(九)良い人はつらいよ

文字数 4,339文字

 こうして無事人間の屑を演じながら、三上はど根性で横浜屋の夜勤を続けた。原から説教されたことを実は素直に実行し、密かに愛情と感謝を込めてパン作りにも励んでいた。
『ほんと、憎まれっ子世にはばかるとは、あいつのことを言うんだな』
 お陰で工場のみんなからは、そんな陰口を叩かれてばかり。普通なら嫌になってさっさと辞めてしまうところ、むしろ三上は大歓迎。いいぞいいぞと内心ほくそえんでいた。作業と夜勤にも慣れ、これなら長く続けられそうだと自信と余裕を持ちついつい気が緩んだのも束の間、ちょっとした出来事が起こってしまう。
 それは六月、美樹が死んでから早一年が経過した或る日のこと。休憩タイムで三上が工場の男子トイレの個室に入った時、そこにはぶっ厚い札入れの忘れ物が。あっやっべえ、誰のだ、まったく。こんな大事なもん、忘れやがって。呆れながらも三上は念の為手掛かりはないかと、中をチェックした。すると「工場長補佐 原信夫」と記された名刺が数枚入っているではないか。ありゃま、ますますやっべじゃん。どうするよ、俺。これ、原さんのじゃねえか。
 一瞬魔が差して、届けなきゃなんて血迷ったけれど、直ぐに我に返る三上。駄目駄目、人間の屑でいなきゃ、駄目なんだよ。そう自分に言い聞かせ、三上はそのまんま知らん顔して個室を出ちまおうとした。ところがその時、三上の脳裏に美樹の顔がさーっと甦る。あの雨の鶯谷駅の山手線のホームで、自らの命と引き替えに幼女を救った美樹の顔、我らが観音様のご尊顔が。美樹……。
 やっぱ、駄目だ。くっそ、折角人間の屑が板に付いて来たところだっちゅうのに。でも仕方ねえ。ぶつくさ零しながらも三上は迷いを断ち切り、原の札入れを握り締めた。
『原さーーーん』
 三上は工場中を捜し回り、見付けると原目掛けて猛ダッシュ。
『おっさん』
『お、どうした、三上。わたしに何か用かね』
『用もへったくれもねえよ。駄目じゃん、こんな大事なもん、トイレに忘れちゃ』
 原の目の前に、札入れを差し出す三上。
『えっ。あっ、うっかりしてた。確かにこれはわたしのだよ、三上くん』
『けっ、三上くんじゃねっつうの、まったく。しっかりしてくれよ、工場長さん、じゃなくて補佐さんか』
『ああ、ほんとにすまない、すまない。でも有難う、三上くん。きみ、わざわざわたしに届けに来てくれたのかね』
 原は信じられないという顔で、三上をじっと見詰めた。
『あん、まあな』
『まあなって、何だかきみらしくないじゃないか』
『そっか』
『そうだよ、きみ。なんならそのまま放置したって構わんのだし、猫糞したってばれはせんだろ』
『猫糞なんか、しねえよ』
『これは失礼。でも素晴らしい。見直したよ、三上くん』
 感動した原は、三上の手をぎゅっと握り締める。
『何だよ、気持ちわりい。離せよ』
 原の手を払い除ける三上。
『すまんすまん。でも三上くん、本当に有難う。きみってやつは……。実はきみ、本当は良い人なんじゃないか』
 えっ、やべえ。動揺した三上は、激しくかぶりを振り続けた。
『ちげえ、ちげえよ、まったく。人聞きのわりいこと言うなって』
 しかし幾ら必死に否定してみせても、すべては後の祭り。
 この瞬間から、工場内の三上への評価は一変した。
『あいつ、口は悪いし態度もでかいけど、根は良い人らしいよ』
『ああ、やっぱりそうなんだ。何処か無理してる感じあったもんね』
 ありゃりゃ、それまでのお芝居も水の泡。とうとう良い人の烙印を押されてしまう三上だった。それからと言うもの、幾ら頑張って悪ぶってみせても、だーめ。
『あいつシャイだからぶっきら棒だけど、心はやさしいやつなんだよ』
『そうそ。兎に角あいつは良い人なんだから、大目に見て上げよ』
 なーんてことになってしまう。ち、しくじっちまった。幾ら口惜しがっても、後悔先に立たず。あーあ、もうここにゃいられねえなあ。なんてとうとう一週間後三上は、体調不良を理由に横浜屋のバイトを辞してしまった。

 似たようなことは、アパートの隣近所でも起こる。不審者に連れて行かれそうになる女児を助けたり、車道のまん中で立ち往生する老婆をおんぶして横断歩道を渡ったり。弱者、困っている人を見ると、病むに病まれず、止むに止まれず、つい手を差し伸べてしまう良い人の悪癖は、簡単には治らないもの。そんな三上の善行は、近所のおばさん連中の口から口へと伝わり、町内での三上の評判も鰻上り。やっぱり良い人の烙印を押されてしまうのだった。あーあ、駄目だこりゃ。また引っ越すしかねえかあ。がっくりと肩を落とす三上だった。
 女関係の面でも、同じような問題に直面する。人生とは皮肉なもの。良い人だった頃はさっぱり女と縁のなかった三上が、人間の屑になった途端、なぜか急に女にもて出す始末。だけど三上としては未だに美樹のことで、頭いっぱい胸いっぱい。他の女のことなど眼中になし。まったく興味が持てなかった。相変わらずこつこつと美樹の遺影への礼拝、お墓参りを欠かさず、六月十日の命日には一日中お墓の前でひとり静かに時を過ごした。そんな三上を、周囲の女たちはそっとしておいてはくれない。
 先ず花屋の娘。仏壇への花のお供えだって欠かさない三上だから、いつも花屋さんに出入りする。そして可憐な花、綺麗な花を、美樹の為にと気前良く買ってゆく三上。その無愛想な態度とのギャップがまた母性本能をくすぐって、花の好きな人に悪い人はいないと、花屋の娘はぞっこん。
 次にケーキ屋の娘。元々甘いものに目のなかった三上。人間の屑になってもいや人間の屑となった反動、そのストレスから時折り無性に甘いものが食べたくなる。そこでついつい頻繁にケーキ屋さんにも立ち寄り、ショートケーキ、モンブラン、ミルクレープなど買ってゆく。ケーキ屋の娘自身モンブランが大好物なものだから、モンブラン好きの男に冷たい男はいない。あの人はきっと寂しがりやなのよと、これまた夢中。
 他にもスーパーのレジ係の娘、毎日犬の散歩で擦れ違う近所の豪邸の令嬢などが、痩せて翳りのある中年男三上に切なげな眼差しを送って来る。といっても育ちの良い彼女たちが、自ら積極的にアタックして来ることは勿論ない。そこは世の常。どの娘も顔を合わすと甘い微笑みを浮かべながら、じっと三上を見詰め、ただひたすら三上からの誘いを待つのみであった。
 弱ったのは三上。女たちの気持ちは何となく感じる。けれど美樹一筋の自分の方からは何も言えない。かといって知らん振りするのも忍びない。こんな屑の自分になど密かに好意を寄せてくれる心優しき娘さんたちだから、皆さん是非とも幸せになって欲しい。こんな下らない人間の屑の自分などの為に、折角の婚期を逃してしまっては可哀そう。親御さんにも申し訳が立たないではないか。そこで決断した三上の選択、それはやっぱり……お引っ越し。
 好きになられたら、はい、さようなら。と言う訳で、とほほ、金勿体ねえなあと愚痴りつつも、仕方なし引っ越しすることに。でもアパート借りるのに無職では様にならないと、先ずアルバイトの方を先に決めてから。ハローワークにせっせと通い幾つか面接も受け、中にはまだ若いんだから正社員の仕事探したらどうですか、なんて親切に忠告してくれる会社もあって、激しく心揺れ動きながらも結局決めたのは、じゃーん、警備員のバイト。
 警備員。決めた理由は、良く道路や工事現場で見掛ける、いつもひとりでぽつんと突っ立っているあの哀愁漂うお姿。勿論夏の暑さ冬の寒さ、それにトイレの苦労はあるけれど、人付き合いは少なそうなんじゃないのと、ちょっと期待。とっとと研修を受け、直ぐに現場へ出勤開始。基本は日勤で、たまに夜勤もあるらしい。最初は慣れずに失敗ばかり。怒鳴られたり、車に轢かれそうになったりの連続だった。でも慣れて来ると余裕出て来るし、現場も転々とするから長く顔を合わせる仕事仲間もいないと、三上には正に好都合。給料は安いけど、これなら人間の屑で行ける、長続きしそうだと、ほくそ笑む三上だった。
 さてお次は引っ越し。JR赤羽駅そばの希望の丘町から、今度は再び山手線沿線に復活して、JR田端駅そばの1DKアパート。けれど新しい町でもやっぱり困った人を放って置けず、ついつい良い人が顔を出してしまう。例えば、老人の手を引いて道路を横断したり、気の弱そうなサラリーマンを恐喝するガキどもと喧嘩したり。それから花屋、ケーキ屋に顔を出せば、年頃の娘たちに惚れられてしまう。丸でデジャヴュ。再現フィルムが流れるかのように、同じことを繰り返す三上。最初は幾ら悪ぶっていてもそのうち善行がばれれば、近所の評判は上昇、またもや良い人の烙印。
 仕方ないからまた引っ越し。次はJR池袋駅そば。このままだと山手線沿線を一周してしまうんじゃないかと、笑えないジョークで苦笑い。でもやっぱり駄目。懲りもせず中毒のように善行に手を出し、人間の屑からあっさりと良い人に堕落転落してしまう。だからまた引っ越し、とこうなる。
 で、いよいよ辿り着いた最後の砦が、JR新宿駅から徒歩約十五分、東京都新宿区西新宿にある2Kだけど既に築半世紀以上経過したおんぼろアパート『福寿荘』。なぜ最後の砦かと言うと、もうこれ以上引っ越し資金が出せないところまで銀行口座の残高が減ってしまったから。何しろ警備員の安いバイト代では、幾ら切り詰めても切り詰めても毎月赤字。その為少しずつ、貴重な貯金を食い潰してしまったという訳。哀れ、気付いたら唯一心の支えだった寄付行為すら許されない程の、困窮生活へと転落の坂を転げ落ちてしまっていた。これじゃとても生きていけねえと、流石に三上もまじで焦り出す。
 そこでもう二度と引っ越ししなくても済むように、遂に腹を括って一大決心。今までの中途半端と決別し、これからはもう死んだ気で、徹底的に人間の屑になるぞ。絶対良い人になんか戻らないぞ。心を鬼にして固く固く誓えば、後は有言実行の人、三上。花屋さんは近所の老夫婦が営む老舗に出入りし、ケーキはケーキ断ちして、代わりにスーパーの安い和菓子で済ませるようにした。そして街で困っている人に遭遇しても、見て見ぬ振りを決め込んで、さっさと現場からとんずらした。
 こうして三上は、日々質素倹約に努めながら黙々と孤独な暮らしを送った。人間の屑として、近所でもバイト先でも誰とも交流を持たない為、他人とは疎遠。寂しくはあったけれど、生活の中から他人との別れ自体がなくなり、別れの辛さ悲しさを感じずに済むし、自分との別れによって誰かに辛い思いをさせることもない。三上としては正に理想的な生活だったとも言えるのである。
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