第13話 江戸城の掘り

文字数 1,214文字

 江戸時代幕末慶応年間、江戸城の堀では漁師の伝八が、朝から小舟を浮かべ釣り糸を垂れているが釣果は思わしくない。

 「あれっ、伝八の旦那。また、お堀で鯉釣りですか。精が出ますね」
 神田市場の青物売り、太朗が第八車に青物を摘んで橋を渡ろうとしている。

 太朗と伝八は、日本堤の長屋で隣同士の顔見知り。

 橋の上を旗本の籠がいつになく忙しく行き交う。

 伝八「...」
 伝八は、憮然たる面持ちで浮きを眺めている。

 太朗「いっそ、網を使って底から攫ったらいいのに」

 伝八「...」
 

 太朗「全く、漁師ってのは、アタマがいいのか悪いのか分からねえ。ちょっと袖の下を効かしゃ世の中うまい具合に行くのにさ。サカナの骨ばかりかじってやがるから、皆硬骨漢になっていけねえやね」
 太朗は、橋の上から見下ろして話す。

 伝八「うるさいっ!網なんか使ったら、お城警備の服部様にどやされるし、袖の下をきかせる金がありゃ、俺は掘りじゃなく吉原に浮かんでるぜ馬鹿野郎!」
 伝八は、目を吊り上げて掘りから見上げる。

 太朗「しかしなんだって旦那、鯉ばかり釣るんですかね」

 伝八「鯉はな、その生き血が労咳の薬になるんだ。おまえが騒ぐから浮きが引かなくなったじゃないか。早く立ち去れ」

 太朗「はっ、はーん。さては、長屋の青梅さんに恋をしたな旦那。最近、寝込んでると思ったが労咳だったとはな。もう、あきらめるこった。器量良しだが、労咳は不治の病だ」

 伝八「俺が助ける」

 太朗「あの良庵とかいう漢方の藪医者より、蘭方医の方が進んでますぜ。そっちに診せたらひょっとして治るやも」

 伝八「俺は、毛唐は好かん。第一、その毛唐の船乗りが横浜にもたらした花柳病こそ不治の病じゃないか。...青梅さんが治ったら、祝言をあげて深川に小さな船宿と居酒屋をやるのが俺の夢よ。彼女と身を固めるのよ」
 伝八は、今年でハヤ数えの四十を迎えようとしていた。

 太朗「旦那が身を固めるって言ったって、もう将軍は政事を帝に返すおつもりらしい。そうしたら、世の中がひっくりかえって大変なことになりますぜ」

 伝八「政事など知るか。まずは暮れを無事越して正月を迎える算段だ。青梅さんと一緒に餅を焼いて食うのがオレのささやかな夢よ」

 太朗「はーあ、青梅さんも年内もちますかね。
 鯉を釣る 漁師の夢は 水の上

 陸の上では うたかたの恋
 
ってね、旦那!」

神無月、堀の水面を寂しい秋風がピューと吹く。

伝八「おいっ、早く居なくならねえとさ、深川のお不動さんの真言を唱えるぜ」
 伝八が、数珠を手にし怖い目つきをして睨む。

太朗「ほーっ、怖い怖い。イワシのアタマも信心からって、旦那の場合は、コイのアタマだから恋煩いだろ」

 伝八「悪魔よ去れっ!橋の上から」

 太朗は、さもあきれたかのようにまた第八車を引き始めた。
 

 
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