第7話 お初講
文字数 2,808文字
お初講
○東京市西部深奥H村、明治時代
岡野平蔵(28)は、下谷で岡っ引をしていた男である。明治新政府になり、経験を買われて巡査に取り立てられたものの、駐在としての赴任先は地図上にも記載のないH村である。
「兎にも角にも不可思議な村なのだ。村人はおろか、駐在までもが神隠しに遭うというのだ。わが日の本は、文明開化を果たし欧米諸国に追いつけ追い越せ。まずは、こうした迷信を打破せねばな」
これが、桜田門の上司の言い分である。
岡野は、不承不承にも辞令を呑み、単身H村に駐在として赴任した。
「何もない村だ」
これが、率直な岡野の感想であった。H村は、秩父山脈を睨んだ山深い山里で、猫の額ほどの段々畑に野菜や麦を少し作るくらい、後は山菜を採ったり、猪などを狩ったりする貧しい暮らし、家も十数戸しかなかった。
村には、郵便局も学校もなく、病院や役所も無いため、文明開化の恩恵を受けようとすれば、村から数里離れたF街まで出るしかなかった。
「今度、桜田門から赴任しました駐在の岡野です。よろしくお願いします」
岡野は、赴任早々村長の樋田に丁重に頭を下げて挨拶した。
「ふん、こんな寂れた村よりF町に駐在して、此処へは月一回来るだけでいいべよ」
とりつくしまもない。
「そ、それでも神隠しに遭う者が後を絶たないとか」
(この村長、なにか隠していやがるな)
「神隠し?そんなもん江戸の時分にはあったかもしれねえが、今はねえな」
村長は、神隠しという言葉を聴くと妙に色めきたった。
○それから数週間後...
岡野は、F街から取り寄せた戸籍謄本を元に家庭訪問をしたのだが、ある家で明らかに異常が見られた。
「おい、この家に平太(19)という者がいるはずだが、最近どこにも見当たらんではないか」
岡野は、土間にあった米櫃をさり気なく覗いた。いつもより多い。
「わ、わしゃ知らん。ありゃ、そうじゃ甲山の天辺に居る天狗の悪太郎に連れ去られたんじゃ。なあ、おっかあ」
主人は、明らかに動揺している。
「あっあっ、そうじゃ悪太郎じゃ。悪太郎は昼間はいないが、夜になると甲山の山頂に現れます」
女房も紋切り型の応えしなしない。
(ヤクザだな。これで、神隠しの謎が解けるぞ)
岡野は、事件の鍵を握ったと確信した。
○H村、甲山
甲山は、H村の西に位置する標高500mくらいの小高い山である。
岡野は、陽の沈むのを待って腰にサーベルを佩き、甲山の山道を登り始めた。
途中、獣道でガサッと音がしたり、狐狸の咆哮らしきものが聴こえる以外は、人気もない寂しさである。
岡野は、松明の火だけを頼りに山頂目指して黙々と歩を進めた。
山頂付近まで来た岡野の眼に灯りをかすかに灯した小さな山小屋が見えて来た。遠くからでもコマ札をガチャガチャと掻き回す音や丁半の掛け声が聴こえてくる。
(こんな処に鉄火場が。一丁締め上げてやるか)
岡野は、山小屋の扉を荒荒しくブーツで蹴破るとずかずかと鉄火場のボンゴザに上がり込み、コマ札と壺を蹴り上げた。
「駐在だっ!誰の許可を得て鉄火場なんて開いていやがる。逮捕するから、神妙にしろい!」
岡野が凄んでサーベルを抜くと4、5人いた客はクモの子を散らすように山小屋から出て行った。
小屋には、額に向う傷のあるヤクザ風体の漢だけが観念したように膨れっ面で座っている。
「貴様が悪太郎か、素直に話せばよし。さもなければ、首を撥ねるがどうだ」
岡野がサーベルの切っ先を悪太郎の鼻先に突き付けた。
「....」
悪太郎も悪党なりに腹ができているのか脅しに動じない。
「俺も鬼ばっかりじゃねえんだ。話してくれりゃあよ」
岡野がサーベルの替わりに一円札をチラつかせた。
それは、この山里にあってはとんでもない大金である。
「へへっ、旦那も人が悪いなぁ。何がしりたいんで?」
悪太郎がバリトンを響かせた。
「里の平太って若者が消息不明なんだが」
「へっ、あいつか。あいつはもう生きちゃいねえよ。今頃、ぶっ殺されてどっかの山奥に埋められてるさね」
「なぜ、殺されなけりゃならん?」
「あいつはな、抜け駆けしたのよ」
「抜け駆け?どういうことだ?」
「山里の南に小川が流れているだろう。そこを下流に向かって一里ほど下る。するとそこに小さいけれど綺麗な小屋がある。住んでいるのは、お初っていう歳の頃は四十前後の女だ、匂いたつような色気の塊りみたいないわば妖怪よ」
悪太郎は、傍らの瓢箪から水を含んだ。
「お初ってのは、ここH村の出なんだがえらい別嬪だったもんで、請われてF街の大店の旦那さんのところに輿入れした。ところが、読み書き算盤が出来ねえ上に肝心の子供が出来ねえ、それで姑が怒り出して離縁されちまってな。村に帰った」
(何を言ってるんだ、このヤクザもんは)
「それでな、村長が叔父だったもんで今後の身の振り方を考えた。それで、奴はお初講ってのを考え出したのよ」
「お初講?何だそりゃ」
岡野は、このタイミングで一円札を渡した。
悪太郎は、それをそそくさと懐に入れた。
「まず、この村の漢は二十歳になると筆下ろしをお初に頼む、するとお初ってのは絶品の名器だから味を覚える。それで皆が毎月少しづつ村長に金を積み立てて、一定額になると順番に若者にもたせる。その金で一月に一回だけ選ばれた奴だけが、お初を抱けるって寸法さ。どっかのヤクザみたいな話さね」
(なる程、この村の飯盛り女か)
「しかし、若い奴には順番なんか待てねえ奴も出てくる。村長の家に忍び込んで、金を持ち逃げしてこっそりお初を抱きに行く奴がな。それだって事前に村長から次行く奴を知らされているお初が気がつかないはずがねえ。ばれれば生命はねえんだ」
(なる程、村ぐるみの私的制裁が神隠しに)
「ありがとう。これで謎が解けたよ」
岡野は、踵を返した。
「あっ、旦那わるいことは言わねえ。あの女には近づかねえこった。あの女は魔性の女、村長は妖怪だぜ」
(それが、俺の役目なんでな。これで俺も出世できそうだ)
岡野は、また松明の灯りを頼りに山道を下り出した。
○一ヶ月後....
「今度、このH村に新しく赴任することになった駐在の新谷です。前任者の岡野が神隠しにあったと聴いています。何かご存知でしたらお教え願います」
新任の新谷巡査が、村長に丁重にアタマを下げた。
「岡野?さあ、知らんね。神隠しは、江戸の時分はあったらしいが、今はなあ、ないじゃろ」
村長は、やせた筋肉質の腕をかいて、ザクッと段々畑に鍬を入れた。
○東京市西部深奥H村、明治時代
岡野平蔵(28)は、下谷で岡っ引をしていた男である。明治新政府になり、経験を買われて巡査に取り立てられたものの、駐在としての赴任先は地図上にも記載のないH村である。
「兎にも角にも不可思議な村なのだ。村人はおろか、駐在までもが神隠しに遭うというのだ。わが日の本は、文明開化を果たし欧米諸国に追いつけ追い越せ。まずは、こうした迷信を打破せねばな」
これが、桜田門の上司の言い分である。
岡野は、不承不承にも辞令を呑み、単身H村に駐在として赴任した。
「何もない村だ」
これが、率直な岡野の感想であった。H村は、秩父山脈を睨んだ山深い山里で、猫の額ほどの段々畑に野菜や麦を少し作るくらい、後は山菜を採ったり、猪などを狩ったりする貧しい暮らし、家も十数戸しかなかった。
村には、郵便局も学校もなく、病院や役所も無いため、文明開化の恩恵を受けようとすれば、村から数里離れたF街まで出るしかなかった。
「今度、桜田門から赴任しました駐在の岡野です。よろしくお願いします」
岡野は、赴任早々村長の樋田に丁重に頭を下げて挨拶した。
「ふん、こんな寂れた村よりF町に駐在して、此処へは月一回来るだけでいいべよ」
とりつくしまもない。
「そ、それでも神隠しに遭う者が後を絶たないとか」
(この村長、なにか隠していやがるな)
「神隠し?そんなもん江戸の時分にはあったかもしれねえが、今はねえな」
村長は、神隠しという言葉を聴くと妙に色めきたった。
○それから数週間後...
岡野は、F街から取り寄せた戸籍謄本を元に家庭訪問をしたのだが、ある家で明らかに異常が見られた。
「おい、この家に平太(19)という者がいるはずだが、最近どこにも見当たらんではないか」
岡野は、土間にあった米櫃をさり気なく覗いた。いつもより多い。
「わ、わしゃ知らん。ありゃ、そうじゃ甲山の天辺に居る天狗の悪太郎に連れ去られたんじゃ。なあ、おっかあ」
主人は、明らかに動揺している。
「あっあっ、そうじゃ悪太郎じゃ。悪太郎は昼間はいないが、夜になると甲山の山頂に現れます」
女房も紋切り型の応えしなしない。
(ヤクザだな。これで、神隠しの謎が解けるぞ)
岡野は、事件の鍵を握ったと確信した。
○H村、甲山
甲山は、H村の西に位置する標高500mくらいの小高い山である。
岡野は、陽の沈むのを待って腰にサーベルを佩き、甲山の山道を登り始めた。
途中、獣道でガサッと音がしたり、狐狸の咆哮らしきものが聴こえる以外は、人気もない寂しさである。
岡野は、松明の火だけを頼りに山頂目指して黙々と歩を進めた。
山頂付近まで来た岡野の眼に灯りをかすかに灯した小さな山小屋が見えて来た。遠くからでもコマ札をガチャガチャと掻き回す音や丁半の掛け声が聴こえてくる。
(こんな処に鉄火場が。一丁締め上げてやるか)
岡野は、山小屋の扉を荒荒しくブーツで蹴破るとずかずかと鉄火場のボンゴザに上がり込み、コマ札と壺を蹴り上げた。
「駐在だっ!誰の許可を得て鉄火場なんて開いていやがる。逮捕するから、神妙にしろい!」
岡野が凄んでサーベルを抜くと4、5人いた客はクモの子を散らすように山小屋から出て行った。
小屋には、額に向う傷のあるヤクザ風体の漢だけが観念したように膨れっ面で座っている。
「貴様が悪太郎か、素直に話せばよし。さもなければ、首を撥ねるがどうだ」
岡野がサーベルの切っ先を悪太郎の鼻先に突き付けた。
「....」
悪太郎も悪党なりに腹ができているのか脅しに動じない。
「俺も鬼ばっかりじゃねえんだ。話してくれりゃあよ」
岡野がサーベルの替わりに一円札をチラつかせた。
それは、この山里にあってはとんでもない大金である。
「へへっ、旦那も人が悪いなぁ。何がしりたいんで?」
悪太郎がバリトンを響かせた。
「里の平太って若者が消息不明なんだが」
「へっ、あいつか。あいつはもう生きちゃいねえよ。今頃、ぶっ殺されてどっかの山奥に埋められてるさね」
「なぜ、殺されなけりゃならん?」
「あいつはな、抜け駆けしたのよ」
「抜け駆け?どういうことだ?」
「山里の南に小川が流れているだろう。そこを下流に向かって一里ほど下る。するとそこに小さいけれど綺麗な小屋がある。住んでいるのは、お初っていう歳の頃は四十前後の女だ、匂いたつような色気の塊りみたいないわば妖怪よ」
悪太郎は、傍らの瓢箪から水を含んだ。
「お初ってのは、ここH村の出なんだがえらい別嬪だったもんで、請われてF街の大店の旦那さんのところに輿入れした。ところが、読み書き算盤が出来ねえ上に肝心の子供が出来ねえ、それで姑が怒り出して離縁されちまってな。村に帰った」
(何を言ってるんだ、このヤクザもんは)
「それでな、村長が叔父だったもんで今後の身の振り方を考えた。それで、奴はお初講ってのを考え出したのよ」
「お初講?何だそりゃ」
岡野は、このタイミングで一円札を渡した。
悪太郎は、それをそそくさと懐に入れた。
「まず、この村の漢は二十歳になると筆下ろしをお初に頼む、するとお初ってのは絶品の名器だから味を覚える。それで皆が毎月少しづつ村長に金を積み立てて、一定額になると順番に若者にもたせる。その金で一月に一回だけ選ばれた奴だけが、お初を抱けるって寸法さ。どっかのヤクザみたいな話さね」
(なる程、この村の飯盛り女か)
「しかし、若い奴には順番なんか待てねえ奴も出てくる。村長の家に忍び込んで、金を持ち逃げしてこっそりお初を抱きに行く奴がな。それだって事前に村長から次行く奴を知らされているお初が気がつかないはずがねえ。ばれれば生命はねえんだ」
(なる程、村ぐるみの私的制裁が神隠しに)
「ありがとう。これで謎が解けたよ」
岡野は、踵を返した。
「あっ、旦那わるいことは言わねえ。あの女には近づかねえこった。あの女は魔性の女、村長は妖怪だぜ」
(それが、俺の役目なんでな。これで俺も出世できそうだ)
岡野は、また松明の灯りを頼りに山道を下り出した。
○一ヶ月後....
「今度、このH村に新しく赴任することになった駐在の新谷です。前任者の岡野が神隠しにあったと聴いています。何かご存知でしたらお教え願います」
新任の新谷巡査が、村長に丁重にアタマを下げた。
「岡野?さあ、知らんね。神隠しは、江戸の時分はあったらしいが、今はなあ、ないじゃろ」
村長は、やせた筋肉質の腕をかいて、ザクッと段々畑に鍬を入れた。