(二十二)椿

文字数 4,222文字

 月に加えて年まで替わり、お正月。以前は着ぐるみマンと三上のふたりが仲良く並んで坐っていた夢の丘公園のベンチにも木枯らしが吹き荒れ、公園の草花は寒さに震えまだまだ土の中に眠っていた。そんな中梅と椿の花だけが早々と顔を出し、吹雪の中でも寒さに負けずしっかりと咲いていた。
 先月着ぐるみマンの帰郷から福寿荘に帰って来たふたりは、クリスマス、年末年始と何かと忙しく、ゆっくりと顔を合わせる時間も持てなかった。三上は警備員のバイト、着ぐるみマンもアトラクションのバイトをせっせとこなし、のんびり除夜の鐘やら初詣どころの騒ぎではない。しかし着ぐるみマンは帰郷で受けたショックを引き摺っていたし、三上は三上で指名手配の件を確かめるのが恐くて着ぐるみマンとの接触を避けていたから、お互いふたりにとってはむしろ好都合だった。そんなふたりの様子を、百合は何も言わずというかメモ帳に書かずただ静かに見守っていた。
 それでも何となし日々の暮らしは平穏無事に過ぎてゆき、時はさっさと音もなく流れ去り、三上はいつしか夢だったかの如く指名手配の件を記憶の片隅へと追いやった。着ぐるみマンの方も人前では沈んだ顔ひとつ見せず努めて明るく振舞っていたから、表面上ふたりの生活は着ぐるみマンの帰郷以前と何ら変わらないふうにも見えた。
 とは言っても着ぐるみマン。本当のところは心寂しく、生きがいを失くした季節外れの蝉の抜け殻宜しく、ひとりぼっちでいる時はいつも暗く沈んだ顔をしていた。昼下がり夢の丘公園のブランコにいつまでもぼんやりと揺られていたり、夜更けの新宿ネオン街の通りを背中丸めMrロンリー宜しく宛てもなくひとりぼっちで徘徊したり。それから痩せた口笛で吹く曲が、テリーのテーマから遂にエデンの東に逆戻り。これには流石の三上も吃驚したけれど、気を遣って三上の方は逆にエデンの東を吹かなくなるのだった。

 年末年始の慌しさも一段落した月末の土曜日、百合は久し振りに翌日のドリームランドのアトラクションに三上を誘う。あんまり乗り気でない三上だったけれど、着ぐるみマンの帰郷以来ずっと百合のことを置き去りにしていた負い目から、渋々付き合うことに。
 その日東京では雪が降り、午後から積もり出して夜明けには止んだ。日が変わって日曜日、夜勤明けの三上は寝不足のまんまドリームランドへと出掛ける。アトラクションは相変わらず、アンパンマンショー。お決まりの展開で着ぐるみマン扮するバイキンマンがアンパンマンにやられると、いつもはこれでお仕舞い。ところが本日は趣向を変えて、少し早目の豆まき。バイキンマンに向かってアンパンマンが豆を投げ付けると、観客の子どもたちも一緒になってバイキンマン目掛けて豆を撒く。親たちは我が子参加の勧善懲悪に拍手喝采。
 いててててっ。バイキンマンは堪らず舞台の上を逃げ回る。逃げて逃げて舞台を降りてドリームランド中を逃げ回って、とうとうフェンスの前まで追い詰められた。さて、どうしたもんか。はい、もうこれまでよで後は行き止まり。そこでバイキンマンはどうしたか。何と、フェンスによじ登ったかと思うと、そのままデパートの屋上からジャーーンプ。
 って、え、嘘だろ。ええっ、まじ。どう言うこと。きゃーーーっ。
 観客は唖然それから騒然。それもその筈、だってここは十二階建て木馬百貨店の屋上。観客に混じって百合と三上も吃驚仰天。一体何が起こったのか、何が何だかさっぱり訳が分からない。顔を見合わせれば、ふたりとも顔面蒼白。だけど吃驚しているだけじゃ、どうしようもない。早くしないと急がないとで、誰よりも早くフェンスへと向かった三上は、フェンス越しにバイキンマンの姿を捜してきょろきょろ、きょろきょろ。
 ところが何処にも見当たらない。フェンスにつかまって遥か下界の地上を見下ろすと、何と積もった白い雪の上に、見覚えのある黒と紫のかたまりが……。何だ、あれ。もしかして、バイキンマンの着ぐるみじゃねえか。そうだ、間違いない。でもどう言うこった。まさかあいつ、落っこちたって訳じゃねえだろうな、飛び降りちゃったって。おい、冗談だろ、ったく。よせやい。でも、でも元々あいつ、自殺未遂の常習犯だった男。そう思った瞬間、鬼の目に涙。じわーっと、三上の目から涙があふれ出した。嘘だろ。おい、なんかの間違いなんだろ、これは。これもアトラクション、アンパンマンショーの続きだよな。何とか言ってくれよ、誰か。けれどどいつもこいつも、無言のまんま……。
 嘘吐け。じゃあいつ死んだの、あいつが死んだってかい。まさか、あいつが死ぬなんて、あんなにいつもしぶとかったあいつが。それにだってあいつ、ここでこの場所でほんの何ヶ月か前、自殺しようとした男を助けたんだぜ。なのに何で、そんなあいつが。
 フェンスの前で男泣きの三上の隣りに、いつしか百合。三上の涙を初めて目にした彼女、その百合もまた泣いていた。けれどここは冷静に、急いで下に行きましょうと三上に目で合図を送る。すると、そうだ急がなきゃと、こちらも目で答えて三上。ふたりして走り出した。屋上から最上階へ。そこからエレベータかエスカレータでとも思ったけれど、何とももどかしく、結局非常階段を一気に駆け下りた。百合と三上、ふたりの息はぴったり。
 その時三上は百合とダッシュしながら、美樹のことを思い出す。美樹が死んだ、あの日のことを。あん時も、そうだった。あの時も結局俺は、助けられなかった。いつも俺は大事な誰かを、大切な美樹、そして今あいつを助けて上げられなかった。俺にしか助けてやれない大事な、大事な人たちなのに。俺ってやつは、やっぱ人間の屑……。
 あいつが死ぬなんて、やっぱりあいつも、あいつなりに悩んでいやがったんだ。苦しんでいたんだよ。なのに俺はほったらかして知らん振りでバイトばっかりしてやがって。あいつの為にちっとも親身になってやれなかった。そしたらこのざまだ、ったく。何てこったい、何て詰まらない俺。何だよ、これじゃ一生懸命生きていたって、何にもいいことなんてありゃしねえじゃねえか。生きてたって、辛いことばっか。やってらんねんだよ、これじゃ、あほらし。これじゃ、自殺志願者をどうやって救えばいいんだよ。自殺志願、そうだ、だからあいつ風の丘公園にいた頃、自殺未遂ばっか繰り返していやがったんだ。そうだったのか。
 あいつ、どんな理由があるかは知らないけれど、あいつあんなかわいい娘、あやちゃんと離れ離れで暮らさなきゃならなかったなんて、辛かったろうなあ。あいつ、こんな都会であんな恰好しやがって。あれで顔隠しているつもりだったのかよ、何て間抜けな。でもあいつ、いつもにこにこしていやがった。本当は辛いくせに。辛さ、寂しさ、みんな着ぐるみの中に隠して閉じ込めて、あいつ一生懸命毎日笑っていやがった。お手上げのポーズで決めて、みんな笑いに変えて、笑ってたんだよ、あいつは。
 なのに俺は何にも気付いて上げられなかった。何てこったい、ったく。あんな大事な人も助けられずに、何が人間の屑だよ。かっこばっか付けやがって。だいたい一体俺は何の為に、人間の屑になったんだよ。大事な人をこんな形で死なせちまっちゃ、元も子もねえだろが。
 そんなこんなをぐるぐると思い巡らしているうちに、三上はいつか百合と共に木馬百貨店の一階に辿り着く。人波を掻き分け急いで表に飛び出すと、そこは雪の積もった路地。けれどなぜか静か。今頃は救急車が到着して大騒ぎになっているかと思いきや、丸で何事もなかったかのように平穏無事。積もった雪に歩き難そうではあるけれど、いつものように人々が賑やかに行き交っている。
 ありゃ、どういうこったよ。今人がひとりこの百貨店の屋上から飛び降りたって言うのに。何でこんなにみんな、平然としてられんだよ、ったく。
 それに。辺りをきょろきょろ見回してみても、着ぐるみマンの体、亡骸が何処にも見当たらない。バイキンマンの恰好をしていたあいつの。なあ、一体何処に消えちまったんだよ。まさか既にもう救急車で運ばれた後って訳ねえよな。幾ら何でも早過ぎる。警察も救急車もいねえなんて。それに何で雪の上に血の痕が一滴もない訳……。
 なんか変だなと顔を見合わせる百合と三上。そんなふたりのそばへ、雪の上をのっしのっしとひとつの影が近付いて来る。先に百合が気付き、その後三上。言葉もなくと言うかメモ帳への書き込みもなく、呆然とその姿を見詰めるふたり。なぜならそこには、そこにいたのは、じゃーん、我らが着ぐるみマン。
 着ぐるみマンは何もなかったように、平然とふたりに向かって微笑んでいる。何だ、てめえ生きてたのかよ。着ぐるみマンのメモ帳に三上。
「ふざけんな、ばかやろう」
 大きな文字で殴り書きしながら、そのまんま着ぐるみマンの胸に抱き付き、着ぐるみマンの胸の中でそして三上は嗚咽した。寒いのも忘れ、そんなふたりを百合はただ黙って見守っていた。そんな彼女の目もいつか、涙に濡れていた。
「観音様が死んでから、ずっとひとりで辛かっただな。よくがんばっただな、あんちゃん」
 メモ帳に書くと、三上の頭をやさしくいい子いい子と撫でる着ぐるみマン。答えて三上。
「ふざけんな、てめえこそずっと大変な思いをして来たくせに。俺はてっきりもう、おめえが死んじまったかと思ったじゃねえか」
 すると着ぐるみマン。
「おいらは、死なないだな。だってあんちゃんからもらった命だな。あんちゃんはおいらの命の恩人、仏様だな」
 着ぐるみマンの目にも、いつしか涙。
 命の恩人。着ぐるみマンの薄汚れた胸は、ふわふわと柔らかくてあったかかった。くんくん鼻を当てると、着ぐるみマンの汗と涙の潮辛い匂いがしていた。耳を当てると、どきどきどきどき、海のような音がしていた。
 三人が涙に濡れた後、にこにこと一番に笑い出したのは着ぐるみマン。
「心配させてすまなかっただな。みんなアトラクションの仕かけだな。ふたりともまんまとだまされたってわけだな」
 実はあの瞬間着ぐるみマンはフェンス伝いにとっとと逃げて身を隠し、木馬百貨店の路上には別のバイキンマンの着ぐるみを置いておいたという訳。
 久し振りに三人揃って、融け始めた雪の路地を夢の丘公園へ。雪の下でも、梅と椿が咲いていた。ぶるぶるぶるっと震えるように、けれど確かに咲いていた。
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