(十六)くちなし

文字数 4,674文字

 七月、梅雨が明け茹だるような暑さの毎日。流石の着ぐるみマンも我慢出来ずに、夏バージョンに衣替え。頭だけ着ぐるみのまんまだけど、他はTシャツにバミューダパンツ。それにサンダル履きのスタイルで、むさ苦しい中年男のすね毛が顔を出している。
 土曜日の午後、暑さの中三上と着ぐるみマンは夢の丘公園へお散歩。いつものベンチに腰を下ろせば、公園にはくちなしの花が咲き、辺り一面に甘い香りを漂わせている。着ぐるみマンはうっとりとした顔で、くんくんくんくん満足げ。
 見れば向日葵だって咲いている。のんびりと風にスイング、映画のような黄色い波が揺れている。映画って、ソフィアローレンのあの戦争映画だよ。三上は痩せた口笛で哀愁たっぷり、そいつのテーマ曲を吹いてやろうとしたけれど、上手く思い出せない。そこで以心伝心、代わりに口笛を吹き出す着ぐるみマンが、三上がやりたかった哀しき旋律をお見事奏で上げ、悔しいながらも聴き惚れる三上だった。
 でもやっぱりおめえの唇には、あの曲がお似合いだろと言う顔で、今度は三上が負けじとテリーのテーマを吹き出した。あ、しまった。おいらの十八番、取られちゃっただなと言う顔で、着ぐるみマンはでも嬉しそうに三上の口笛に聴き入った。そのうち眠くなったのか、欠伸して薄っすらと目を瞑る着ぐるみマン。ベンチは周囲の葉桜のお陰で、木陰アンド木漏れ陽のシャワー。風もやんわりと頬を吹き過ぎて気持ち良い。ふわーっと、今度は三上も口笛止めて大欠伸。そのまんまふたり仲よく肩を並べて、お昼寝タイム。蝉時雨、木漏れ陽、通り過ぎる人の足音さえも心地良い。人々は間抜けなふたりの寝姿をくすくすと笑いながら通り過ぎる。
 ふと風が止んで、眠る三上の額にじわわっと汗。あっちーぞ、おい。目を覚ました三上。隣りを見ると、着ぐるみマンは涼しげにまだ熟睡中。何て野郎だ、暑くねえのかよ。呆れつつ三上は汗を拭う。ところがそのうち、うわーっと着ぐるみマンも目を覚まし、風がぴたりと止んでいるのに気付く。
「もしも風を呼びたい時は、こうするだな」
 メモ帳に書いて三上に見せる。はあ、風を呼びたい……だと。何寝言ほざいてやんだよ、訳分かんねえぞ、おい。好奇の目を向ける三上の前で、しかし着ぐるみマンは立ち上がり近くの桜の木の前まで歩く。どうするかと見ていると、着ぐるみマンは行き成り木の幹を抱き締めるのだった。はあ、何してんだよ、着ぐるみのおっさん。とうとう暑さで頭いかれちまったんじゃねえだろうな。心配顔の三上の頬に、ところが何処からか突然のそよ風。
 はあ、なんでこうなんの。ぽかんと狐につままれた顔の三上に、木の隣りで得意げに大きく両手を上げ、丸のポーズを取る着ぐるみマン。
 着ぐるみマンがベンチに戻っても、しばらく風は吹き続け、いつしか夢の丘公園にも日の暮れが忍び寄る。ふう、喉渇いた。
「なんかビールでも飲みてえ気分」
 三上はメモ帳に書いて寄越し、おまけにジョッキを口に傾ける仕草までしてみせる。そこで着ぐるみマンはメモ帳に返事。
「じゃおいらの知り合いの店にでもいくだな」
 おお、そんな店あんのか。どんなとこだよ、おい。興味深々の三上である。
「でも高くねえのか」
「平気だな」
「じゃ行ってみっか」
 ふたり頷き合い、では出発と夢の丘公園を後にした。

 黄昏の新宿の街を、のろのろ歩きの着ぐるみマンの後に付いてゆく三上。殺人的な群衆の流れの中に揉まれながら、いつしかふたりは世界最強の歓楽街、新宿ネオン町三丁目に足を踏み入れていた。おいおい、大丈夫かこんなとこ。心配顔の三上をよそに、着ぐるみマンはどんどん奥へ奥へ。辺りは目映いネオンの波。飲み屋、風俗店の入り混じった雑居ビルが建ち並ぶ。七色のネオンサインに頬染めながら、心細げな三上はもうただ着ぐるみマンのけつを追い掛けるのみ。通りでは、けばいお姉ちゃんやら恐そうな客引きのおっちゃん連中が誘って来る。流石通い慣れている場所なのか、臆することなく着ぐるみマンはどんどん進み、ようやくひとつの飲み屋の前に辿り着いた。
 その店の名は、酒場「着ぐるみ」。じゃーん。
 何、着ぐるみだと……。もしかして、ここか、おめえの知り合いの店は。そうだともだな。無言で問う三上に、無言で頷く着ぐるみマン。その店は場末にぽつんと、店も看板も寂れたふうで立っていた。紫色の「着ぐるみ」の文字が浮かぶネオンの看板を見上げる三上を置き去りに、着ぐるみマンはさっさとドアを開けひとり店内に入っていった。
 おい待てよ。置いてくなよ、こんなとこに。着ぐるみマンの後に付いて店内に入った三上の耳に、しっとりと甘く切ないピアノの調べが……。おおっ、何かすげえ。思わず立ち止まり、耳を澄ます三上。どうやら曲は、あのバーブラストライサンドの『追憶』のテーマ。これも三上の好きな映画音楽のひとつである。ピアノのイントロの後に始まる歌声は女のハスキーボイスで、またまたしっとりと大人の色気と哀切を漂わせ、三上の心をむぎゅっと鷲づかみするのに充分だった。
 うっとりと聴き入る三上に、満足そうな着ぐるみマン。さ、席に坐ってゆっくりと拝聴しましょう。三上の腕を引っ張り、カウンター席へ。いらっしゃい、と歓迎の顔で会釈するマスター。えっ、何とマスターも着ぐるみ。蝶ネクタイを締めたセサミストリートのエルモである。どきっ。もしかして客もみんな、着ぐるみだったりして……。恐る恐る薄暗い店内を見回すと、思った通り。やっぱり客もひとり残らず着ぐるみだらけ。
 何だ、こりゃ。こんなところに、こんな店があったんかいなと絶句の三上。気を取り直して、再び女の歌に耳を傾ける。店の片隅に置かれた一台のピアノ。客に背を向け、女が弾き語り。照明を落とした店内にあって、唯一小さなスポットライトが彼女の後姿を照らしている。照らして、ふう良かった。歌う彼女だけは、着ぐるみではなかった。宇宙の果てで、人類と再会したような気分の三上。店内はしーんとして、着ぐるみ連中は一心に女の歌を聴いている。名曲はクライマックスを迎え、円熟した女の声が弥が上にも、聴衆の琴線を震わせずにはおかない。
 着ぐるみマンがメモ帳で注文したカクテルが、いつのまにかふたりの目の前に。おい、ビールじゃねえのかよ。でもこの雰囲気ならそっちの方がいいかもなあ。三上が納得しているうちに、女の歌は潮が引くように無音へと帰っていった。その途端、ブラボーと一斉に客たちの惜しみないスタンディングオベーション。気付いたら三上も、手を腫らして拍手していた。
 立ち上がり歓声に応える弾き語りの女は、一瞬ちらりと三上を見て微笑む。それもその筈、他の連中の拍手は着ぐるみだからぱかぱかぱかっと少しお間抜け。比して三上のだけが唯一まとも。しかも三上だけが、非着ぐるみ人でもある。よって女が三上に親近感を覚えても、おかしくはない。そわそわと胸ときめかす三上。でも残念でした。スポットライトが消えるや、女はさっさとその場を立ち去ってしまった。あーあ、行っちゃった。三上は拍子抜け。
 薄暗かった店内全体を仄明かりが照らし、改めて客を見回し再度確かめるも、やっぱりどいつもこいつも着ぐるみ。うひゃ、こりゃ仮装パーティの様相。いるわ、いるわ。アンパンマン系、ドラえもん系、ディズニー系、サンリオ系、スヌーピー系、美少女系。酔っ払ったトトロが懸命に、キティちゃんを口説いているから堪りまセブン。
 三上と着ぐるみマンのふたりは、ようやくカクテルのグラスを傾け乾杯。えっ、でも乾杯ったってよ、おめえら、どうやって飲んでんの。興味津々の三上は、着ぐるみマンは勿論、客たちの様子を細かく観察した。でも何のこたない、みんな、ストローを使ってチューチュー。なーんだ、詰まんねえ。カクテルを飲み干すと、三上はハイライトで一服。着ぐるみマンのメモ帳に質問を記した。
「なあ、何だこの店は。それにマスターや客、こいつらいったい何者」
 着ぐるみマンは真剣な顔で答える。
「ここは夢の国の秘密基地、みんな夢の国の住人だな」
 はあ、あほか。苦笑いしつつも、問いを続ける三上。
「夢の国の住人ってやつはみんなやっぱり、おめえみてえにいつも着ぐるみで生活してんのか」
 すると着ぐるみマンはかぶりを振って、こう答えた。
「みんなおいらとちがって、普段は人間に化けているだな」
 はあっ、人間に化けているだと。
「じゃ人間か夢の国の住人か、見分けがつかねえじゃねえか」
 三上の言葉に、その通りと頷く着ぐるみマン。
「ところで俺着ぐるみじゃねえけど、この店に入っていいのか」
 不安げに周囲の視線を気にする三上に、着ぐるみマンはこう答え安心させる。
「着ぐるみ仲間の連れなら、なんら問題はないだな」
 なんら。そうか、そりゃ、良かったぜ、ったく。
「で、やっぱりここでも会話はメモ帳なんか」
 ああ、勿論。そんな分かり切ったこと聞くな。そんな顔で着ぐるみマンが頷く。その時再び客の拍手が起こり、見るとさっきの弾き語りの女が、いつのまにかピアノの前に。
 奏でるは、カサブランカの旋律。カサブランカはカサブランカでも、郷ひろみの『哀愁のカサブランカ』。おい……。
 これまた甘く切ないメロディに、うっとりと酔いしれる観客。つい誘われてか客席からカップルが飛び出して、ミラーボール煌くダンスフロアで踊り出す。スヌーピーとルーシーのカップルやら、ジャイアンとセーラーマーキュリーのカップル等々、こりゃ堪らんと三上もおおはしゃぎ。
 歌とダンスが終わると、店内の照明が一斉に落ち、辺りはまっ暗。何が始まるかと息を潜めていると、聴こえて来たのはジャズィーなピアノの調べ。待ってました、今度は本家カサブランカの『時の過ぎゆくままに』。
 ところが、そろそろ行くだなと着ぐるみマンが、三上の肩にぽんと手を置いた。ああ、そうだな。名残惜しそうに頷くと、三上も席を立つ。しゃがれた女の歌声に見送られ、そして店を出てゆくふたりだった。
 表に出るとネオン眩しい歓楽街。そこには普通の人間たちがいて、普通の恰好で歩いている。ふう、何だか安心するも、半面夢いや酔いがすっかり醒めちまったような、沈んだ気分で俯き勝ちの三上。
「久し振りに大笑いできた、あんがとよ」
 素直な気持ちで、着ぐるみマンにメモ帳で感謝。答えて着ぐるみマン。
「また行くだな」
 頷いた三上は痩せた口笛で、時の過ぎゆくままにを吹きながら、群衆の流れに身を任せた。
 ネオン街を抜け、一路我らが住み家、福寿荘へ。おっと、その前に晩飯、晩飯。安くておいしい弁当を買いに、ふたりはスーパーコスモスに立ち寄る。そこには勿論、百合。着ぐるみマンと百合のふたりが、最近どうも急速に仲良くなって来やがった。そう感じる三上。ったく物好きな女もいやがるもんだと、鼻で笑ってみせるも心穏やかではない。
 ついこの間も夜勤に出掛ける途中の昼下がり、夢の丘公園のジャングルジムで仲良く語り合う百合と着ぐるみマンのふたりを目撃した。ついつい三上は、物陰に隠れてこっそりと観察せずにはいられない。でもふたりはいつまで経っても、ただお喋りしているだけ。よせばいいのに着ぐるみマンのやつ、狭いジャングルジムの間に無理矢理入って、窮屈そうにおどけて見せる。それを見て百合は爆笑。屈託のない百合の笑い声が眩しくて、思わず耳を塞ぎ足早に駅へと向かう三上だった。そんな三上の心を慰めるように、夢の丘公園のくちなしの花の甘い香りが仄かに匂っていた。
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