身に付けたくて仕方がない。これさえ身に付ければ、生涯不敗であるという。
「先生、流水の受けというものは、如何なものなのでしょうか」、正吉は憚りながらも意を決するが如く聴いた。
「そんなものはない」
師匠は、とりつくしまもない。
そんな、師匠と直弟子がとりとめもない問答をしている時。
「御免っ!」
道場の入り口に現れたのは、身の丈六尺、重さは三十貫はありそうな大漢。手には長槍を持ち、腰には脇差を佩ている。
「手前は、元仙台藩先手長槍組頭、鬼塚五郎左衛門と申す者。道場主の出水殿と真剣にて勝負致したく参上した次第っ!」
漢は、必殺の気合にて意気軒高である。
出水は、漢を頭の天辺から爪先までジロリと見ると急に顔をしかめて腹を抑えだした。
「あっ、いたたた」
「ど、どうなされたか?」
「どうも昨晩夕餉の膳で頂いたハマグリがいたんでいたらしい。朝から腹が渋ってのう」
「そ、それはいかん。すぐにでも薬師に見て貰わんと」
「拙者はこれから小石川の診療所に向かうゆえ...」
「うむ、勝負は後日。大事になされよ」
漢は、道場から去っていった。
○それから半刻後...
「先生、先程のやりとり、納得がゆきませぬ」
若い正吉は、気持ちが真っ直ぐである。
「何がじゃ」
出水は、道場の窓から見える夕の月を眺めている。
「腹が渋るというのは仮病でしょう。兵法家として恥ずかしくないのですか?」
「ハジ?それは仕官した者が、俸禄の為に体面を保つことではないか。わしは天下の浪人、箱根の夏山をも悠々と超える天雲の如し」
はーっ、正吉は嘆息した。
「御免!当道場に入門したく参った次第..」
また新しい入門者が門を叩きに来た。
それでも流行るこの道場が、自身も何か離れがたいこの道場が、正吉には不思議でならなかった。
「これも縁というものかな」