(二十一)シクラメン

文字数 15,446文字

 十二月が訪れ、新宿の街はすっかりもうクリスマス気分。夢の丘公園の花々はとうに枯れ、公園は殺風景に枯れ草色。だけど商店街や街角にはシクラメンやポインセチアの鉢植えが色鮮やかに飾られ、通行人の目を楽しませている。
 ドリームランドもクリスマス。着ぐるみマンにとっては、アトラクションのバイトが最も忙しい季節。バイキンマンばかりでなく、サンタクロースやスノーマンもこなし大活躍の着ぐるみマン。
 三上は着ぐるみマンが風邪を引いたあの晩から、ハイライトをずっと止めていた。禁煙を始めた当初は流石に苛々していたけれど、徐々に慣れて来るとハイライト代は浮くし、気分も落ち着いて心なし穏やかな性格に戻っているようにも思えた。その変化は口笛にも現れ、相変わらずメインで吹くのはエデンの東だったけれど、たまに気付くと着ぐるみマンのテーマとも言うべきテリーのテーマを吹いていて、我ながら吃驚することもしばしば。
 着ぐるみマンはそんな三上の変化に気付いていたけれど、何も言わないと言うか書いたりせず黙って見守っていた。百合とだってスーパーコスモスで顔を合わせれば、愛想良く挨拶したり笑みを交わすまでになった三上。そんなふたりの間の変化が嬉しくて、着ぐるみマンは終始にこにこ顔である。
 ご無沙汰だった夢の丘公園の散歩も復活し、ひゅるひゅると木枯らしの吹き荒れる殺風景な景色を前に、或る日三上は思い切って、着ぐるみマンに百合に対する気持ちを確かめてみた。
「おめえやっぱ、あの女のこと好きなんだろ」
 メモ帳の文字が震えていたのは、緊張か寒さのせいか。すると着ぐるみマン、待ってましたとばかり、激しくかぶりを振ってメモ帳に書いた。
「NO、NO、百合さんはただのいいお友だちだな」
 お友だちかあ……。それなら良かった。三上はほっとため息。そこへ鋭く着ぐるみマン。
「なんでそんなこと聞くだな」
 にやけた顔で着ぐるみマンが聞くものだから、まっ赤になって三上。
「なんでもねえよ」
 でもこれで、最大の障害が消え、三上の百合への思いはますます一途に激しく強くなる一方だった。辛うじてそれを抑え込むもの、後は唯一人間の屑で行こうと言う心の誓い、哲学と言うかライフスタイルだけが、三上には残っていた。
 そんな中、遂に三上が着ぐるみマンとの約束を果たす時がやって来た。着ぐるみマンの帰郷、着ぐるみマンがリクエストした、冬がいいだな、のその季節が訪れたと言う訳。ただし年末年始の帰省ラッシュは避け、クリスマス前に行こうってんで、ふたりはそれぞれのバイトを休み、百合にもその旨を告げ、いよいよクリスマス前の金曜日の午前中に、福寿荘を出発した。
「長靴を持っていった方がいいだな」
 着ぐるみマンの助言に従い、三上は長靴をバッグに詰めて持参した。
 まず新宿駅から東京駅へ。東京駅でそれから先の切符を購入し、いざ目的地へと出発する。目的地はM78星雲にある夢の国と言うことになっているから、二人分の現金を渡して着ぐるみマンに切符を購入してもらうことに。
 初めて見る着ぐるみマンの姿に吃驚仰天するみどりの窓口の係員を尻目に、着ぐるみマンは冷静沈着。例によってメモ帳を使って、すんなりと購入を済ませた。戻って来た着ぐるみマンから受け取った切符を見ると、乗車券と新幹線特急券、行き先にはちゃあんと「新青森」と記されてあった。なあんだおい、何処が夢の国だよって思いつつも、三上は気付かない振りで、さっさと切符をコートの内ポケットに突っ込んだ。
 東京駅の新幹線のホームに出ると、下り新幹線はやぶさ十五号は既にホームにて待機中。さ、急ぐぜと乗り込み、二人掛けの自由席をゲット。やったあ。おめえ、遠慮すんなよ。ってんで着ぐるみマンが窓側に坐った。
 発車のベル。新幹線が走り出すと、三上は直ぐにうとうと。着ぐるみマンだけがじっと子どものように、流れる景色、停車駅の様子を一心に見詰めていた。一眠りした三上が目を覚ますと、車内で駅弁を購入し昼飯タイム。着ぐるみマンはこそこそと顔を隠しながら食べる。食事が済んだら、三上はまた熟睡……。
 いつのまにか窓の外には、激しく降り頻る雪。三上は着ぐるみマンに肩を揺さぶられ、終着駅の新青森に着いたことを知る。ふたりはとっとと新幹線を下車。
 時刻はもう夕方近い。されど着ぐるみマンによると夢の国はまだ先。在来線を乗り継いでゆかねばならないとのこと。じゃ、どうするよ。ふわあと大欠伸で如何にも眠たげ、疲れたぜと言う顔の三上。着ぐるみマンとしては、一秒でも早く夢の国に帰りたいところだが……。
「そこ、泊まる所あんのか」
 三上の問いに、かぶりを振る着ぐるみマン。
「自信ないだな」
 おいおい、まっじ。
「六月の三浦海岸じゃねんだから、凍死したくねえぞ俺」
 で話は決まり。着ぐるみマンには悪いが諦めてもらい、本日はここまで。一旦奥羽本線で青森駅に出て、駅前のホテルで一泊することに。
 青森駅に到着し、駅を出ると行き成り積雪。でも着ぐるみマンの足は、元々ブーツだから問題なし。三上の方は早速、持参した長靴に履き替え納得顔。
「だから長靴かよ」
 うへえ、でもさっみいな、こりゃ。三上は思いっ切りコートの襟を立てずにはいられない。ビジネスホテルのシングル別々の部屋に泊まり、晩飯は駅弁で済ませ、明日早朝から出発しようぜと早寝することに。
 興奮で眠れない筈の着ぐるみマンは、慣れない長旅の疲れからか横になるや、さっさとバタンキュー。一方三上の方は、なかなか寝付けず悶々とした一夜を過ごす。旅愁故かついつい百合のことが浮かんで来てしまう。自分はこんなにあいつのことを思っていたのか、いつのまに……。今更ながら驚きつつ、ああ会いたい、声が聴きたい、そうだ電話。と思っても、駄あ目じゃんメモ帳じゃなきゃ、とがっくり。部屋の窓からただぼんやりと、降り頻る雪を眺めていた。旅の疲れと慣れない極寒とで、少し風邪気味の三上だった。

 目覚めれば、土曜日の夜明け。寝不足の三上を叩き起こし、着ぐるみマンは陽気アンド元気に出発。いよいよ夢の国へ。着ぐるみマンは勿論のこと、三上もどんな町かと興奮して来る。
 青森駅から六時ちょうどの、雪留(ゆきどまり)本線に揺られること二時間。雪景色の中、途中何度も無人駅で停車し気付いたら海岸沿いを走りつつ、電車は遂に、その駅に辿り着いた。
 雪留本線を降りて雪のホームに足を付けると、そこは無人の雪別離(ゆきわかれ)駅。
 駅舎の屋根に線路にホームにと、雪が積もり更にまだ雪が降り頻って、遠くに海の音が聴こえるような、そうでないような、どっちとも知れない静けさがふたりを迎えた。連絡階段を上り下りして駅の改札を出ると、そこは駅前とは言い難い程の地味さ。タクシーもいなきゃ、商店街もない殺風景な通りだった。
 うひ、駄目だこりゃ。宿泊施設なんぞ有りゃしねえだろ。コンビニだってねえかも……。朝食は青森駅で買ったパンとお握りを車中で済ませたけれど、この分じゃ昼飯がどうなるかと、今から食い物の心配に余念のない三上。
 対して着ぐるみマンは感慨深げにさっきからきょろきょろと辺りを見回したり、新鮮ではあるけれど凍り付くよな空気を深呼吸で思いっ切り吸ったり。
「何年ぶりだよ」
 メモ帳で三上が問えど、まったく眼中になし。ま、少なくとも十年以上にはなるだろうから、そりゃ懐かしくて仕方ないわなと三上は温かく見守る。
 とは言っても後から後から雪が襲って来るから、これじゃ路上に凍り付いて着ぐるみマンならぬ雪だるマンになっちまうぞ。遂に着ぐるみマンの肩をぽんと叩くと、着ぐるみマンはようやく黙って頷いた。
「どうするよ」
 問う三上に笑みを浮かべ、着ぐるみマンは歩き出す。その後を三上は黙って付いてゆく。
 田舎の平凡な家並みが続く雪道を歩き続け、次第に潮のにおいが満ちて来る頃、辿り着いた場所は、名前があるのかないのかさえ分からないよな小さな寂れた漁港だった。
 吸い寄せられるように波止場まで歩き、そこにぽつんと着ぐるみマンは佇んだ。それを三上は、後ろから見守った。辺りに人影はなく、ただ船出を待つことすら忘却したような錆びた漁船の群れが荒波に揺れているばかり。けれどそこには確かに、海に降る雪の姿があった。着ぐるみマンがもう一度だけ見たいと熱望していた、海に降る雪……。荒れた波飛沫へと丸で親を慕う幼子のように、ただ静かに雪の子どもたちが融けてゆく。その無邪気さ儚さと言ったら、何とも切な過ぎる。良かったじゃねえか、願いが叶ってよ。声にならない声で呟く三上。
 寒さなどへっちゃらと目を閉じて、ただ夢中で海の音を聴いているのか着ぐるみマン。その背中を見詰めながら、三上も真似してしばし目を瞑ってみる。この音かい、小さい頃おめえさんがいつも夜明け前に聴いていたっていう海の音あ……。ふうん、そうかい、そうかい、そりゃ良かったなあ。にしてもちとさみんだが。限界をとうに超えて尚三上は歯を食いしばり、着ぐるみマンの為寒さとくしゃみと必死に闘った。せめてもう少し、着ぐるみマンが満足してこっちを振り返るまで。にしても骸骨みたいに歯も骨もがちがちがちっと震えていやがる。俺まじ凍死かも。
 その着ぐるみマン、丸でひとつの小さな波止場のようなその肩に、雪が降り積もる。その肩越しに、水平線が見える。どんよりと、灰色の空の彼方に。汐辛い海に融けてゆくように、着ぐるみマンの瞼にも融けてゆく雪。なぜ吸い寄せられるように雪が。なぜならその目に、涙が溢れていたから。雪たちは着ぐるみマンの涙を、例えば一粒の海と信じて。それからようやく振り返った着ぐるみマン。その凍り付いた顔の表情には、何かを決意した後の悲壮感が漂っていた。実際着ぐるみマンは或る事を決心していた。その決意と共に、一歩一歩三上の許へ戻って来る。
「ひとつ頼みがあるだな」
 頼み。着ぐるみマンのメモ帳の文字は震えていた。それが寒さ故なのかは分からない。ああ、いいよ。ただ三上は笑って頷くだけ。それから三上も遠慮がちに、ぶるぶる文字をメモ帳に記す。
「ところで、どっか、あったけえ所ねえか」
 メモ帳の文字に、雪が落ちて滲んで融ける。ぶるぶるぶるっと震える文字の中へ。ああそうだった。気が付かなくて、済まなかっただなあ。と頷く着ぐるみマン。
「遊園地があるだな。そこに休けいする場所があるはずだな」
 遊園地かあ。おっし、そこに行くとすんべ。逸る三上に、けれど着ぐるみマン。
「その前にある家に行ってほしいだな」
 或る家だと。じっと着ぐるみマンを見詰める三上。それが、頼み、ってやつかい。頷く着ぐるみマンに、良し、いいぞ。と頷き返す三上。さっきから頷きごっこのふたりである。
「その家に行ったら中の人を呼んで、出てきた誰でもいいから、この手紙を渡してほしいだな」
 手紙。着ぐるみマンは何も書かれていないまっ白な封筒を、三上の前に差し出した。
「中は見ないでほしいだな」
 あん、分かってるよ。当ったり前だろ、そんなこた。怒ったように着ぐるみマンの肩をぱしっと叩いて、三上は手紙を受け取った。そして大事にそれをコートの内ポケットに忍ばせると、頭を下げて詫びる着ぐるみマンに、よし、んじゃ、行くか。親指を立て、合図を送った。
 道を案内する着ぐるみマンの後に付いて港を離れた。いつしか海の音は遠ざかり、やがて降り頻る雪の音に吸い込まれたかのようにとうとう聴こえなくなった。ふたりはとぼとぼ、とぼとぼと人気のない町並みを歩き、黙々と雪道を歩き続けた。ぽつりぽつりと家々が続き、やがて目的の家の近くに来ると、着ぐるみマンは足を止め、あそこだな。そっと指差した。
 あそこか。ごくっと生唾を飲み込み、更に寒さに緊張が加わって武者震いの三上。
 見ると瓦屋根、二階建ての古い木造住宅の一軒家である。門は半開きで直ぐに玄関。じゃ、何だか分かんねえけど兎に角行ってくっから。着ぐるみマンをその場に残して、三上はひとり歩き出す。ちょっと待ってと、その肩をつかまえた着ぐるみマン。びくっと歩みを止め振り返る三上に、告げたと言うか書いた。
「雪別離駅で待っているだな」
 雪別離駅か。ああ、了解。前に向き直り再び三上は歩き出した。途中恐る恐る振り返ると、もう駅の方角へと歩き出す着ぐるみマンの傘と背中だけが、吹雪の中に幽かに見えるばかり。
 よし、じゃ俺もさっさと行って、こいつを渡してくっか。携帯する手紙の所在をポケットの上から確かめ、三上は目当ての家の門の前へ。ちょいとお邪魔しますよ。するりと門を通過し、玄関前に立つ。
 表札には「海野」とあった。
 海野……。はて、渡辺じゃねえのかよ。でも気にしない気にしない。三上は、せいの、で呼び鈴を押した。ピンポン、ピンポン。
 すると直ぐにドアの向こうから、元気な少女の声が返って来た。
『はーい』
 続いてドアが開き、今度は大人の女の声。
『どなたですか』
 そこには、ひとりの女が立っていた。年は四十代前半といったところか。ところが女の顔を見るなり、三上ははっと息を呑んだ。
 似てる。似てるって誰に。だから、美樹に……。まじっ、どうなってんだ、これ。
 見ると女の背中に隠れて、紺の制服を着た少女が、物珍しそうにこっちを覗き見ていた。中学か高校か。少女の顔を見るなり、そして再び三上は、息を呑まずにはいられなかった。
 なぜなら、その子の顔……。少女の顔は女と似ているから、先ずふたりが母娘だと言うのは間違いない。けれど三上に衝撃を与えたのは、そのことではなかった。そうではなくて少女の顔に、三上の知る或る男の面影がくっきりと宿っていたからである。
 そしてその男とは、渡辺。はあ、まじかよ。ってことは、あいつの子どもってことか、ええっ。あの野郎、こんなかわいい子どもがいたんだ。ってことは既婚者じゃん、あいつ、着ぐるみマン野郎。なのにあいつ、あんな着ぐるみなんぞ着てやがって、いいのかよ。何だか、情けねえぞ、着ぐるみマン。
 てことは、じゃこの女の方は、あいつの奥さんってことかよ。奥さん、しかも美樹にそっくりの……。一体全体どういう訳だよ、着ぐるみマン。
 どうしてあんた、あんな恰好で新宿なんぞうろちょろしてんだよ。そんな場合じゃねえだろ、ったく。出稼ぎで上京したけど、なんかの都合で帰れなくなっちまったとかかい。でもそれはそれとして、何であいつ自分からここに来ねんだよ。ったくどうなってんだ。混乱する三上の耳に、戸惑う女の声が届く。
『あの、ご用件は』
 はっと我に返る三上。そうだった、いけね、いけね。余計な事を考えてる場合じゃなかった。兎に角あいつに頼まれたことを、果たさなきゃ。
『実はですね。或る人に頼まれまして、これを……』
 そして女に、着ぐるみマンから託された手紙を差し出す。すると女の顔がさっと一変し、血の色を失くし青ざめる。どうしたんだい、まったく。どいつもこいつも。その間も相変わらず女の後ろから、ちらちらと三上を見ている少女。やっぱ似てんな、渡辺に。渡辺、でも家の表札は海野、だったよな。
 ありゃ、なんか複雑な事情が有りそうだな、こりゃ。
 震える手で手紙を受け取った女は、すぐさま三上の見ている前で中に目を通す。兎に角これで用件は果たしたからと三上。
『自分はこれにて失礼します』
 女に声を掛けるも、女は固まったように手紙から目が離せないでいる。代わりに少女が答えた。
『おじさん、有難う』
 おじさんかあ。無邪気に微笑んで手を振る、そのほっぺの紅さが、ふいに三上を悲しくさせた。そうだよ、こんなきらきらした子は、間違っても新宿なんぞにゃ来ちゃいけねんだ。一生あんなごみごみした街なんぞ、知らなくていいんだよ、ったく。さ、俺はとっとと帰るべ。三上は表に出た。
「今日、夢の国で待つ 保雄」
 女の持つ便箋には、僅かその一行だけが記されてあった。
 雪の降り頻る見知らぬ町を、黙々と歩き続ける三上。一刻も早く、着ぐるみマンの待つ雪別離駅へ。
 駅に着くと、小さな駅舎の待合室に、着ぐるみマンがいた。けれど着ぐるみマンだけ。どうだっただなと言う顔で、近付いて来る三上を心配そうにじっと見詰めていた。
 ああ、ちゃんと渡したから。頷く三上に、着ぐるみマンはほっと安堵の顔。本当はあれやこれやと質問攻めのつもりだったのに、着ぐるみマンの顔を見た途端、何一つ問えなくなる三上。その代わり無言で、雪景色を眺めるのみ。
「さあ、遊園地であったまるだな」
 着ぐるみマンの言葉に、おおそうだった、そうだった。着ぐるみマンの肩をびしっと叩いて、三上は大はしゃぎ。
「俺もう死にそうだぜ」
 いざ遊園地へと出発。着ぐるみマンの後に付いて雪道を黙々と歩き続けながら、でも良く考えてみるとこんな寂れた港町に本当に遊園地なんてあんのかよ。ゲーセンの間違いじゃねえだろうな。段々と心細くなる三上。
 歩けど歩けど雪景色。雪に埋もれた町の通りを、行き交う人の姿も通過する車もない。寒いのに加えていい加減疲れて来たし、腹も減って来たぞと思い掛けたところで、先をゆく着ぐるみマンが足を止めた。
 見るとそこには、おう、有る有る。雪に埋もれてはいるけれど、確かに遊園地の入り口が。じゃーん。やった。
 ところがである。三上も急ぎ足でやっとこさ着ぐるみマンに追い付き、着ぐるみマンの肩越しに前を見ると……。そこには、行く手を遮るように、厚く重苦しい鉄格子が。
 はあっ。もしかして遊園地休みか。着ぐるみマンと三上は、互いに顔を見合わせた。
 気付かなかったけど、入り口の門の前に立て看板がひとつ。何だ、何て書いてあんだよ。焦った着ぐるみマンが、立て看板に積もった雪を手で払い落とすと、そこには衝撃の文字が……。
「遊園地は営業を終了致しました。
 現在閉鎖中です。」
 はあ、閉鎖中だと。再び顔を見合わせるふたり。おめえ、何だ、知らなかったのかよ。そう問い詰めようにも、今にも泣き出しそうな着ぐるみマンの顔が、何とも不憫でならない。
 おめ、どうするよ。三上が問い掛けるより早く、着ぐるみマンはひとり鉄格子の前へ。三上も続いて横に並び、ふたりして隙間から中を覗き込んだ。遊園地の施設はまだ取り壊されずに残っており、止まったままの遊具が雪を被りながら、もう来る筈のない客をいつまでもただじっと待って並んでいた。ジェットコースター、観覧車、珈琲カップ、ゴーカート、それにカルーセル。カルーセル……。
 入り口の門に取り付けられた看板が、三上の目に留まった。看板の文字を覆う雪をそっと手で払うと、そこには在りし日の遊園地の名前が刻まれていた。
 その名は「夢の国」。
 夢の国。はっと三上は絶句する。そうか、だから夢の国、夢の国の着ぐるみマンだったんだな。心の中でそう呟きながら、三上は黙って着ぐるみマンの横顔を見詰めた。ただ無性にハイライトが吸いてえと願う三上だった。
 着ぐるみマンのやつ相当落ち込んでいるらしく、さっきからただじっと錆びた鉄格子につかまったまま身動きひとつしない。掛けると言うか書ける言葉も見付からない三上。ふう、まったく何てこったい。それにやべえぞ、まじでこの寒さ。このままじゃ俺たち凍死しかねねえ。せめてどっか、あったまる場所があればいいんだが。
 きょろきょろすると、何と向かいに一軒の喫茶店。お、まじかよ。店の名は「シクラメン」。

 はあ何だ、茶店があったんじゃねえか、ったく。だったら最初っから、そう言って下されよ、着ぐるみの旦那。三上は着ぐるみマンの肩にぽんと手を置き、なあ兎に角休憩しようぜ。このまんまじゃ、まじ死んじまうぜ、俺たち。さあと、シクラメンを指差す。それでも無反応の着ぐるみマンを強引に引っ張って、三上は何とか着ぐるみマンと共にシクラメンの中へ入った。
 喫茶店とは言っても質素。プレハブとまでは言わないまでもそれに近い作り。入り口も引き戸だし、遊園地前の屋根付きガラス張りの休憩所もしくは駅の待合室と言った趣きである。だからと言って、勿論贅沢など言ってはおられない。
 中に入ると、ストーブの炎が暖かく迎えてくれた。それに幸い、他に客は誰もいない。店の人はいないかとカウンターを覗けば、お婆さんがひとり椅子に凭れてうつらうつら……。あちゃ。ふたりが入店したのも気付かず、お昼寝の最中。カウンターには、白いシクラメンの鉢植えが飾られていた。
 ふたりは気にせず、遊園地の見える窓辺のテーブルに腰掛ける。テーブルには灰皿。お、まじ。けれど三上は、ハイライトを我慢する。でもお腹はぐーっと正直。ここは申し訳ないけどお婆さんに目を覚まして頂くしかあるまいと、心を鬼にしてカウンターへ。よだれを垂らしながら熟睡中のお婆さんの肩をとんとんと叩けば、ようやくお目覚め。如何にも不機嫌そうな面で、三上を睨んだ。
『なんか用かい』
 用かいって、俺ら客だぜ。むかあっと来たけれど、ここは我慢我慢。三上は穏やかに尋ねた。
『何か、食うもん、ねえの』
 しかしメニューは、アンパンとホットミルクだけ。って何処が喫茶店だよ。でも、ないよりましか。三上は有りっ丈のアンパンと一杯のホットミルクを注文する。三上とのやり取りが終わるや、お婆さんはさっさと居眠り再開。大いびきで当分目を覚ましそうにない。
 テーブルに戻って、おめえも少しは食った方がいいぞとアンパンを見せるも、着ぐるみマンはかぶりを振って、いらないだなと言う顔。たださっきからじっと、窓ガラスの向こうの遊園地ばかりを見詰めている。雪に埋もれた動かないカルーセルでも見てんのか、錆び付いた木馬たちなんぞを……。
 三上は気を利かせ着ぐるみマンをひとり残して、自分は隣りのテーブルに移動しアンパンとホットミルク。うめえなやっぱ。最高だぜ、この組み合わせ。日本人に生まれて来て良かった。とか何とかぶつくさ呟きながら夢中で頬張っていると、不意に着ぐるみマンが席を立ち歩き出した。お、何処行きやがんだ、あいつ。アンパンをくわえたままじっと見ていると、着ぐるみマンはそのまま外へ出ていってしまう。
 見ると、いつのまにやら遊園地の門の前にふたつの影。しかも見覚えがある。さっき海野の家で会った、あの女と少女ではないか。何しに来たんだろ。どうしてここへ。あっ……、もしかして、あの手紙かあ。
 女と少女は雪に降られながら、傘も差さずただじっと突っ立っていた。少女の長いお下げの髪にも雪が付着して、どきっと何か胸の張り裂けるような思いがして、三上は思わず立ち上がった。さて、着ぐるみマンとふたりはどんな関係。そして着ぐるみマンの心境や如何に。
 ふたりの前に姿を現した着ぐるみマン。三上はシクラメンの窓越しに、はらはらどきどき。もしかして、これってもしかすると、十数年振りの家族の御対面ってやつか。夫と妻、父と娘との。そうか、やっぱあいつ、渡辺ってのは偽名だったんだな。あいつきっと、海野なんだ。あの野郎、俺に嘘吐きやがって。でももう、どうでもいい。そんなことは許すから、ちゃんと再会の喜びを噛み締めろよ。
 でも、あんなとこに三人で寒くねえのか。あいつ、こっち入ってくりゃいいのに。俺に聞かれたくねえことでもあんのか。けれど三人ともやっぱし、じっと動かずにいやがる。寒いだろうによ、ったくもう。こっちの生まれだから、みんな平気なのか。まじじれってえ、苛々してくるぜ。女も少女もロシア辺りで着るような、如何にも重そうなコートに身を包んでいた。表情もなんか硬く強張っている感じだし、さっき家で見たはつらつとした少女の面影はなかった。でも、おっと、いけね。他人の俺がじろじろ見るもんじゃねえか。我に返った三上は三人から目を離し、すっかり冷めたホットミルクを飲み干すと、ぼんやりと降り頻る雪に目をやった。
 女と着ぐるみマンは、さっきからただじっと黙って見詰め合ったまんま。一瞬女は視線を外し少女に何か告げると、再び着ぐるみマンに視線を戻した。少女は女に頷くとひとり歩き出し、こっち、詰まりシクラメンへと向かって来るではないか。げっ、まじかよ。どきどきする三上。
 少女はそのままシクラメンに入ると、店内を見回した。そして窓辺にぽつんとひとり切りで坐っている三上に気付く。少女は三上に手を振った。お、俺のこと憶えてんのか。三上は照れ臭そうに、小さく頷き返した。すると少女はにこっと微笑み返し、三上のテーブルの前までやって来た。
 じっと見下ろす少女に、三上は着ぐるみマンお得意のお手上げのポーズ。すると少女も真似してお手上げのポーズ。ふたりで苦笑いすれば、旧知の友の如く直ぐに打ち解け合う。三上は坐ればと手で合図し、少女は黙って三上の向かいの椅子に坐った。ふたりは黙ったまんま、一緒に外を眺めた。遊園地の前の女と着ぐるみマンを。シクラメンの中はしーんと静まり、ストーブの上に置かれたやかんの蒸気の音、お婆さんのいびきだけが響いている。窓の外に降り頻る雪の音や、少女の呼吸の音さえ聴こえて来そうな程に。
 女の顔を見ているうちに、三上は不意に観音様と言う言葉を思い出す。観音様。同時に美樹と出会った、あの六月の雨の日が甦った。美樹が差していたあの赤い傘。そうだ、そう言えば渡辺。確かあの日美樹を見て、観音様に似てるって言ったんだった。そうか、だからあいつにとっての本当の観音様は、今目の前にいるあの女性なのだ。今更ながら、感慨に耽る三上。
 遊園地の門の前のふたりは向きを変え、だから少女と三上に背を向け、鉄格子の向こう、遊園地の中を覗いている。着ぐるみマンのこと、大方カルーセルでも見ているに違いない。雪に埋もれて止まったまんまのカルーセル。寒そうに震えているだろう木馬たちを、ふたりして眺めているのか。いい年をした男女が既に忘れ去ったそれぞれの、互いに愛し合った若かりし日々の背中で、今眺めていてくれたらいいのにと、三上は切に願った。過ぎ去った年月を越えて……。
 着ぐるみマンはようやくメモ帳を取り出し、いつものようにペンをしたため女に見せる。ほんとばかだな、あいつ。こんな時位、ちゃんと喋ればいいだろうに。着ぐるみマンでなく、渡辺じゃなかった、海野にちゃんと戻ってよ。人間なんだから、懐かしい声だって聴きたいに決まっているじゃねえかよ。
 そうやってさっきから、外のふたりのことばかりをずっと気にしている三上の耳に、突然声が……。
『おじさん』
 ん、何だ。
 それは少女の声だった。急いで返事をしようとして、しまった。今更ながら三上は自分がメモ帳もボールペンも持っていないことに気付く。そういや俺、果たして最近誰かとまともに声で喋ったことなんて、あったっけ。でも答えは明らか。あるわきゃ、ねえよ。だって俺、ずっと人間の屑として生きて来たんだから。でも今この少女を前にして、久し振りにまともに喋ってみたい気もする。少なくともこの少女に対しては、人間の屑でいたくないと三上は思った。
『おじさんたち、何処から来たの』
 少女が尋ねる。おじさんたちって、お父さんたちの言い間違いじゃねえのかい、お嬢ちゃん。
『ああ、東京からだな』
 だな。咄嗟につい、だなと口にしてしまった自分が可笑しくて、三上は唇を噛み締め苦笑い。さっきのお手上げのポーズと言い、いつのまにか俺、あいつ、着ぐるみマンの癖やなんかが染み付いちまっているのかも。だってもう何ヶ月だ、あいつと一緒に暮らし始めてから……。
 外のふたりは根性で、まだメモ帳でのやり取りを続けている。寒さに震えながらだから文字は震えているだろうし、雪で滲んだりもするだろうから、かなり苦労しているに違いない。かと言ってどうして上げることも出来ない三上。ただじっと、ふたりを見守っているだけ。
『東京か、いいな都会で。ここなんて田舎だから嫌』
 嫌。そんなことないだろ。そう言いたかったけど、三上は何も言えなかった。その代わり、少女に問い掛けた。
『きみ、何ていうだな』
『名前。綾』
『あやちゃんか。いい名だな』
『そうかな』
『誰が付けてくれただな』
『知らない、でも多分お母さん』
『お父さんじゃないんだな』
 えっ。少女はなぜかびくっとし、悲しそうな目でじっと三上を見詰めた。
 なぜ、そんな神経質になるんだよ。気になる三上は、思い切って問いを続けた。
『お父さんは元気にしてるだな』
 すると少女は、うんと頷く。けれどそれからぽつりと少女は零した。
『お母さん、再婚したの』
 再婚。再婚って、なぜ。
『お父さんの弟で、和彦っていう人が相手』
『じゃそのかずひこさんが、今のきみのお父さんという訳だな』
 頷く代わりに、窓の外のふたりをじっと見詰める少女。その顔は、今にも泣きそうな顔をしていた。
 外では、躊躇いがちにけれどちゃんと女がメモ帳に返事を書き、着ぐるみマンがじっとそれを見詰める。それから何とも言えない悲しげな表情で顔を上げたかと思うと、着ぐるみマンはまっ直ぐに空を見上げる。灰色の今も無数の雪を降らす空を仰ぎ見、それからやさしい眼差しを作ると女に視線を戻す。再びメモ帳に何かを書くと、それを見た女が黙って頷く。
『あの人、誰』
 少女が着ぐるみマンの背中を指差す。
『変な人、おじさんの友達』
 変な人。ああ、勿論だとも。三上は頷く。
『着ぐるみマンだな』
『なーにそれ。綾、てっきり……』
『てっきり、何』
『綾の、お父さんかと思っちゃった』
 えっ……。返事に困る三上。困った顔の三上を見て、少女が吹き出す。
『冗談だってば。ね、いつか綾が東京に遊びに行った時、案内してくれる』
『ああ、勿論だな。でも』
『でも』
『東京なんて人がうじゃうじゃいるだけで、そんなにいいところでもないんだな』
 それにしてもさっきから再婚の話がどうしても気になっていた三上。思い切って少女に尋ねてみた。
『きみの前のお父さんは、どうしただな』
 すると少女は顔色ひとつ変えずに答えた。
『死んだんだって』
 えっ、死んだ。まさか。
『いつのことだな』
『綾が小さい時』
 小さい時。三上は空を仰ぎ見る、着ぐるみマンがさっきそうしていたように。ああ、そう言うことか。あいつがこの町を出た時、この子はまだ小さかったから。ああ、それで死んだ、か。しかし、そんな直ぐにばれる嘘を……。でもその方が良かれと思って、この子にとっても周りのみんなにとっても、だから再婚したってか。でもだってしょうがない。どんな事情があったにせよ、十年以上ここに帰って来なかったのは、あいつ。あいつが悪いんだから。三上はじっと、着ぐるみマンの背中を見詰めた。
『良い人だったって』
 えっ、良い人。どきっとする三上。
『ばかがつく程のお人好しだったんだって、綾のお父さん』
 そう言いつつ少女もじっと、着ぐるみマンの背中を見詰めていた。ところが突然着ぐるみマンの足元に跪き、女が泣き崩れた。
 少女も三上も吃驚。
『お母さん』
 泣きそうな顔で呟き、シクラメンを飛び出そうとする少女。しかし三上は懸命に、少女を呼び止めた。
『あやちゃん、もう少しここにいるだな。あのふたりには何かきっと、大人の事情があるんだな』
 すると少女は頷き、足を止めた。
『うん、分かった』
 少女の健気さに、堪らなくなった三上は立ち上がる。ああ、ハイライトが吸いてえ……。カウンターまで歩く三上。もし本当に吸うのなら、あの婆さんを叩き起こして、ハイライトとライターを購入しなければならない。けれどそれも出来ずにその代わり、三上は小さく口笛を吹き出した。曲は、映画『ディア・ハンター』のカヴァティーナ。窓の外は相変わらずの吹雪。
 外では、着ぐるみマンが跪く女の手を取り、やさしく微笑み掛ける。女は立ち上がり、ふたりの手は再び解ける。着ぐるみマンの大きな手の指が、女の頬の涙を拭う。着ぐるみマンはただかぶりを振って笑うだけ。分かってる、おまえの気持ちは、この俺が一番良ーく分かっているだな……。そんな顔をしながら、着ぐるみマンのやつ。
 その時、シクラメンのガラス窓を挟んで、少女と着ぐるみマンの目と目が合う。着ぐるみマンは女の肩をやさしくぽんとひとつ叩くと、女に少女の方角を指し示した。はっとした女は頬に落ちる涙を恥じらいながら、こっちにおいでと、少女を手招きした。
 その姿を見た三上は、少女に告げる。
『ほら、もう行ってもいいみたいだな』
 うん。三上の言葉に、少女は鉄砲玉のようにシクラメンを飛び出した。
 着ぐるみマンへと、白い息吐き吐き少女が叫ぶ。
『着ぐるみマーーーン』
 えっ。一瞬吃驚した着ぐるみマンは、それでも両腕を広げ少女を待った。少女はどーんと体当たりするように、勢い良く着ぐるみマンの胸に飛び込んだ。抱擁。どきどき、どきどき……。少女は泣きそうな顔で呟いた。
『汗臭ーい』
 頭掻き掻き照れ臭そうに、着ぐるみマンが笑った。
 あいつが笑ってる。渡辺と名乗って自殺未遂ばかりしていたあいつ着ぐるみマンが、心から笑っていやがる。あんな嬉しそうなあいつ見たの、俺生まれて初めて。思わず三上も、外に飛び出した。どきどき、どきどき……。止まったまんまのカルーセルも、雪に埋もれた閉鎖されたまんまの遊園地も、みんな今着ぐるみマンの鼓動の中で、回転しているような気がした。今、着ぐるみマンの着ぐるみの内側が、着ぐるみマンの涙でいっぱいに濡れていることなど誰知ることもなく……。
 どきどき、どきどき……。そして夢の国のカルーセルは静かに止まった。抱擁を解き、着ぐるみマンは少女を見詰めた。
「やさしい人になってください」
 メモ帳にそう書くと、着ぐるみマンはページを破って少女に手渡した。それから女にも同様に。
「もう帰った方がいい」
 女は頷くと、少女の肩を抱いて歩き出す。雪の中に消えてゆくふたりの背中を、着ぐるみマンと三上が見送る。
 でもいいのかよ、これで。
 目で訴える三上に、いいんだな、これで。有難うだな。そう頷く着ぐるみマン。
 ただいつまでもいつまでも、ふたりを見送っていた。寒さも忘れ、降り続く雪の中で、ただしばらくそうしてじっと突っ立っている着ぐるみマンと三上だった。その時三上の耳に、幽かに海の音が聴こえた気がした。寂れた漁港へと打ち寄せる、打ち寄せては砕け散る波飛沫の音が……。
 いつしかもう日暮れ時。ふたりは雪別離駅へと急ぐ。直ぐにホームに雪留本線が到着する。ふたりが乗り込むと、発車のベルが無人駅に鳴り響いた。
 ところがその時、ホームに人影。赤い傘がひとつ、ふたりへと近付いて来る。
 それは、綾。
 ほら。三上の肘が、着ぐるみマンのお腹を突付く。けれど発車のベルは止み、ドアは閉まる。ゆっくりと雪留本線がホームを走り出す。汽笛が響く。その時少女が大声で叫んだ。
『おとうさーーーん』
 無人駅のホームに、降り頻る雪の中に、少女の澄んだ叫び声が響き渡った。答えるように着ぐるみマンも、電車のドアに張り付いて叫んだ。
『綾ーっ』
 その声は確かにあの渡辺、ただ必死で手を振り続ける着ぐるみマンだった。

 着ぐるみマンの帰郷の旅は、これにてお仕舞い。けれど三上は旅の終わり、衝撃の事実に遭遇する。それは雪別離駅から青森駅に戻って来た時のこと。
 青森駅の改札を出て予約したホテルへと向かう途中、駅前の派出所の前を通り掛かった三上は、何気なく一枚の指名手配写真に目が留まった。それはすっかり古びていて、セピア色に色褪せていたけれど。
 その中に確かに「海野保雄」と言う文字。海野……。気になって写真の顔を見ると、そこにはふっくらとした三十代前半の男の顔が。しかし……。確かにふっくらとはしているけれど、三上は直ぐに気付いた。
 渡辺だよ、これ。
 確かに渡辺の面影が、隠しようもなくこびり付いているではないか。どう見たって指名手配写真のそれは、渡辺の顔写真。そして写真の上には、大きく「殺人犯」の三文字が記されていた。
 殺人犯。海野保雄が殺人犯で指名手配中だと……。まっさか、おい、冗談だろ、これ。三上はうろたえ、パニック。雪の路上に立ち尽くしたまんま、のろのろと前を歩く着ぐるみマンの背中をじっと見詰めた。
 どうしただな。振り返る着ぐるみマンに、けれど、ああ、何でもねえよ。かぶりを振ると、三上は歩みを再開させた。
 ホテルに着くと、別々のシングルを取って食事と風呂を済ませ、ふたりはさっさと横になった。ふたりとも寝付けず、それぞれに悶々とした一夜を過ごした。着ぐるみマンは今日一日の出来事への興奮で、三上はさっきの指名手配の件で。
 あいつが殺人なんて、俄かには信じ難い。嘘だろ。嘘だと信じたい。何かの間違い、手違いだと。人違いか或いは警察の冤罪か、よくある話だよな、こんなのよ。
 でも。でも……。三上は振り返る。風の丘公園で出会った時の渡辺のことを。青白く痩せこけ髪も髭も伸び放題。両手に下げたふたつの大きなマジソンバッグ、自暴自棄とも思える言動、どうせ人間の屑、人間の。
 そうか。もしかして、だから人間の屑だったのか。そして痩せた口笛で吹いていたエデンの東。だからエデンの、東……。てっきりただの路上生活者だとばかり思っていたのに。もしかしてあん時あいつ、逃げて来たばっかだったりして。こんな遥か遠い雪の国から。
 でも殺人。殺人って、もしそれが事実だとしたら、あいつ一体何をしたんだろう。誰を殺したってんだ。ほんと、まじで何が起こったってんだよ、あいつの前に、ったく。知りたい、知りたい。今直ぐにでもあいつの部屋に押し掛けて、真実を確かめたい。
 けれど三上には出来なかった。今夜は止めておこう。せめて今夜位は、そっとしておいてやりたい。なーに、そんなに慌てなくとも東京に帰ってから、ゆっくり聞けばいいじゃねえか。だって、だってなあ。何があったにせよ、結局みんな十年以上昔のこと。もう十年以上、時間は経っていやがんだ。今更どうなるってもんでもねえだろ、なあ。何度も何度も三上は自分の心にそう言い聞かせながら、眠ることも出来ず、ただベッドの中でじっと夜明けを待った。あーあ、あんなもの、見なきゃ良かったんだ。出るのは、ため息ばかりの三上だった。
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