第14話 仲見世の開化鍋

文字数 1,622文字

 
仲見世の開化鍋

○旧東京市浅草寺の仲見世、昭和11年11月3日の明治節

 日頃人出で賑わう浅草寺、霜月の明治節には仲見世にも日章旗がはためくが、夕暮れ時には旗を片付ける店もちらほらと見え始め、北風も手伝ってか、そこはかとない寂し気が漂う。

 英文女学生の沙耶は、仲見世の一角に陣取るももんじ屋の前に居た。
 「栄次さんったら、遅いなぁ」
 もう夕方の5時を過ぎると辺りはぼちぼち薄暗くなる。小水の尿意も手伝って沙耶はもじもじし始めた。

 参拝者は、参道にでんと置かれた香炉の煙で身を清めるとそそくさと足早に帰路につく。
マフラーやオーバーの襟に首を竦める人々の足取りは、師走を予感してか何かしら忙し気だ。

 沙耶の耳が、いつもの聴きなれた高下駄の音を捉えた。

 「よう、待たせたね」
 マントに学生服、英文書をバンデージで括って肩から担ぎ、寒かろうが暑かろうが高下駄の音を響かせて栄次は登場する。

 「待ってなんかいない。全然」
 沙耶は、唇を尖らせ上目遣いに栄次を見た。

 「外は、寒いだろう。さっ中に入ろう」
 栄次が、沙耶の肩を抱いて中に促した。

 「栄次さんこそ」
 沙耶は、栄次のあかぎれの足元に視線を落とした。

 「あら、栄次さん久しぶり」
 個室に通された栄次に挨拶した女将は、栄次と顔馴染みのようだった。

 「随分と懇意なようね」
 沙耶は、視線を右上方にずらした。

 「父も祖父も陸軍の将校でね。この店の開化鍋が気に入り、僕も幼少の頃から連れて来られたんだ。ここの開化鍋は絶品だ。たぶん東京市一じゃないかな」
 ぐつぐつ煮える開化鍋の湯気の向こうに栄次のどこか誇らし気な表情が見える。

 「開化鍋って、古い言い方だわ。すき焼きって言うのが今風なのよ」
 沙耶は、待たされたこともあり、少し憎まれ口をききたくなった。
 「世界の人がお互いに思いやりをもって生活すれば、戦争なんて無くなるのに」
 沙耶は、菜箸をとって野菜を煮っ転がした。

 「ふっ...君のような女学生にボク達大人の男たちがやる世界戦略なんて分かるもんか」
 栄次が視線を横にずらした。
 「あっ、そうだキミに今日ここに来てもらったのは他でもない。来春の結納のことなんだけど延期してもらえないか」
 栄次がぐつぐつ煮える鍋ヅラを見つめた。

 「どうして?お父様にもお母様にもワタシご挨拶申し上げたわ」
 沙耶が上目遣いの恨み節を垣間見せた。

 「実は、来春のT大卒業と同時にボクは久留米で陸軍の本科教育を受けて、憲兵士官としてハルビンに赴任することになったんだ」
 栄次の瞳がキラッと光った。

 「...どうして?もう満州には三十万人以上の兵隊さんが居るって聴いたわ。その上に栄次さんまで要るの?」
 沙耶は、突然の話に菜箸を口に咥えた。

 「来春、満州軍は大きな作戦を考えているらしい。もしかしたら、中国全土も視野に入れているのかも」
 
 「狂っているわ。陸軍の人たち、そんなことできるわけないじゃない」
 沙耶は、キッと栄次を睨み付けた。

 「所詮、キミのような女学生は...」

 「分からないわ。分かりたくもない。だけど、女には分かるの、直感でね」
 沙耶は、栄次の目を見て離さない。

 「女の直感か...ふっ。そういえばキミ、日本髪から洋髪に切り替えたんだな」
 栄次は、沙耶から目を離して話題を逸らした。

 「話を逸らすつもり?この国は坂道を転げ落ちているのよ...英語を話して外国人と交渉できた外相の高橋さんを射殺するなんて、御天道様に背く行為、きっとバチが当たるわ」
 沙耶が、口角泡を飛ばして捲し立てた。

 「女のキミに何が分かるってるんだい!」
 我慢出来なくなって、栄次が席を立ち上がって怒鳴った。

 二人の間に気まずい沈黙が流れた。

 栄次は、許嫁に怒鳴ったことで含羞の念に執われた。

 そして、沙耶から菜箸を受け取り、小鉢に開化鍋を取り分けると静かに沙耶に勧めた。

 沙耶の口に開化鍋はただただ苦かった。
 
 

 

 
 

 
 
 

 

 
 
 

 
 
 
 
 
 
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