(二十)背高泡立草

文字数 5,836文字

 風も冷たくなり、少しずつ冬の足音が近付いて来る十一月。相変わらず三上は、着ぐるみマンと絶交状態。着ぐるみマンがメモ帳を見せようとしても完全しかと。流石の着ぐるみマンもアパートに居辛い気分で、近頃は心なし帰宅時間も遅い。三上の絶交は百合に対しても同様で、スーパーコスモスで買い物しても百合のいるレジは絶対避ける徹底振り。
 だから恒例の夢の丘公園の散歩もなし。ひとり寂しくベンチに坐り、膝の上の野良猫の頭を撫でる着ぐるみマンの姿だけが見られた。公園には木枯らしが吹き、大量の落葉がくるくる回転したり旅人のようにあちこち流離ったりと侘しげな景色を見せ、それから背高泡立草が伸び放題だった。
 ところが或る晩、激しい冷え込みとストレスの為か、とうとう着ぐるみマンが風邪を引いて寝込んでしまう。ざまあ、見やがれ。最初は冷淡だった三上も、隣りの部屋から聴こえて来るゴホンゴホンやら鼻水ずるずるやら、ふーふーと高熱にうなされる様子に、遂に心配になって部屋を訪れ、あっさりと絶交状態は解除。
「大丈夫か」
 メモ帳で問い掛ける三上。
 吃驚かつ喜んだのは着ぐるみマン。容態は悪いながらも健気に答える。
「平気だな」
 その文字は悪寒のせいか、それとも感激の為か震えていた。
 しかし風邪でも着ぐるみのまんまの着ぐるみマンを、三上はやさしい言葉で気遣った。
「服脱いで楽にした方がいいぞ」
 でもやっぱり頑なに、着ぐるみマンでい続ける着ぐるみマンだった。
「なんでそんなに強情なんだよ」
「だっておいらは、着ぐるみマン」
 あほか、こいつ。
「とにかく俺が悪かった。何でもするから遠慮なく頼んでくれ、な」
 三上の謝罪の言葉に、熱でうるうるの目が更にうるうる半泣き状態の着ぐるみマン。
「すまないだな、それじゃ頼みづらいんだけどもだな」
 文字ももじもじの着ぐるみマン。
「だから遠慮すんなって」
「でも怒らないだな」
「怒らねえよ」
「じゃ百合さんを呼んでほしいだな」
 はっ、百合だと。一瞬間を置く三上。でもそりゃ風邪なんぞ引いた日にゃ、枕元で好きな女に看病してもらいてえよな、やっぱし。物分り良く了解すると、三上は着ぐるみマンのメモ帳を持って部屋を飛び出した。
 行く先は公衆電話。極貧の三上の部屋には電話もない。近くの公衆電話ボックスに駆け込み、着ぐるみマンのメモ帳をめくる。メモ帳には、今までのやり取りが残っているらしい。三上とか百合とかとの会話。百合が書いた自宅の電話番号も残っていた。
 これだな、良し。受話器を上げテレカを差し込み、ダイヤルをプッシュ。これで良しと思いきや、はたと三上は気付く。慌てて受話器を下ろす。ガチャン。だってよ、だって駄目じゃん、あいつ。テレカが戻って、ピッピッピーと公衆電話が鳴く。だって、あいつ、百合はさ、メモ帳じゃなきゃ断るじゃん俺との会話、だよな。
 公衆電話の中でひとり笑い出す三上。白い息がボックスの窓ガラスを曇らす。そりゃそうだ。電話ってのは声でしか通じねんだよ、あほか、ったく。あほか俺、笑ってる場合じゃねえっつうの。どうすんだよ。時刻はまだ午後九時前。もしかしてあの尼、遅番かもと思った瞬間、三上は外に飛び出し一気にダッシュ。目指すは勿論スーパーコスモス。ところが悲しいかな年齢と喫煙、それから普段の運動不足が祟って、直ぐに息切れ。はーはーぜーぜー、足はふら付き思うように前に進まない。やべえ、やっぱハイライト止めっかな。
「やめらんないの」
 その時突然、酒場「着ぐるみ」でドキンママこと百合が書いたメモ帳の言葉を思い出す三上。あれ、もしかしてあいつら、まさか俺のことを心配して、あんな下手なお芝居しやがった訳じゃねえだろうな。慌てて着ぐるみマンのメモ帳をめくると、あの夜の三人の会話が今も確かにそこにありありと刻まれていた。
「どうして、体に良くないよ」
「じゃ、もう三上さんも平気なのね」
 やっべえ、兎に角今は急がなきゃ。あいつ、着ぐるみマンがふーふー風邪で寝込んで、百合のこと待ってやがんだから。三上は急ぐ、今にもぶっ倒れそうになりながら青ざめた顔で、鉄砲玉のようにスーパーコスモスへ。店内に入るや、レジをきょろきょろ。おばさん連中に混じって、お、いたいた。我らが天使、百合。
 近付いて来る三上に気付いて、しかもその呼吸は荒く顔色も尋常でないのが手伝って、また睨まれたり怒鳴られたりするんじゃないかと、びくびく緊張する百合。ところが三上は着ぐるみマンのメモ帳を見せる。でも、しまった。ペン持ってくんの、忘れちまった。そこで百合はさっと、自分の胸ポッケのボールペンを三上に差し出した。
「あいつ風邪引いて寝込んでんだ」
 三上の言葉に、吃驚し直ぐに頷く百合。
「あとちょっとで終わるから」
「わかった、待ってる」
 ここら辺のやり取りも、いちいちメモ帳で取るふたり。三上は百合を待って、しばしコスモスの中をうろついた。そうだ、どうせならついでになんか買っとくか。ええと何にすっかなと物色しているうちに、三上はふと過ぎ去りし日々を思い出す。風の丘公園で渡辺を懸命に看病したあの頃である。そういや、あの頃俺も若かったて言うか尻が青かったなあ。みっともなくて、今じゃ思い出すのも小っ恥ずかしい。
 そんな思い出に浸りつつ、果実売り場の前に差し掛かった三上。つるつると光るまっ赤な林檎が目に入った。林檎、林檎かあ……。そういやあいつ、確か前に林檎の話してなかったっけ。何だったっけか、思い出せ俺。
 そうだ。風邪引いた時、林檎ジュースを飲むとか何とか言ってやがったな、あいつ。よし。という訳で、ぽんぽんぽんと買い物籠に林檎を投げ込む三上。
 そこへ着替えを済ませた百合が合流。籠の中の林檎を見るや、自分のメモ帳にさささっと書いて三上に見せる。
「風邪だから、食べられないかもよ」
 しかし三上は唇を尖がらせ、百合のメモ帳に殴り書き。
「ジュースにすんだよ」
 ああ、と納得。でも透かさず百合。
「でもミキサーはあるの」
 流石は百合、冷静な疑問である。
「あっ、そんな高級品なんざねえよ」
 悔しいけれど、三上はあっさり白旗。そういやそうか。どんだけあほよ、俺……。でも市販の林檎ジュースなんてのは味気ねえしな。仕方なく目に付いた蜜柑一袋を、三上は籠に投げ入れた。
「じゃ大根おろし器は」
 おいおい、まだ林檎ジュースに拘ってんのかよ、あんた。三上はぶっきら棒に書く。
「ねえよ」
 ある訳ねえだろ、チョンガーの部屋に。ったく、そんなもん何に使うってんだよ。けれど百合は調理具コーナーで大根おろし器を見付け、籠に入れる。ありゃりゃ、しょうがねえなあ。
 続いてお米。ああ、炊飯器ならあるある、古いけどまだ捨ててないのが。頷く三上に、じゃ、決まり。にっこりと微笑み返す百合。
 でもふたりで買い物なんて、なんか夫婦見てえだな。レジのばばあども、見てなきゃいいけど。三上は終始落ち着かない。そこでわざわざ百合を外で待たせ、自分ひとりでレジの支払いを済ませた。外へ出るとふたり仲良く肩並べ、さあ、いざ福寿荘へ。
 既に夜風冷たい新宿の街。見上げれば夜空の星、街の灯り、新宿摩天楼のライトも見える。さっきからふたり黙って歩いているから、アスファルトの路地にカタカタと当たる百合のハイヒールの音だけが、やけに耳に響く。と言っても会話となったら結局呑気にメモ帳だから、着ぐるみマンの許へとひたすら急ぐ今のふたりには不要である。
 気が早いもので、商店も住宅街も街はもうクリスマスの装い。サンタクロースやらツリーやらスノーマンやら飾られている。ねえ、あれ、かわいいね。あんなの欲しい。なあんて甘えたように百合が無言でオブジェを指差せど、何勘違いしてやんだよ、恋人同士じゃねんだぞ、俺ら。照れ臭がりながら、三上はしかと。そんな三上はさっきから、ハイライトが吸いたくて仕方がない。けれどポケットのハイライトに指が触れる度、そうだった。さっき俺、止めようって思ったんだと、ぐっと堪える。
 気付いたら福寿荘はもう目と鼻の先。今更だけどいざ女に見せるとなると、いやほんと我ながらぼろっちいアパートだなあ、まったく。ほら、あそこ。恥ずかしそうに、三上は百合に指差した。
「きたねえとこで、すまねえな」
 百合のメモ帳に書けば、にこっと笑って頷く百合。
「うちも似たようなものよ」
 三上の部屋の前に辿り着き、ドアを開け百合を通す。ふたりして着ぐるみマンの部屋へ直行。
 着ぐるみマンは寝込んだままだった。それでもふたりに気付いて、顔を上げ弱々しく手を振った。三上は着ぐるみマンにメモ帳を返し、百合は早速狭苦しい台所へ。直ぐに後を追って三上も台所へ入り、先ずは炊飯器。もうずっと使ってなかったからなあ。心配したけど、何とか無事お粥が炊けた。
 それから林檎。百合は林檎の皮を剥き、大根おろし器でどろどろの林檎生ジュースをこしらえた。保存の為台所のありったけの容器、コップは勿論丼やら茶碗やらに移して出来上がり。これで着ぐるみマンがいつ飲みたくなっても、スタンバイOK。
 ふたりは再び着ぐるみマンの部屋へ戻る。まず百合がやさしくお粥を食べさせる。ふうふうしながら、スプーンでひと匙ずつゆっくりゆっくりと。この時三上は着ぐるみマンの素顔を見ないように、一旦自分の部屋に戻って待機。けれどふたりの協力も空しく、着ぐるみマンは食べたお粥を戻してしまう。
 すまないだな、もう寝るだな。申し訳なさそうに布団を被る着ぐるみマン。今度は三上が、腹減ったら食えよと枕元に蜜柑を置き、それから置手紙ならぬ置きメモ。
「台所にりんごジュースあっから」
 こうしてふたりは、着ぐるみマンの部屋からそっと立ち去った。

 じゃ、もう遅いから帰んないと。俺、送ってくから。目で促す三上に、そうね。百合も頷き、ふたりは福寿荘を出る。
「電車、バス、タクシー」
 どうやって帰んのとメモ帳で問う三上に、百合は自分の住所を書いて教える。
 ああ、何だ。割りと近いんじゃん。愛想良く頷く三上。百合のアパートは中野にあり、歩いても二十分位で辿り着けなくもない場所だった。ふたりはメモ帳でやり取り。
「どうする、駅まで戻る」
 ううん。かぶりを振る百合。
「もう電車、終わってるから」
 そっか、すまねえな。じゃ、そうだ。
「家まで送るよ」
 女のひとり歩きは危ねえから。
 わあ、ほんと。三上さん、やっさしい。
「有難う」
 よせやい、照れんじゃねえかよ。頭掻き掻き、三上は苦笑い。てな訳で、ふたりはまた肩並べ夜の東京、大都会の街を歩いた。
 福寿荘での百合の献身的な着ぐるみマンへの世話を思い返し、やっぱしこの女、あいつに惚れてんのかなあ。なーんてついついジェラシーに心駆り立てられてしまう三上。でもいつまでも、こんな中途半端な気持ちじゃいけねえ……。
 そうだ。もしかして今夜、今この瞬間が、最大のチャーンスかも。忽然と思い立った三上の心臓は、どきどき、どきどき高鳴り出す。今どうしてもここで、百合の気持ちを確かめたい。最早そうせずにはいられない三上だった。
 そんな気も知らず、立ち止まり振り返る百合。三上も足を止めた。
「もうここらへんでいいから」
 えっ、まじ。メモ帳の百合の言葉に三上は焦る。
「ちょっと、まった」
「どうしたの」
 問う百合のメモ帳に、三上は腹を括って、えい、もうどうにでもなれ。清水の舞台から墜落する勢いで遂に書き殴った。
「あんた、あいつのこと好きなんだろ」
 文字特に、好き、が異常に震えていた。しかしもう消すことは出来ない。その文字を何度も何度も、読み返す百合。
 どきどき、どきどき……。やっぱ聞くんじゃなかった、と言うか書くんじゃなかった。けれど今更後悔しても後の祭りと俯く三上。
 ところが、ところがである。何と百合は、無言で、ううん、とかぶりを振った。
 ええっ、まじかよ。あいつのこと、好きじゃねえって。本当かよ。
 じっと百合を見詰め返す三上。百合の顔は紅潮し今にも泣き出しそうで、その唇は微かに震えていた。そのまましばし見詰め合うふたり。どきどき、どきどき……。でも喜んでいいのか、悲しむべきか。だって着ぐるみマン、あいつはどうなんの。
 じゃ。と手を振り、歩き出す百合。突っ立ったまんま、黙って手を振り返す三上。そのまま百合はさっと駆け足で三上の前からいなくなったから、三上は百合の頬に零れ落ちた涙の雫に気付くことはなかった。落葉の舗道にカタカタカタと響く百合のハイヒールの音が、やがて遠ざかり消えてゆく。ため息吐いて、しばらく路上にぼけっと突っ立っていた三上も、夜風の冷たさにうう、さみいと肩震わせながら福寿荘への帰路に就いた。
 帰ってみると、着ぐるみマンは眠っていてすやすやと寝息を立てていた。三上は安心し自分も床に就く。けれど興奮で、なかなか寝付けない。それでも何とか夜明け前眠りに就こうとした矢先、がさごそと言う物音に起こされた、音は台所から。
 忍び足で覗いてみると、そこには着ぐるみマン。おおっ。百合がこしらえた林檎ジュースを、着ぐるみの恰好のまんまストローでちゅーちゅー飲んでいやがるじゃねえか、おい。やったね、百合大先生。
 着ぐるみマンは、三上に気付いて手招き。いけるだな、この林檎ジュース。ふたりで一杯やるだな。一杯やるって、おめえ、酒じゃねえんだから。三上は頷くと寝巻きの上にコートを羽織り、台所へ。
 ふたり肩並べ、台所で林檎ジュース。満足げにけれど少し感傷的に、着ぐるみマンはメモ帳に向かう。
「りんごジュースを飲むと、夢の国のにおいを思い出しませんかだな」
 夢の国のにおいか。
「ほら海の音もきこえるだな」
 何言ってんだと言うか書いてんだよ。ありゃ、人の足音じゃねえか。大都会はこんな夜明け前からみんな早起きして、せっせせっせと詰まんねえ仕事に出掛けてゆくんだよ。でもそんな野暮なことは言わずと言うか書かずに三上は黙って目を瞑り、東京の喧騒に耳を傾けた。
 ああ、そういや何だか確かに、海の音に聴こえなくもねえか。海、海ねえ。その時三上は百合のことを思っていた。へっくしゅん。やっべえ、俺も風邪引いちまったかな。心配顔の着ぐるみマンに、苦笑いの三上。
 もう冬間近。夜明けは肌寒く、福寿荘の部屋には隙間風がぴゅーぴゅー、ぴゅーぴゅー吹き込んで来る。さあもう一眠りしようやと、それぞれの部屋に戻るふたりだった。
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