第1話 しじみ

文字数 4,024文字

 しじみは、東京下町は柳橋で船宿「隅田川」を営む女将である。しじみには、女手一つで育てたひとり娘あさりがいる。
 あさりは、祖母のあおやぎが嫁入り前に東向島で算盤の師匠をしていた血を受け継いだのか都内の学芸大学にこの春進学した。
 しじみは、青天の霹靂と称したが、あさりは自身の猛勉強の賜物と疑わない。将来のビジョンも早くからあり、小学校の先生になりたいのだ。
 しじみは、今年で五十路を迎えるが、この辺りの人々のように素朴な信仰心のようなものをもっている。
 毎月の月初、四の日になると南千住の延命地蔵にしじみの佃煮を供えにゆくのだ。
 「今の人は、末法の世に生きているのだというけれど、この世に神仏がいたとしても銀行にお金が振り込まれることはない。けれど、転機は与えてくれる。それに気がつくひとが幸せになれる」と、母のしじみがしみじみ言ったことがある。
 あさりは物心つくと母のしじみと二人で生活していた。今でいう、いうなればシングルマザーである。しかし、母のしじみもまた祖母のあおやぎに女手一つで育てられたのだという。
 だとすると、どうやらこれは遺伝、家系に潜める業のようなものではなかろうか、とあさりは訝ることがある。それで、母は延命地蔵に縋って生きているのだと。
 延命地蔵は、小塚原の仕置き場で斬首された罪人の菩提を弔う為に建てられたと聴く、そのような浄業の強い佛でないと我家の母系は救われないのではなかろうかとあさりは思う。
 女手一つで代々切り盛りしてきた船宿「隅田川」には、伝家の宝刀とも思しきものがある。それは、しじみの佃煮だ。
 そのレシピの元本をあさりが最初に目にしたのは、祖母あおやぎの月命日に三ノ輪の浄閑寺に参った時であった。
 住職が手ずから見せてくれたそれは、古さびた和紙に墨書された小冊子のようなもので、当時あまりに貴重だと判断した母しじみが入棺せずに過去帳とともに寺に預けていたものであった。
 それは江戸草書体で書かれた解読困難なものであったが、巻末にかすかに寛永の文字を認めたときには、あさりは愕然とせずにはいられなかった。
 いったい何代の女達が、あの船宿「隅田川」を継いでいるのか、しかも過去帳を見ると代々女将はみな汽水性を好んで棲息する貝の名前をつけられている。
 あさりは、閑散とした境内で、「女も潮を吹くようになったら一人前さ」という母しじみの言葉を漫然と思い返していた。
 船宿に戻ってみると、仏壇の遺影に映る祖母は、孫娘の自分から見ても美人である。どこか物憂げな微笑みが、往年の大女優大原麗子に似ている。美しい瓜実顔、小柄で細身なのだが胸が大きい、下町の美人といった風情である。
 そして、母のしじみ、自分も祖母とよく似た顔立ち身体つきをしている。ただ歳と世代だけが違うタイムスリップしたような母系家族、この家に婿入りした漢はただ受精の為に精子だけ貸して、さっさと他界する宿命があるようにも見える。
 母しじみは、船宿に泊まった客だけではない、界隈の常連との絆を大切にする為に、午後五時前から午後九時過ぎまで居酒屋をやることにしている。
 それで、時間に余裕のあるときにはあさりも午後の仕込みを手伝うことにしている。中心となるレシピは、しじみの佃煮、アサリ飯、はまぐりの塩焼きなどの貝料理だか、その時は母しじみの機嫌が良く、あさりは決まって定番の話を聴かされることになる。
 「バブル期にはね、霞ヶ関の御偉いさんがよく来たわ。欧州の出張土産だと言ってね。お母さん、よく香水やイヤリングをもらったわ。地位のある漢って、どうして女に高価な舶来品を贈りたがるのかしら。いやだわ」
 母しじみの話は、ささやかな自慢なのだが話の締めは必ず店に来る旦那衆の欠点で終わる。しかし「どうして地位のある漢は...」のくだりに来ると、母の襟足からプゥンと色香が立ち昇る。それをあさりは不思議だと思いつつ見逃さないようにしている。
 「お婆さんの時代はね、市ヶ谷から軍の高官が来たんだって。それでね当時の御禁制だった欧州の品を持ってきては、お婆さんの手を握ったそうよ。いやねえ、漢の人って」
 母は仕込み作業をしながら、「いやねえ、漢の人って」を繰り返すたびに瞳がキラキラと輝き出し、尻の先端が女王蜂のように尖って若返ってゆくように見える。
 「その、お婆さんの先代にはね、明治政府の高官がいらっしゃったそうよ。鹿鳴館の交流で手に入れた欧州の舶来品を手にしてね。オイコラ式に組み敷かれた話も聞いているわ。柳橋 夜の座敷は 泥鰌髭だって。いやだわ、明治の漢って」
 「そのお婆さんの先先代にはね、お城の幕閣がお忍びでハゼ釣りにいらっしゃってね、長崎の珍しい舶来品やギヤマンの櫛を贈られて困ったそうよ。町方の女は、お侍さんには口ごたえできない時代だったからきっと抱かれた夜もあったんだわ。いやねえ、漢の人って」
 しじみは、煮えたしじみの佃煮をパクッと紅を引いた口に入れるや、うんと頷き益々の上機嫌である。
 母のこうした自慢話を延々と聴かされていい加減いやになってくると、あさりはこの家に婿入りした男の話を持ち出すことにしている。
 「お母さん、ところでおじいさんってどんな人だったの?」
 「お爺さんはね、売れないプロレタリア作家だったらしいわ。それで特高に捕まってね。お婆さん、泣いて返してくれるように頼んだけど結局は駄目だった。馬鹿な男と一緒の舟に乗ると泣くのはいつも女さ。しかも舟までこがされる。理不尽な話さね」
 しじみは、これだけ言うと最近茶色に染めてアップにした髪を手で少し直し、まだ女っ気のある胸元の谷間に溜まった汗をハンカチで拭うと玄関先に出て忙しく打ち水をし始める。
 しじみは、夜の営業を十時前に終えると後片付けをし、十二時前には寝ることにしている。朝は、午前5時前には起床し、朝飯を宿泊客だけではなく、付近に馴染みの一般客にも開放して提供している。
 朝飯のレシピは、一年を通して大して変わらない。白飯に味噌汁、自家製のぬか漬け、だし巻き卵、しらすおろし、しじみの佃煮、そして納豆か山芋がつき、一口サイズの奴に季節の焼き魚が一尾という和風の朝餉である。
 「お母さんの娘時代には、隅田川にもイナダが遡上してきたんだけどね。護岸工事をしてからはめっきり少なくなった。寂しいね」が、母の口癖である。
 しかしこれで390円というから安いものである。500円とってもバチは当たらないのにとあさりが言っても、原材料が値上がりしても、しじみは頑として値を変えない。どうも英語のサンキューに由来してゲンを担いでいるらしい。
 しかし味噌汁の出汁は、銚子産の鯖節と片口鰯からとっているので濃厚であり、いつしか近所のサラリーマンに固定客を生じた。
 初老の紳士、斎藤もそのひとりである。彼は、馬喰町の商品先物会社に勤める中間管理職、地位も富もありながら関西人なので垣根が低い。母は、この手の漢に弱い。
 「わいもな阪大を出てからな一生難波暮らしやと思うておったけどな、ご先祖さんに呼ばれたんやろな。この辺で札差しをやっおったからな、馬喰町の会社で働くことになってしもうた。因果な血筋やな」
 「まあ、ご先祖さんが札差しを」
 母の目がキラキラと輝き出す。 
 「あっ、そうやった。忘れてまうところやった。これはな、欧州出張のお土産、しじみはんにジバンシーの香水や。それで、これはあさりちゃんにゴーディバのチョコレートや」
 「いいんですかぁ、こんな高いもの」
 「ええがなぁ、わいもな女房に先立たれて心が寂しいんや。しじみはん親娘にもらってもらうとな、わいも心が温まるんや」
 斎藤は、欧州土産を持ってきたときには、それとなくしじみの手を握る。
 「いやだわ、斎藤さん」
 五十路のしじみが恥じらう瞬間である。

 その晩、しじみは珍しく午後9時過ぎには店を閉めると言い出した。
 「なんだか、身体全体が火照るの」
 「まあ、お母さん、もう二階で休んだら。中国から悪いウイルスが来てるし。後はわたしに任せて、やっとくから」
 「違うの。そういうのじゃないの。あんた、あれある?」
 「えっ?あれってまさか、お母さん」
 「そうなの、更年期が過ぎて女のものはとっくに終わったと思ってたのに、また始まっちゃったの。いやだわ斎藤さん、こんなお婆ちゃんの身体に火をつけて」
 「二階のワタシのバッグにナプキンとタンポンも少しあったわ。好きな方を使って頂戴。あっ、それとワタシ大学の課題で小論文があるから今日は片付けが終わったら下で寝るから。たぶん今日は寝るのは2時過ぎになるから」
 「そう」
 母は、和服の裾を直すとしずしずと二階に上がって行った。
 あさりの小論文は好調に書き進んだ。しかし丑三つ時を過ぎた頃、あさりの筆がピタリと止まった。シャーペンの芯がなくなったのだ。
 芯は、二階のあさりのバッグの中にある。あさりは、もうとっくに疲れ果て寝鎮まっているであろう母を起こさないよう木造の階段を静かに踏みしめながら進んだ。
 あさりは二階の寝室の前まで来た時、「うーっ」という雌犬の低い唸り声のようなものを聴いた。
 あさりは、おそるおそる障子を2センチ程開けて部屋の中を覗き込んだ。
 母は、掛け布団をはだけ、部屋に入ってくる月光をかすかに浴びながら、右手でいまだ豊満な乳房を揉みしだき、左手で秘裂を弄っていた。
 「...ああ、斎藤さん。罪作りな人」
 やがて、母の裸身がガクガクと痙攣し、女性自身からシオを吹くと高潮に達して果てた。
 あさりは、何か見てはいけない禁忌を見てしまった罪悪感にかられ、少し開けた障子を音も無く閉めて階下に降りた。
 「ああ、お母さんもまだ女なんだ」
 
 

 
 
 
 
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