第11話 蚊帳の中の女

文字数 952文字

蚊帳の中の女

○東京市上野、昭和15年5月1日午後九時

 蚊帳の中の女は、寝付けずに紅いルージュを引いた唇から熱い吐息を漏らしていた。
 「ああ、小吉さん」
 部屋は蒸し暑いが、仰ぐ団扇に力はなく、長襦袢から見えている白い太腿が汗ばんでいる。

 4月29日の天長節に同郷の小吉と上野の路地裏にある安い連れ込み宿に泊まったものの、小吉は何やら得体の知れない同輩と面付き合わせてひそひそ話すばかりで連れない。
  
 それでも4月30日には、団結式と称して思い思いのカップルが部屋で男女の交歓をかわした。女の子宮にも昨晩射精されたわななきがかすかな余韻として残っている。

 5月1日のメーデーの朝早く、小吉とその仲間たちは、リュック一杯のビラを背負って上野公園へと出動した。世直しの為だという。

 女は、一人部屋に取り残され、部屋に散らかった数枚のビラを手に取って見た。

 “被搾取労働者全面開放!”
 “資本家、財閥の解体!”
 “小作人、農村部の開放!”

 刺激的なゲキが踊るが、尋常小学校もろくに出ていない女には、何がなんだか分からない。
しかし、女は本能的に知っている。小吉のやっている危険なゲームに勝ち目がないことを。
 (ああ、小吉さん。なんで帰ってこないの。また、今晩も抱いて欲しいの)

 女は、安宿の二階に泊まっている。夜半、突如として階下の電話機が鳴った。
 「上野署からよ」
 中居が、女を呼んだ。
 
 (警察がなんの用かしら)
 女は、宿の主人の視線を感じ長襦袢の胸元を直した。

 「...小吉さんが、勾留中に食中毒にて死亡..」
 女は、目眩を覚えた。

 「夕方のラジオのニュースでね、今日上野公園で反動的なビラを巻いた連中を特高が一斉に逮捕したんだって」

 「あんたの連れもアカだろ。やめときなアンタも折檻されて殺されるよ」

 「天長節に集まって何話してるのかと思えば、ジャパンコミンテルンの話かえ」

 「あんたの連れだけじゃないさ、もう一蓮托生虫の息さね」

 中居達の噂話を背に女は二階に上がった。
 二階の窓からは、トイメンのビアホールが見える。
 「平凡の何が悪いのか」
 それがまた難しいことを女は知っていた。





 

 
 

 
 
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