第8話

文字数 862文字

 昼間は太陽の光の下で、今日もあの女は現れるのだろうかと考え、夜は、幕を下ろしていく夜の帳を見つめながら、もうすぐ女の現れる時間だと思う。そして女が窓の向こうに、青い姿を見せたその後は、彼女の姿が目に焼きついて離れない。
 眠りに落ちる、その瞬間まで。目を覚ました、その瞬間から。落ちる女のことばかり考えている。
 幸いと言っていいのかどうかはわからないが、女は現れ、ただ落ちていくだけだった。実害はなさそうだし、気にしなければいい。その時間はカーテンをきっちり閉めてしまうか、風呂にでも入って。
「きっと、そのうち消えるよ……」

 時間が流れた。日は駆け足で早くなり、コートが必要な日が増えてきた。
 毎日、何事もなく過ぎていった。学校に行き、バイトに行く。休みの日は遅くまで寝て、学校の課題をやる。そして夜中には、落ちる女の幽霊を見る。信じられないことだが、だんだんそれに慣れてきてしまった。
 その時間が来るとどうしても、見えない何かに引かれるように、顔がそちらを向いてしまう。夜の中に青い腕が現れる。女が姿を現す。無言でそれを見守る。女の目と脩介の目が同じになったとき、二人の目が合う。夜の海の色の瞳が、脩介を捉える一瞬。それを過ぎると女は、ゆっくり下へ落ちていく。幻のような一時。
 不思議なことに、最初見たときは、恐怖しか起こさなかった顔が、いつの間にかいろいろな表情を見せるようになっていた。生きている人間と同じように、うれしそうだったり、楽しそうだったり、少し悲しそうだったり。それでいて青白い女の顔は、生者の生々しさがまるでない。さまざまな表情を持っているのに、冷たく青い。まるで、無機質な陶器みたいに。
 きれいだ、と脩介は思った。落ちる女は美しかった。生きているとあり得ない、非現実の存在だからこそ、持っている美しさだった。何も持っていない死者だからこそ、神さまが許してくれた、こんなにきれいであることを。

 脩介は時折り、彼女に向かって話しかけた。
「……今日、こんな本買ったんだ」
「……この先生の授業が、好きなんだよ」
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