第5話

文字数 961文字

 マンションの窓の外を、二日連続で、同じ女が落ちていく。そのことが差している意味は一つだけ。
「ゆ……」
 口の先から言葉が出そうになるのを、かろうじて止めた。口にしたら、それをたしかなものにしてしまいそうな気がした。
そうやって仰向けに寝転がりながら、しばらく天井を見上げていた。きのうよりは幾分ましだが、体の芯を、青くて冷たいものが駆け抜けていくような感覚は、簡単には抜けない。
 目を瞑るのが怖い。瞼の裏の暗闇に、女が上から落ちてくる姿が浮かび上がってくるような気がした。

 次の日。
 脩介は、きのうと同じようにニュースを探してみたが、女の自殺の話はなかった。学校とバイトの一日を終えると、家に帰ってシャワーと夕食を済ませ、決意を込めてそのときを待った。
もちろん怖い。でも確かめたかった。もう、きのうや一昨日ほどは、自分が脅えていないのがわかった。
 テレビをつけて、スマホを触りながら、そのときを待った。強いて時間を見ないようにしながら。
 何かを感じた。青くて透明なものが、体の中をさっと駆け抜けていく感覚。スマホをいじる手が止まる。咄嗟に時間を確認した。〇時二十三分。
 脩介は、首を巡らした。
 窓の向こうに、女がいた。女は上から、ゆっくりと落ちてきた。ぬばたまの闇を背景に、細い両腕を下に向け、長い髪と白いフレアーをふわりと広げながら。落ちているのに緩やかで、まるでお花が舞っているようだった。何もかも、きのうや一昨日と同じだ。
 動悸が逸(はや)る。脩介は黙って、落ちていく女を見つめた。女の瞳と脩介の瞳の高さが同じになったとき、女は脩介を捉えた。脩介も女を見返した。深い海の底を覗いたようだった。
 鼓動がいっそう早まる。それは体内で響き渡る、警鐘かもしれなかった。
“だめだよ。あれを見ちゃいけない。あれは、自分とは違うものだ”
“あの瞳から目を逸らせ。そうしないと、捕まって、絡み取られて、逃げられなくなるよ”
“逃げられなくなるよ”  
 だけど、目が離せなかった。逃げ出したい気持ちを、震える足を、奮い立たせ、静かに女を見つめた。女の瞳が、瞬いたように感じた。長い黒い睫毛が揺れた。まるで、脩介に向って何かを言ったかのように。
 女はゆっくりと、落ちていった。

女が消えた後にはただ、冷たくて青い静寂と、何もない夜だけが残った。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み