(十八)彼岸花

文字数 5,393文字

 夏が去り九月になると、着ぐるみマンは夏バージョンの恰好を終え、また元の着ぐるみマンに戻った。とは言っても残暑厳しく、汗だくの日々が続いたのは言うまでもない。
 日曜日の着ぐるみマンは、相変わらずドリームランドのアトラクションでバイキンマンのバイト。三上は見に行って上げたいけれど、夜勤明けと重なることが多く眠くてそれどころじゃない。朝帰宅するやそのまま布団に入ってバタンキュー。昼過ぎにようやく目を覚ますというワンパターン。
 真昼間にひとり侘しく目が覚めて、福寿荘の天井を見詰めながら、三上の脳裏にはっと浮かぶいとしき女の面影は、やっぱり百合。あの女今頃きっとまた、着ぐるみマンとこのこのこ出掛けてやんだろうな。そう思うと胸がきゅっと締め付けられるようで息が詰まって、狭い部屋になどひとりでじっとしていられない。がばーっと飛び起き、目指すは木馬百貨店の屋上、ドリームランドへ。
 ところがドリームランドに到着すると、何やら騒々しい。屋上の一角に人だかりが出来ているではないか。何だ何だ、どうしたんだと三上が野次馬根性丸出しで寄っていくと、そこには百合の姿も。
『お、何の騒ぎ』
 三上が大声で話し掛けるも、百合はしかと。代わりにバックからさっとメモ帳とボールペンを取り出して、三上に渡す。はあ、こんな時にもかよ、あんた。やべえな、この女。すっかり着ぐるみマンに洗脳されてやがる。呆然アンド唖然とするも、三上は面倒臭そうにメモ帳に向かった。
「何かあったんですか、女王様」
 対して百合は興奮しているのか、さももどかしげにペンを走らせる。おいおい、だったら喋れよと突っ込みたくなるのを抑えつつ、百合のメモを読めば。
「あそこに自殺志願者がいるの」
 ええっ、自殺志願者だと。見ると確かに屋上の金網のフェンスを乗り越え、ひとりの男がぶるぶるぶるっと震えながら手すりにしがみ付いていた。
『来るなあ』
 如何にもさえないふうの中年男が、今にも泣きそうなか細い声で叫んでいる。
『近付かないで下さい、近付かないで下さい』
『押さないで、押さないで。静粛に願います』
 既に何人もの警官が、フェンスの前に配備されている。何てこったい。吃驚仰天の三上は、興奮を抑えつつ周囲を見回した。誰も皆悪戯に興奮したり、面白がったりの野次馬ばかり。誰か止めに行かなきゃ、説得に……。ここで忽然と、お久し振り、忘れていた良い人の三上が顔を出す。
 勇敢にフェンスに向かおうとする三上。しかしそこへ何処からともなく現れたのが、我らが着ぐるみマン。まだ恰好は、バイキンマンのまんまだけどね。バイキンマンの着ぐるみマンは三上を押しとどめ、警官にメモ帳を見せる。
「おいらに説得させてほしいだな」
『大丈夫か』
 警官の問いに答えて、しっかと頷く着ぐるみマン。
「死にたい人間の気持ちは誰よりもわかっているだな」
『よし』
 警官は頷き、着ぐるみマンに道を開ける。待て、俺も行くぞと後を追う三上を、けれど警官が取り押さえる。
 着ぐるみマンはフェンス越しに、中年男と向かい合う。ひゅるひゅるひゅるっとふたりの間を吹き抜ける風の音さえ聴こえる程、周囲はしーんと静まり返っている。そこへ突然音楽が流れ出した。曲はカルーセルのBGM、映画『フォローミー』のテーマ曲である。見れば乗客のひとりもいないカルーセルの木馬たちが、ゆっくりゆっくりと回転し始める。中年男の興奮を冷まそうという演出か、オルゴールにも似たその音色が緊張した人々の心を和らげる。
 十二階の屋上から足を踏み外し落下すれば勿論即死。百貨店前の路上には既に消防車、救急車が待機していた。しばらくフェンス越しにバイキンマンの着ぐるみマンをじっと睨み付けていた中年男は、痺れを切らし上ずった声で叫んだ。
『何の真似だ、きさま。俺を笑わせたいのか』
 けれど着ぐるみマンはいつも通り無言を貫き、ただじっと男を見詰め返すのみ。男は続けて叫ぶ。
『いいから、黙って死なせてくれよ』
 そこで着ぐるみマン、いつものようにメモ帳とボールペンを取り出した。大きな文字で記したそのメモ帳を男に見せる。
「なぜ死にたいだな」
 えっ。すると男は動揺し、着ぐるみマンへの警戒心を緩めた。
『あんた、喋れないのか』
 けれどやっぱり着ぐるみマンは無言。ただじっとメモ帳をかざしているだけ。しばらくその文字をじっと見詰めていた男は、着ぐるみマンに向かって答えた。
『死にたいから、死にたいんだよ』
 投げやりな男の答えに、けれど寄り添うように何度も何度も頷いてみせる着ぐるみマン。それからまた、大きな文字でメモ帳に書いて男に見せる。
「なんか、いやなことがあっただな」
 男はまた黙って、その文字を読む。ゆっくりと幾度も幾度も読み返しているのが分かる。回転するカルーセルのフォローミーのメロディが、ガラス細工の繊細さでドリームランドに響き渡る。九月の風が男の頬を撫でてゆく。それはもうひんやりと冷たい。男の視線がメモ帳から着ぐるみマンの顔へと移る。
 再びメモ帳に、着ぐるみマンが記す。
「カルーセルが回っているだな」
『何だ、それ。カルーセル麻紀がどうかしたのかよ』
「回転木馬のことだな」
 着ぐるみマンお得意の、お手上げのポーズ炸裂。すると男の顔に、くすくすっと一瞬笑みが漏れた。しかし直ぐに顔を強張らせる男。
『だから、それがどうしたんだよ』
「地球もひとつの回転木馬だな」
『何だよ、それ』
 すると着ぐるみマン、男が発した言葉をそのままメモ帳に記して男に見せた。
「なんだよ、それ」
 はあっ。男はむかっと来た顔で叫ぶ。
『何の真似だ』
 けれどまた繰り返す着ぐるみマン。
「なんのまねだ」
『オウムか、あんた』
「おうむか、あんた」
『いい加減にしろよ』
「いいかげんにしろよ」
 ありゃりゃ。こりゃ駄目だと、男は黙り込む。そこでまた着ぐるみマンはメモ帳に書く。
「この星は今も無数の泣き笑いを乗せて、ゆっくりゆっくり宇宙というドリームランドの中で回っているだな」
『泣き笑いだと』
「泣き笑いだと」
『もう、いいってばよ』
 くすくすくすっと、男は笑いながら言った。
「だから人生なんて、夢の回転木馬だな」
『人生なんて』
「人生なんて」
『夢の』
「夢」
 うん、うんと、男に向かって頷く着ぐるみマン。
「忘れていても回っているくせに、気づいたら、知らないあいだに止まっているだな」
『人生がか』
 その通りと頷く着ぐるみマン。男の顔からさーっと笑みが消え、泣きそうな顔になって着ぐるみマンを見詰めた。
「止まってはじめて夢だと気づく」
『止まってはじめて、夢だと……』
「人生は夢、だな」
 男がため息を零す。
『人生は、夢か』
 いつかカルーセルは止まり、フォローミーのメロディも途絶え、風は何処かへ吹き去っていった。後にはただ、沈黙だけが残された。
『もう、猿真似はお仕舞いかい』
 じっと自分を見詰める男に、着ぐるみマンは、さあ、と両手を差し伸べた。
 すると男は素直に頷いた。分かったよ。それから男は蟹のように不細工にフェンスをよじ登ると、着ぐるみマンの待つ側にすってんと転げ落ちた。ふたりを見守る人波の中で、そして男はそのまま着ぐるみマンの胸に飛び込み嗚咽した。
 こうして無事救出は成功。着ぐるみマンが男の身柄を警察に引き渡すと、後は何もなかったようにいつもの長閑な日曜日の午後の、ドリームランドへと戻った。
 感動に包まれながら、ふたりして一部始終をしっかりと見ていた百合と三上。
『署まで、同行願えませんか』
「だめだめだな、これからバイトなんだな」
 協力を要請する警官に、けれど必死になってメモ帳で断っていた着ぐるみマンの姿が、三上は妙に気になって仕方なかった。ここまでやったんなら、最後まで付き合ってやりゃいいのに、着ぐるみマンの野郎……。
 さあ、さ、お次はお待ち兼ねのアトラクション。午後三時の部の、始まり始まりだよ。救出劇の興奮冷めやらぬ観客席からは、いつもとは異なるコールが湧き起こる。
『それいけ、我等がバイキンマン』
『アンパンマンなんか、叩き潰せ』
 あれっ。今日ばかりはバイキンマンこと着ぐるみマンに、大人も子どもも熱き歓声。声には出さねど百合と三上も、ふたり仲良く拍手喝采。そんなふたりを他人が見れば、正にお似合いの大人のカップルってところか。
 盛り上がるのは大いに結構だけど、舞台の上のバイキンマンも、勿論アンパンマンの方だってやり難いことこの上ない。とは言っても筋書きはあらかじめ決まっているし、正義の味方が悪に負けては世の中通らない。てな訳で、結局最後はアンパンマンの勝利。ところが客席からは、そうはさせじと大ブーイング。仕方ないのでこてんぱんにやっつけられたバイキンマンを復活させ、アンパンマンと仲直りの握手でアトラクションを締めた。目出度し、目出度し。バイキンマンの背中の羽根も、嬉しそうに揺れていた。
 空には秋の夕焼け。ここ木馬百貨店の屋上、ドリームランドでも、赤とんぼが悠々と飛び回っていた。半袖シャツで福寿荘を飛び出して来た三上は、ぶるぶるぶるっともう肌寒い位。今日ばかりは三人で仲良く肩並べ、スーパーコスモスへと向かう百合、三上、着ぐるみマンだった。

 日は替わって秋のお彼岸。その日三上は着ぐるみマンには内緒、こっそりとひとりぼっちで三浦海岸へと出掛けた。行き先は勿論、美樹のお墓。
 墓地に着くと、毎度ながら神妙な顔付きで美樹のお墓の前で手を合わせた。平日の為か人影は少なくしーんと静か。周囲を見渡すと、まっ赤な彼岸花が群れなし咲いている。その花の色に、美樹との出会いのあの赤い傘をどうしても思い出してしまう三上。けれど今日の三上は美樹との思い出に浸る為に、着ぐるみマンにも黙ってのこのことこの地を訪れた訳ではなかった。本日の三上の目的、それは謝罪、である。
 美樹のお墓に向かって合掌。目を瞑り、一心に祈った。どうぞ、お許し下さい。それから躊躇いがちにけれど正直に、三上は告白する。
 今、俺、いやぼくは、あなた以外の女性を好きになろうとしています。御免なさい。どうしてこんなことになってしまうのか、正直自分でも戸惑っています。十年前あれからそうあなたが死んでから、もう誰も好きになどならないとあんなに心に誓い、あなた以外の女を好きになることなど有り得ないとずっと信じて生きて来た俺、いやぼくなのに。そしてついこないだまでは、何とかその約束を果たして来れたと言うのに……。何と言う運命の悪戯でしょう。もうこれ以上どうしても、ぼくはあなたに嘘を吐くことが出来ません。ほんとに本当に御免なさい。どうぞ、こんなぼくを哀れに思い、何卒お許し下さいませませ。神様、仏様、観音様の美樹様……。
 途中から雨。冷たい雨が、美樹のお墓と合掌する三上の体を濡らした。それでも三上は無我夢中、傘を差すことも忘れ、ただ切々と美樹に向かって語り続けた。だから頬を濡らす滴が雨なのか涙なのかすら、区別がつかなかった。やがていささか自己陶酔気味の謝罪を終え、我に返った三上はくしゃみを催し、ヘっくしゅん。うう、さみい。いつもの三上に戻るのだった。
 でもまあ、相手の女が俺を好きと言う訳じゃなし。交際だ結婚だ、そんなこたあ、これっぽっちも考えちゃいねえ。やっぱ俺は今まで通り、人間の屑でいくつもりです。改めて自分に言い聞かせるように、美樹のお墓に向かって誓う三上だった。すると近くに咲いていた彼岸花が雨の滴に濡れながら、三上に向かってそっと笑い掛けた気がした。丸で美樹が観音様の笑顔でにこにこと、三上の謝罪を受け入れてくれたかのように。まじかよ、ありがてえ。感動と雨の冷たさに打ち震えながら、三上は美樹のお墓を後にした。
 彼岸も過ぎ、暑さも引いていった土曜日の午後。三上と着ぐるみマンは、例によって夢の丘公園へ。公園にはコスモス、竜胆(りんどう)が咲いている。ベンチで一服する三上をよそに、着ぐるみマンは草に腰を下ろし、気持ち良さそうに大欠伸を繰り返す。ふわあっ、ふうわあっ……。ぽかぽか陽気に包まれ、いつしかうつらうつら眠りの中へ。
 見上げれば秋の空。まっ青な空のキャンバスに、羊雲が群れなして流れてゆく。あの野郎、ひとりだけあんな気持ち良さそうに寝やがって。三上はハイライトを揉み消すと、ベンチを立ってそろりそろりと着ぐるみマンに接近する。鼻でも摘んでやるかと思ったけれど、相手は着ぐるみ。駄目だこりゃ。三上はただ黙って着ぐるみマンの隣りに腰を下ろす。すると草の葉に留まっていた黒い天道虫が驚いたように、小さな羽根広げ飛び去ってゆく。バイキンマンの羽根みてえだな。ふわあっと三上も大欠伸。俺もねっみい。いつしか午睡に落ちる三上だった。
 風が草を揺らし吹き過ぎてゆく。眠ったふたりは、いつしか背中合わせ。そのまんま日が暮れるまで眠り続けた。空は夕焼けから夜の帳、そして星が瞬き出す。ヘっくしゅん。寒さに震えて目を覚ました三上の肩に、天道虫が留まっていた。さっきのやつか。手で払おうとするのを止め、三上はしばらくそのままにしておいた。着ぐるみマンはまだ眠っている。まったく、てえした野郎だ。呆れながら耳を澄ますと、遠く新宿の街のざわめきが聴こえて来る。相変わらず賑やかな週末のネオンの喧騒が、今夜も聴こえていた。
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