第10話 不射の射

文字数 880文字

○江戸の神田、家光の頃

 鬼面斎は、弓の名人である。弓を弾けば、月に飛ぶ雁を射落とし、的を射れば言うに及ばず、幕府の指南役も仰せつかったこともある強者、その名は天下にとどろいていた。

 鬼面斎には高弟がいた。当流派の免許皆伝者、佐々木一路である。一路は今は江戸を離れ、大阪勤番に随行する形で上方にあがっていた。

 大阪城で勤務する一路にある日、江戸の弟弟子回路から文が届いた。なんと師匠があの伝説の境地「不射の射」に到達したというのだ。

 一路の文面を追う目は充血し、手は震えた。
「こうしてはいられない。上には事情を説明して、明日にも江戸に発たねばなるまい。先生ももう米寿を迎えられる。お祝いをかねて久々に先生にご挨拶でも」

 一路は、東海道を急いだ。そしていく年かぶりに懐かしい神田の弓道場に着いた。
 「神道無念流弓術」、古さびた看板も昔のままである。
 
 「先生!お久しぶりです。大阪の佐々木一路です」
 
 久しぶりに対面した師匠は、流石に老いていた。

 「先生!先生の弓がついに達人の境地になったと、文に...」

 「弓?そんなもんは知らんわいな」

 おお、この境地だ。これが伝説の達人の境地、「弓を忘れて弓を超える」の境地なのだ。一路の目頭は熱くなった。

 その時である。ジョジョじょっという派手な音とともに鬼面斎の足元に小便の尿溜まりができた。足元から、もうもうと湯気まで上がっている。

 「先生、こ、これは一体?」

 「あっ、すまんな。最近は、厠に行く前に漏れてしまってな」

 騒ぎを聞き付けた道場の若手が雑巾を手に馳せ参じた。弟弟子の回路である。

 「あっ、これは兄弟子の一路殿。大阪にいるはずが、何故江戸に?」
 
 「おぬしが文に、先生が不射の射に到達したとしたためたゆえ、とるものもとりあえずに馳せ参じたのではないか」

 「あっ、あれは拙者無学ゆえ、不瀉の瀉と書くべき所、あのように誤字を植してしまい。誠にあいすみませぬ」
 回路は、含羞の余りいばりを大いに吸った雑巾で顔面の脂汗を拭った。
 
 

 
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