(十九)金木犀

文字数 4,618文字

 月が替わり十月。空は青く、三上も着ぐるみマンも欠伸の日々。夢の丘公園では野菊が咲き、金木犀の甘い香りが鼻をくすぐる。着ぐるみマンが夢の丘公園で一緒に過ごす相手、近頃は三上ばかりでなく百合とも頻繁に会うようになった。
 ふたりは時々会って、仲良く時を過ごしていた。子どもに帰ってシーソーやブランコに乗ったり、ベンチに坐ってお喋りしたり。お喋りは勿論メモ帳とボールペンでのやり取り。いつもスーパーコスモスのレジでは息をつく暇もない百合も、この時ばかりはリラックスしてお腹抱え笑っている。
 どんなお喋りかと言うと、専ら百合の人生相談に着ぐるみマンが乗って上げたり、未だ独身の百合の愚痴を聞いて上げたり。それから三上の話。尤も百合にとっては、これが一番の関心事。三上のことを口にする時の、百合の顔と言ったら堪らない。嬉しさを隠し切れない恋する乙女。そんな百合の三上への一途な思いに、着ぐるみマンが気付かない筈がない。
 百合は過去不倫はしたけれど結婚の経験はなく、現在は安アパートで年老いた病気がちの母親とふたり暮らし。母親の面倒を見るので精一杯で、なかなかの苦労人だけど良縁には恵まれない彼女だった。
 そこで着ぐるみマンとしては、本当は良い人だけど不器用で上手く幸福になれない似た者同士の百合と三上のふたりを、何とかくっ付けて上げられないものかと実はいつも苦心していた。ふたりを自分のアトラクションに誘ったり、三上に黙って百合を八月の三浦海岸に連れていった、なんて言うのもみんなその為。三上の心が少しずつ観音様の美樹から百合へと傾いていることも、敏感に察知している今日この頃。問題は兎に角素直になれない三上の天邪鬼。どうしたもんかといつも人知れず、ひとりお手上げポーズの着ぐるみマンだった。
 さて秋も深まり、お月見のシーズン。天邪鬼でかたくなな三上の心を融かすには、やっぱりお酒しかない。てな訳で着ぐるみマンはふたりを酒場「着ぐるみ」で会わせることにした。以前から連れていってと懇願していた百合は大喜び。ただし今回も、百合を誘ったことは三上には内緒、内緒……。

 いよいよ当日の晩、お月さんはまん丸の満月で夜空には星もきらきら。着ぐるみマンは三上を誘って夜の盛り場、新宿ネオン町三丁目を闊歩。通りは新宿駅前の朝夕のラッシュのような人、人、人の人波で大賑わい。何だかうきうきして来た着ぐるみマンはつい調子に乗って、突然通りのまん中で趣味のダンスをおっぱじめた。けれど流石、大都会新宿。通行人は何かのパフォーマンスだろうと勘違いし、一向に気にしない様子。むしろ邪魔しないようにと道を避けてくれる程。
 ダンスといえば音楽。着ぐるみマンは三上に口笛によるBGMを依頼する。行き成り何注文すんだよと呆れ顔の三上も、そんなに悪い気はしない。そうだな、じゃこの曲なんかどうだ。痩せた口笛で吹き出したのは、ボビービントンの『Mrロンリー』。うわお、それ最高。三上にウインクを送り、秋の宵の東京の人波の中、乗り乗り気分で踊りまくる着ぐるみマン。何人もの人が足を止め、ダンスを眺めたり笑ったり。写真を撮る観光客、一緒に踊る女子高生、スケッチする青年。自分を取り囲む群衆のまん中で、くるくると気持ち良さそうに踊る着ぐるみマン。くるくるくるくると、丸で小さな小さなカルーセルみたいに。
 いつしか巨大化した人だかりに驚いた三上は、俺もう先に行くぞと口笛を止めさっさと歩き出す。待ってくれだな、音楽がなきゃ踊れないだな。後を追う着ぐるみマン。追い付いた着ぐるみマンは、三上の肩をぽんと叩いて、ではそろそろ行きますかと目で合図。ふたりはいざ、酒場「着ぐるみ」へ。三上にとっては、七月以来の場所。酒場「着ぐるみ」に入ると、今夜はあの弾き語りの女は見当たらない。ピアノは蓋を閉じ、ピアノを照らす小さなスポットライトも消えている。何だ、弾き語りはなしかよ。がっかりだなと三上。その代わり店内は、例によって着ぐるみ姿の客たちのお喋りで盛り上がっている。
 今夜もカウンター席でふたりでしんみり飲むのかと思えば、着ぐるみマンは三上をボックス席に案内する。するとそこには先客がひとり、誰かと思えば着ぐるみのドキンちゃんがぺこりんと坐っていた。おい、ここでいいのかよ。三上が着ぐるみマンに目で合図を送ると、勿論だなと頷く着ぐるみマン。
「ここのママさんだな」
 例によって、メモ帳で三上に紹介。あ、ああママさんかい。へえ、ドキンのママさんたあ、やっぱ洒落てるねえ。
 感心しながらママの隣りに坐る三上。続いて三上の横に、着ぐるみマンが腰掛ける。
「いらっしゃい」
 メモ帳で挨拶するドキンママ。慣れた手付きで水割りをこしらえる。着ぐるみ姿とは言っても、相手は初対面のおそらく女性。三上は落ち着かなげに、ハイライトを一本口にくわえる。するとさっと、目の前にライターの炎が。はっ。ドキンママのお手並みに流石と感嘆しつつ、三上は緊張に唇を震わせながらハイライトに火を付けた。
「いつからですの」
 すかさずメモ帳で質問するママ。
 はあ、何のこった。疑問符状態の三上。
「たばこのことだな」
 すると着ぐるみマンがメモ帳で助け船。ああ、煙草のことかい。
「まだ十年はたってねえかな」
 メモ帳で答えつつも、何でこの尼、そんなこと聞きやがんだ。ちょっと警戒心の三上。すると今度はママ。
「やめらんないの」
 はあ。行き成り、聞いてきやがった。けっ、余計なお節介だあよ、ママさん。
「やめねえよ、絶対」
 メモ帳で意地を張る三上の文字が、ぴりぴりぴりっと興奮気味。ところが性懲りもなくまたママ。
「どうして、体に良くないよ」
 ん。なんかうぜえ女だな、さっきから、ったく。初対面の癖して調子乗りやがってよ。三上は不快感露わ。飲み屋のママが、ぐちょぐちょと他人の嗜好にけち付けてんじゃねえぞ。
「つべこべ言わずに、たばこぐらい吸わせろや」
 ついメモ帳に殴り書き、水割りをがばっとかっ食らう三上。
 あらまあ、どうしましょう。
「ごめんなさい」
 うろたえるママ。着ぐるみマンも青い顔して平謝り。ふたりの様子に、やべえこっちもちっと大人げなかった。三上は顔まっ赤。
 気を取り直して、ドキンママ。
「たばこのどんなところがいいのかしら」
 問われて三上。そだな。
「なんてえの。このほろ苦さがさ、たまんなくしびれるわけよ」
「ほろ苦さ」
「そう、人生のわびさびって言うの。つらい時も楽しい時もつい唇が恋しくなっちまいやがる」
 成る程。うんうんうんうん。ママと着ぐるみマンがふたり合わせて頷くから、何だか子どもが大人にからかわれているみたいで、三上としては面白くない。
「つまり泣き笑いってやつだな」
 行き成り会話に入って来た着ぐるみマンの言葉に頷きながら、三上。
「そうそう、その泣き笑いだなだな」
 いつしか酔いが回って、舌も滑らかと言うか筆も滑らかな三上。続けてママが問う。
「たとえば、どんな」
 例えばってええとな。答えようとする三上を差し置いて、着ぐるみマンが答える。
「たとえば、別れのつらさだな」
 答えた後で、着ぐるみマンはしょんぼりと寂しげに俯いてみせる。
 ん、別れの辛さ、だと……。三上はハイライトの煙とアルコールですっかり充血した目で、着ぐるみマンをじっと見詰めた。それから着ぐるみマンの肩をばしっと叩いた。
「おめえ、そんなもなな、時が解決してくれんだよ。くよくよすんなって」
 すると着ぐるみマンの頬にぱっと赤みが差して、メモ帳に返事。
「本当にそうだな、有難うだな」
 ぺこりんと、三上に頭を下げる着ぐるみマン。それからママに向かってウインク。
 ん、ウインクだと。もしかしてこのふたり、出来てんのかと疑う三上。
 今度はママの顔がまっ赤になって、緊張したようにひと呼吸置くと、改まった口調でと言うか改まった文字で、ママは三上に尋ねた。
「じゃ、もう三上さんも平気なのね」
 その文字は心なし震えていた。
 はあ、平気……って何がだよ。何だよ行き成り。しかも、もう、ってどういうこった。三上はじっとドキンママの顔を見詰めた。目と目が合い、しばしそのままふたりは見詰め合った。ママの瞳は熱くうるうる、涙の予感。それでも勇気を振り絞り、ママが続けて記したメモ帳には、三上にとって衝撃の二文字が含まれていた。
「だから、美樹さんのこと」
 ええっ、美樹だと……。
 三上は動揺しまくった。何でおめえが、そんなこと知ってんだよ。俺の大事な大事な……。
 あっ、さてはてめえだな。三上はくるりと向きを変え、今度は着ぐるみマンを睨み付けた。この野郎、人の大事な秘密、深くて辛くて悲しい過去の傷を、赤の他人なんぞにぺらぺらと喋りやがって。この、お喋り野郎。
 いちいちメモ帳に書くのももどかしく、かーっと頭に血が上った三上。するとそんな三上の前で、突如ドキンママが自らのドキンちゃんの頭を脱ぎ捨てた。
 おいおい、何してんだよ。吃驚する三上の前に、そして姿を現したドキンママの正体、そこには何と、百合の顔があった。
 百合。百合じゃねえか。唖然とする三上。てめえ、こんなとこでそんな恰好しやがって、一体何の真似だ。いつからここのママになりやがったんだ……。
 あっ、さては。三上は百合と着ぐるみマンをぎろっと睨み付けた。てめえら、ふたりして俺をからかいやがったな。だろ、こん畜生。メモ帳なんぞにいちいち怒りの言葉なんか書いてられっか、あほらし。
 唇をぶるぶると震わせ、最早爆発寸前の三上。けれどその怒りをぐっと抑え、三上は席から立ち上がった。そしてそのまま一気に、店を飛び出したのだった。
 そこは、新宿のネオン街。怒りに任せて、雑踏の中を疾風の如く駆け抜ける三上。はーはーはーはー息を切らして、はーはーからいつしかぜーぜーへと苦しい息遣いに変わり、顔は青ざめ息切れも酷い。若い頃は幾ら走ったって平気だったけど、年には勝てねえってことか。それともハイライトのせい。でも今更ハイライトは止めらんねえし……。そして何とかかんとか、無事福寿荘に帰り着いた三上だった。
 そのまんま不貞寝の三上。いつ着ぐるみマンの野郎が戻って来たかも分からない。朝目覚めても、まだ頭が痛い。二日酔いか、気分は最悪。よろよろと起き上がり、着ぐるみマンの部屋を覗くも、もぬけの殻。あり。あいつどうしやがったんだと心配するも、どうせ百合とふたりして、どっかラヴホにでもしけ込みやがったんだろ。そう思うと再び頭がかあっと熱くなって、昨夜の怒りがめらめらと甦った。
 けれど、ぐーっとお腹の虫が鳴いて、腹減りやがったな。そういや昨日は、大したもん食ってなかった。なんか買って来るかと部屋のドアを開けると、何とドアの前で着ぐるみマンのやつが横になっていやがった。
 あちゃ、何してやんだそんなとこで。見ると着ぐるみマンは、気持ち良さそうに寝てやがる。ありゃりゃ。おい、近所迷惑だろが、とっとと起きろ。三上は容赦なく着ぐるみマンを叩き起こした。吃驚した着ぐるみマンは慌てたように、メモ帳で何かを三上に伝えようとする。しかし三上は無言のまま、それを拒絶。ただ部屋に入れと冷たく指で示し、自分はコンビニへ。
 その時から三上は、着ぐるみマンと口を利かないと言うかメモ帳でのやり取りを拒否し、着ぐるみマンとのコミュニケーションを完全に断ったのである。
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