第9話

文字数 960文字

 まるで生きている人間にするように。そうすると幽霊の黒い瞳が、脩介の言葉に頷くかのように瞬いた。そうすると、満たされたような気持ちになるのだった。
 
 ある夜。とうとうそれを口にした。
「……どうやら、俺は」
 そこでいったん、言葉を止めた。脩介はそういう言葉を、いや、そういう言葉に限らず、自分の想いを口にするのが得意ではなかった。
「俺は、あなたのことが、…………気になって、仕方がない……らしい」
 彼女はゆっくり落ちていく。
「……いつでも。寝ても覚めても、ずっと、あなたのことが、頭から離れないんだ」
 ふふふ。
笑い声がした。初めて聞く、彼女の声だった。夜のしじまにこだまする声。優しくて、甘い。
 もっと聞きたくて耳を澄ましたが、声はもう聞こえなかった。
 
「彼女のことが、知りたい」
 人が聞いたら、何て言うだろう。異常者扱いするかもしれない。でも仕方がない、だって自分でもどうにもならない。どこにいても、何をしていても、彼女の姿が思い浮かぶ。この焦がれるような気持ち。
 もし脩介が、それを誰かに話していたら、きっと相手はこう言っただろう。
 恋をしてるんだね。
 思い切って、マンションの管理人に尋ねてみた。
「このマンションで、誰か、飛び降り自殺をした人はいませんか。最近じゃないかもしれないけど……」

 その日の夜。このところずっとそうしているように、部屋の明かりは点けないで、その時を待った。部屋を暗くしていると、窓の外が一層鮮やかに見える。
 〇時二十三分。秘密の約束の時間。窓の外の夜の中に、無機質な美しさをたたえて、白(びゃく)木蓮(もくれん)の妖精が現れる。
 落ちる女に、脩介は言った。
「あなた、最近飛び降りたんじゃないんだね。管理人のおじさんに、聞いたんだ」
 彼女は何も言わない。ゆっくり、下へ落ちていく。
「……あなた、いつ亡くなったの?」 
飛び降りなんてないよ、と管理人の老人は言った。自殺でも事故でも、ここで死んだ人なんていないよ、と。
「……あなた、だれ?」
 彼女は何も言わない。ただ脩介を見つめ、夜の色の瞳で瞬いた。脩介は自分がその中に吸い込まれてしまうんじゃないかと思った。
 空気が揺れた。ふふふ、と彼女が笑った。そうして消えていく。
永遠の一瞬が過ぎると、脩介はいつも、一人取り残される。静寂と孤独に包まれて。
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