(十七)太陽がいっぱい

文字数 5,877文字

 八月が訪れ、暑さはますます厳しくなる一方。エアコンなどない福寿荘の三上の部屋では、寝苦しい夜が続く。
「まだ公園の方がよかっただな」
 流石の着ぐるみマンも苦笑い。
 そんな中お盆を控え、三上は美樹のお墓参りを計画する。
「行くだろ、ついでに海水浴どうだ」
 メモ帳で着ぐるみマンを誘うも、答えはノー。
「おいらは冬の海で充分だな」
 三上が期待した程乗り気でない。冷てえな、ったく。
「でも夏の海も悪くないだろよ、おい」
 しつこく誘う三上に、仕方ないだなと腕組みして考え込み、そんなに言うならと渋々頷いた着ぐるみマン。良し決まりだな。上機嫌の三上である。
 ところが数日後、なぜか着ぐるみマンは乗り乗り気分ではしゃぎ出す。
「泊りがけで行くだな」
「そんな金ねえよ」
 つれない三上に、着ぐるみマン。
「おいらのポケットマネーから出すだな」
 ぽんと自分のお腹のポケットを叩いてみせる。おいおい、そんな金あんのかよ。疑いつつも、三上はOK。
「わかった、わかった。じゃそうすっか」
 これで泊り掛け決定。
 こうして台風で酷い目にあった三浦海岸へと、再びのこのこと足を運ぶふたりだった。ところが今回は晴天、ばっちし日本晴れ。台風の予報もなしと言う訳で、墓地も海岸も人、人、人でいっぱい。これならまだ台風が来てくれた方が、静かで良かっただな。ふたりして苦笑いの三上と着ぐるみマン。でも折角来たんだからと、美樹のお墓参りを済ませると海へ。
 ふたりはサングラスでビーチチェアに寝そべって、海と言うか人の波を眺める。ぎらぎらと照り付ける太陽の日差し、海水浴客たちの喧騒、ガキんちょどもは大はしゃぎ。そんな中、三上はクールにハイライト吹かしながら痩せた口笛。曲はと言えば、映画『太陽がいっぱい』のテーマ。かっちいいぜ、三上の旦那。
 哀しくも切ないメロディに、相棒もさぞかし気に入ってくれるだろうと思いきや、結果は逆。着ぐるみマンはその旋律を耳にするや、なぜか顔の表情が一変。俄かに暗く険しい顔付きとなって、しかも見る見る顔面蒼白ではないか。ったく良く出来た着ぐるみだねえと改めて感心しつつも、一体どうしちまったんだ、着ぐるみマン。今までお目に掛かったことのない深刻な雰囲気の着ぐるみマンに、三上は吃驚。大丈夫か、こいつ。なんか、まじやばそうなんだけど……。
「どうしたんだよ、顔色悪いぜ」
 メモ帳の三上の心配の言葉に、緊張したように尖がった文字を返して寄越した着ぐるみマン。
「その曲、苦手なんだな」
 はあ苦手、何だよそれ。でも、嫌ならまあ仕方ねえか。三上が口笛を止めると、着ぐるみマンはほっとして直ぐに普段の顔に戻った。おお、まじ嫌だったんだな。すまねえ、許してくれ。口笛を遠慮した三上は、いつしかうとうと昼寝タイム。
 どれ位時が過ぎたのか、はっとして三上が目を覚ますと、海岸はもう日暮れ間近。べっとりと汗を掻いた三上はふわあっと大欠伸、ひと泳ぎしてえなと辺りを見回した。すると着ぐるみマンがいた筈の隣のビーチチェアには、なぜかサングラスの女が。真夏とサングラスのせいで、とってもいい女に見えてしまうからたまんない。水着はビキニじゃねえし、ちっとださいけどな。でも、何でだ。着ぐるみマンの野郎、あいつ、何処いっちまったんだよ、おい。きょろきょろ見回してみるも、着ぐるみマンの姿は見当たらない。すると三上が目覚めたのに気付いた女は、サングラスを下にずらす、ずらす……。遂に三上と女と、目と目が合った。
 なーんだ、百合かよ。女の正体は岩渕百合、その人だった。百合。はあ、何でこんな所にいやがんだ、こいつ。しかし照れ臭そうに微笑み掛ける百合の顔は、いつになくきらきらと眩しかった。どきん。まっ黒に日焼けした三上の顔がまっ赤っかに。しかし、ああ、そうか。三上は直ぐに思い付いた。あの野郎だ、あいつがここに百合を誘ったんだな。道理であいつ、出発前から上機嫌でいやがると思ったら、こんな訳がありやがったってか。一体何処いやがんだ、あん畜生。三上は再び海辺をきょろきょろ、きょろきょろ。お、いやがった、あんなとこに。
 着ぐるみマンは夕陽煌く波打ち際で、ひとり呑気に波と追いかけっこしていた。百合も着ぐるみマンに視線を向ける。その眼差しに熱いものを感じて、三上の心にめらめらと嫉妬の炎が点火する。ザヴザヴシュワー、ザヴザヴシュワーと波打ち寄せる砂浜には、着ぐるみマンの大きな足跡が刻まれ、きらきらと揺れる波の煌きに包まれた着ぐるみマンは振り返り、ふたりに手を振った。あいつ、あんなにこにこ嬉しそうにしやがって。くう。
 嫉妬の炎を更に熱く燃え滾らせようとした三上だったが、ふとさっき、太陽がいっぱいを耳にして着ぐるみマンが見せたあの深刻な顔付きを思い出し、ため息を零す。ま、良かったじゃねえか、元気に戻ってよ。やっぱおめえは、元気なのが一番。なあそうだろ、百合。仲良く百合とふたりして、手を振り返す三上だった。
 着ぐるみマンが砂浜にしゃがみ込むと、そこには一匹のヤドカリがいた。ヤドカリ、宿借り……。おいらも仲間だなと言う顔で、いとおしげにじっと見詰めている着ぐるみマン。驚いたヤドカリは、ちょろちょろちょろと逃げて波の中へ。
 お次は貝殻と戯れる着ぐるみマン。浜にいっぱい落ちている貝殻、そのひとつひとつを手に取っては耳に当てたり眺めたり。そしてまた丁寧に元の場所に返す。差し当たりヤドカリは海に住む着ぐるみマンで、貝殻は捨てられた着ぐるみだな。などと感傷にでも浸っていやがるのか。でもあいつ、さっき太陽がいっぱいに対して、何であんなに険しそうな顔したんだろ。ついどうしても気になってしまう三上。たかが口笛じゃねえか。でもなあ、もしかするとあの映画に、なんか嫌な思い出でもあんのかも知んねえなあ。
 遠く何処からか海猫の鳴く声がして、驚いた子どものように立ち上がった着ぐるみマンは、夕映えの水平線を眩しそうに見詰めながらまた物思いに沈む。足元をひんやりとした波が、幾度となく打ち寄せては引いてゆく。ん、今日のあいつって妙に感傷過多ってか。あ、もしかして海。そうかあいつ、故郷の海でも思い出してんじゃねえの。やべえな、あの野郎いい歳こいて、泣いてたりして。よせやい、そんな恰好で。まだガキどもだって、うじゃうじゃいんだからよ。
 心配してビーチチェアから起き上がり、波打ち際へと向かおうとする三上を、けれど百合が制止した。
 いいから、ひとりにしておいて上げましょうよ。
 ん、ま、そうだな。
 会話どころか、メモ帳すらなくとも今や気持ちが通じ合う百合と三上のご両人。ふたりはただ黙って、着ぐるみマンの様子を見守っていた。
 いつしか陽は落ちて、今や家族連れの姿も潮が引くように消え、残るはカップルだらけ。海の面には空の星明かりが映って、きらりきらりと波に煌いているではないか。着ぐるみマンは水平線を或いは今はもう星を見ているのか、相変わらずひとり波打ち際に佇んだまま。それから突然両方の掌を重ね合わせたかと思うと、合掌のポーズ。その姿は空と海に向かって祈りを捧げる聖者、高僧のようでもあった。
 もうそろそろ、いいんじゃない。
 そうだな、行ってみっか。
 百合と三上は頷き合い、着ぐるみマンのいる波打ち際へ。
 ふたりの気配に気付いて合掌を解き、急いで振り返った着ぐるみマンの顔は、泣いていた。
 えっ、涙まで流すなんて。やっぱり何て不思議で素敵な、着ぐるみなんだろう。感嘆しつつもふたりは、着ぐるみマンの両側に黙って立ち、三上は、いいからいいからと着ぐるみマンの肩を叩いた。百合はと言えばただ黙って、着ぐるみマンに微笑みを向けるばかり。
 おっ、どきっ。
 吃驚したのは三上。百合って、何だこいつ。こいつの笑顔って、丸で天使みてえにやさしいじゃねえか。まったく、おったまげたぜ、俺。天使でなけりゃ、観音様だ。でも観音様、それじゃ美樹じゃねえか。ちょっと待て。美樹、美樹、美樹……。やべえ、やべえよ、どうしよう。
 この時三上ははっと自覚する。今激しく揺れ動く中年男の恋心を。まさか美樹から百合へ、心変わりってんじゃあるめえな、お前さん。それじゃ浮気やぞ、浮気。今風に言えば不倫ってやつか。嘘だよ、嘘に決まってる、嘘だって言ってくれ、俺の心よ、なあ。何で俺が美樹以外の女なんぞを、好きにならにゃなんねえの。そんなこた、あっちゃいけねえ、この世に有り得ねえ話なんだよ、ったく……。おっと、いけねえ、いけねえ。つい自分のことで熱くなっちまった。今は俺のことより、着ぐるみマンだ。
 その着ぐるみマンは、ふたりのやさしさに包まれ照れ臭そうに手で涙を拭った後、お得意のお手上げのポーズ。こいつ無理におどけやがって。ふたりは爆笑し、しばらく三人で笑い合った。夜の海辺に残っているのは、他にはもうカップルだけ。寄り添い合ったり、中には大胆に抱擁したりキスする恋人たちもいて、熱いこと熱いこと。これじゃ日本の夏が、熱帯夜になるのも当たり前。
 もういいおじさん、おばさんの三人は、草臥れて砂浜にしゃがみ込む。子どものように膝抱え体育座り。耳に響いて来るのは、ただ波の音だけ。夜の潮騒が鳴いている。泣いたカラスがもうわろた、沈んだ着ぐるみマンももう笑いやがったと来たもんだ。で、すっかりいつもの元気を取り戻した着ぐるみマンのお喋りと言うかメモ帳が三人の中を駆け巡る。
「なぜ星が今夜もこうして瞬いているか知っているだな」
 知らないわ。知らねえよ、そんなこた。かぶりを振るふたり。ぼんやりと膝抱え波の音を聴き、それから聴こえない空の星の音にも耳を傾けながら、今度は三上が物思いに耽る番。自らの美樹から百合への心変わりが未だに信じられず、戸惑いの海に溺れている。俺が、まさかこの俺が美樹以外の女を好きになるなんて。でも……考えてみたら美樹が死んでから、かれこれもう十年。十年かあ。十年だぜ、ったく。長いようで短いようで振り返ればあっという間だったなあ。よくまあこんな人間の屑が生きてこれたもんだ。正に憎まれっ子世にはばかるの人生。そんな三上の目の前に着ぐるみマンのメモ帳の言葉。
「だから地上の命の数だけ夜空に星が瞬くだな。つまりおいらたちが今生きているって明かしだな」
 ばっか野郎、それを言うならじゃねえ書くなら、証し、だろ。苦笑いの三上。対して百合は真面目な顔で質問を記す。
「じゃわたしたちの命の炎が星となって、夜空の彼方できらきらと燃えているってこと」
 すると目をくりくりとさせながら、着ぐるみマンが嬉しそうに頷く、また頷く。
「そうなんだな、そうなんだな。おいらたちの泣き笑いと夢が、宇宙の闇を照らすように燃えているだな」
 はあ、泣き笑いと夢だあ。ガキんちょみてえなこと書いてんじゃねえよと三上。対してまた百合。
「なるほど、だから人は星を見ると泣きたくなったり嬉しくなったり、感動したりするのね」
 け、ふたりして何大袈裟に感動ごっこしてやんだよ。とは捻くれ者の三上である。
「たとえどんなに辛く悲しいことでも、宇宙から見たら、きらきらと美しく瞬く星に見えるだな。誰の笑顔も涙も、宇宙の中ではみんな一粒の星なんだな」
 泣いたカラスがもうわろたの着ぐるみマンがメモ帳に締めの言葉を記し、これで三人の海水浴はお開き、お開き。その晩は予定通り三浦海岸で一泊。百合と三上はホテルに宿泊、ただし別々のシングルの部屋。じゃ着ぐるみマンはと言うと、本人の希望でひとり三浦の砂浜で夜を明かした。だから夜明け前海の音を聴きながら、着ぐるみマンが素顔で流した涙を、ふたりは知らない。海辺のヤドカリと遠くで鳴く海猫と水平線以外、だーれも知らない。

 何だかんだで夏の暑さに堪え、ようやく迎えた八月の終わりの土曜日の午後。三上と着ぐるみマンは、お約束の夢の丘公園へと出掛けた。向日葵、朝顔が咲き、蝉時雨が辺り一面に響き渡る。去りゆく夏を惜しむように一心に鳴く蝉たち。木の枝や葉っぱ、草を見ると、蝉の抜け殻がつかまったまんま残されている。一方地面には蝉の死骸がごろごろと転がっている。
 死骸なら未だしも、力尽き木から落下して地面に大の字になって寝転がった蝉が、蟻の大群に襲われもがく姿は哀れでならない。それを見付けた着ぐるみマンはしゃがみ込み、蝉を助けようと手を伸ばす。ところが。
「助けてもむだ、どうせ死ぬんだから。それにありだって食わなきゃ生きられねんだしよ」
 メモ帳でびしっと忠告する三上。そだな、あんちゃん。返事もなく頷くと、着ぐるみマンはしょぼんと立ち上がった。
 ふたりしてベンチに腰掛ければ、空にはもう夕映え。三上はハイライトで一服。着ぐるみマンは目を瞑って、蝉時雨に耳を傾ける。着ぐるみマンは直ぐに汗びっしょり、目を開き汗だくでメモ帳に記し三上に渡す。
「せみなんてどうして生まれてくるだな、たった一週間で死んでしまうだな」
 着ぐるみマンの膝にはいつのまにか野良猫が乗っかって、気持ち良さそうに午睡。
 メモ帳を読んだ三上は、けれど着ぐるみマンに返す良い答えが浮かばない。見ると着ぐるみマンの肩に蝉の抜け殻がひとつ、つかまっているではないか。ほら、宝もんだよと言う顔で、三上はそれを手に取って着ぐるみマンに渡した。すると、確かに宝もんだな、と言う顔で着ぐるみマンは、それはそれは大事そうに受け取り、お腹のポケットにしまった。
 それから三上はメモ帳にこう書いて返した。
「誰かに会いたくて、生まれてきたのかもな」
 すると着ぐるみマンの顔が、ぱっと明るく輝いて、さらさらさらっとメモ帳に記す。
「その通りだな。人はひとりぼっちじゃ、幸せにはなれないんだな」
 ひとりぼっちじゃ、幸せには……ってか。その時三上の脳裏にさっと浮かんだ面影は、最早美樹ではなくて、百合の顔。何てこったい、あーあ。でももう、しゃあないことなんかなあ。諦めたように心の内で苦笑いして、誤魔化すように三上は続けた。
「せみの命だって、やっぱ星になんだろ」
 すると、大きく頷く着ぐるみマン。
「そうだっただな、勿論だな」
「せみも誰かに会えた喜びといとしさで、光り輝くんじゃねえの」
 うんうんと頷き、着ぐるみマンも興奮しながらメモ帳に記した。
「誰かと別れたさよならも、光になるだな」
 メモ帳での熱い会話が一段落すると、野良猫におやすみを告げ、ふたりは元気に福寿荘への家路に就いた。汗ばんだ着ぐるみマンの頬を風がやさしく撫でていった。
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