第1話

文字数 3,588文字

 一

 腹に響くような汽笛が響いた。出航の時と同じはずだが、すでに感傷を誘うものはなかった。哲也は急速に現実に引き戻された。いつの間にか、連絡船は、新たな土地に着こうとしている。
 エンジン音が低くこもり、船が減速し始めた。思い出のすべてに幕を下ろすように、船内に軽やかな音楽が流れている。
 長い記憶の旅から、哲也は目が覚めた。
 今は霞のように見える北海道で、十七年を過ごしたことは間違いない。オホーツクの紋別で育ったこと、札幌での高校時代、そして忌まわしい父の事件のこと、今ではそのどれもが、人生の小さな一こまに思える。
 乗船した時に重く圧し掛かっていた肩の荷も、海峡の波に洗われ、今はきれいに消え去っていた。
 ふと周りを見ると、皆、何かを吹っ切るように、降船口に向っている。誰もが、思い出に浸っている場合ではないという、真剣な表情で。
 そうだ、皆何かの目的あるから、この連絡線に乗ったのだ。自分も新たな人生に挑戦しよう。哲也はそう誓い、初めての大地に、一歩踏み出した。
 学校が紹介してくれた鍛造工場は埼玉県川口市郊外の新郷工業団地にあった。
「川口部品工業」は、自動車メーカー・T社傘下の古くからある自動車部品製造工場で、鍛造と熱処理加工を主力としていた。
 光りが床まで届くことのない高い天井照明、工場末端が霞むような油煙の臭い、三千トン鍛造プレスの足元を揺るがすような衝撃音の中で哲也は、年配の熟練工が作り出した部品のバリ取りと研磨作業に明け暮れた。
 哲也が担当していた工程は、パーキングブレーキの部品だった。重要な車両部品はほとんどが鍛造で作られる。鍛造とは、刀鍛冶という言葉があるとおり、鉄を叩いて鍛え上げる製法だ。
 サイドブレーキとも呼ばれるパーキングブレーキは通常レバーを左手で引き上げることにより車輪にブレーキがかかる。レバーは引き上げると、カチカチとかすかな音と共に引き上げた位置で固定されるが、これはカムと呼ばれる機構で、ギヤがロックされるからだ。万一このギヤが破損した場合、車は大事故を発生する恐れがある。運転手は最後まで見ることはないが、自動車製造業界では高度な技術を要するAクラスの部品となる。
 重要なギヤ部品は鍛造で作られる。ホージングとも呼ばれる鍛造機械は自動車部品だけではなく、身近なものでは腕時計のケースがある。
 ステンレスも鍛造により鍛え上げると金属内部の密度が高くなり、研磨を加えることにより傷がつきにくく、独特の輝きが出てくる。スイス製の自動巻き腕時計などは、この技術の産物である。
 哲也は鍛造工程から流れてくるギヤ部品を、研磨機械と手作業で毎日毎日磨き続けた。完成したギヤ部品は三次元検査機にかけられた上、最終の高周波焼入れ工程に送られる。
 日本刀は、今でも刀鍛冶の経験と勘により焼入れを行なうが、産業界では全自動焼入れ装置が出回り始めていた。強度の信頼性を得た部品のみが、初めて出荷される。
 この部品が車両の安全を守り、社会のためになっていると思うと、騒音と鉄一色の世界も、最初の一年は苦にはならなかった。
 現場の第一線は高卒社員と約三割の派遣社員が占め、検査、設計、購買など工場の中枢にいる社員は皆大卒だった。
 ものも言わず、ただひたすら鉄を磨き上げる熟練工を決して軽視するわけではないが、将来の到達点であろうその実直な姿は、哲也の若い情熱を徐々に削いでいった。
 大卒の壁は、思った以上に大きかった。吉井や久美子の顔を、苦々しく思い出した。
 それでも二年は歯を食いしばった。だがあまりにも、描いていたものと現実は違った。
 一瞬、「三年はやってみろ」という先生の言葉が脳裏を過ぎった。だが哲也は、それを振り払い、上司に辞表を差し出した。
 哲也はその作業や人間関係に嫌気がさしたのではなかった。父の鉄工所は、いかに小さな部品であろうと、材料の仕入れから始まり、加工、検査、出荷に至るまで、すべての工程を把握する人間が存在した。
 巨大な工場で、歯車と言う名の消耗品になってしまうことが、恐ろしかったのだ。    

 哲也は、西川口駅東口から徒歩十五分ほどの所に月二万二千円の粗末なアパートを見つけ、社員寮を引き上げた。後悔はないが、胸にぽっかりと穴が開いていた。
 周りは最近建ち始めたというマンションや商業ビルに遮られ、光りは差してこない。築四十七年という隙間だらけの木造二階建ての建物は、窓を閉めてもドブの臭いが鼻についた。バッグ二つの荷物を黒ずんだ畳の上に置き、かび臭い壁に背を預けた。
 哲也は生まれて初めて、誰ともつながることのない、孤独の恐ろしさを思い知った。父が北洋漁船に乗せられそうになった時の恐怖を、少しは分ったような気がした。
 成人になった哲也を祝福してくれる者はだれもいない。哲也は、せめて一人で祝おうと、初めてカップ酒を煽った。
 だが、飲めば飲むほどアルコールの酔いは逆に脳を覚醒させ、大学に行かなかったこと、それを嘲笑うように自分をふった久美子のこと、夜の女に狂って無様に死なざるを得なかった父のこと、母のこと、妹のこと、様々なことが脳裏をぐるぐると回った。
 これから俺はどうすればいいんだ……。
 どこからも希望の光りが見えなくなろうとした時だった。
 突然、近野由美の姿が現れた。中学三年の時、哲也を世間知らずと笑い、自分の本当の姿を教えてくれ、最後には哲也が想像もできない世界に消えて行った転校生。あの逆光の闇の中から、由美が笑いかけてくる。
「こんなことぐらいでへこたれちゃ、私に追いつくことはできないわよ」と。
 哲也は確信した。あの時、あの逆光の中で、由美は微笑んでいたのだ。そして今も、板前になる夢を持ち続け、笑顔を忘れずに行き抜いていると。
 急に気持ちが軽くなった。自分の顔に、穏やかな笑みが戻ってくるのがわかった。いつしか、溶けていくような眠りについた。       
 翌日、哲也は川口駅前のハローワークに行った。入り口が溢れるほどに求職者が殺到している光景に、哲也は目を見張った。
 工業高校機械科卒で選べる仕事は皆無に近かった。川口部品工業は学校の紹介があったからこそ入れたのだ。三年は辛抱しろと言っていた担任の先生の顔が苦く思い出された。
 自ら辞めた仕事は失業保険も不利だった。今さら頼る人は誰もいない。月給九万円で二年間の稼ぎでは貯えもわずかだ。幸い社員寮に入れた分、半年ほどのアパート代が残った。だがそれも、まともに三食を取っていればすぐに底をつくだろう。
 哲也は毎日のようにハローワークに通った。最低限生きていくためには、もう職種を選ぶような余裕はなかった。          
 アパートから西川口駅に向う途中の歓楽街を歩いていると、意外と従業員急募の看板が目につくようになった。これまでは見過ごしていた世界だ。
 飲食店街の路地に一歩足を踏み入れてみると、「ウエイトレス募集」や「ホール係り急募」などの看板が並び、その中に「料理人見習い募集」の看板がまれにかかっていた。
 料理人というと、家族がまだ仲良くやっていたころの、母の手料理を思い出す。正月のおせち料理の時など、テーブルに盛り付けられるご馳走の裏で、台所に一歩入ると調理場はまるで戦争のようだった。料理人は技術者とはまるで違う世界に見えるが、実は根は同じなのではないだろうか。巨大な工場で敗北を味わった哲也が、挑戦の意欲を燃やしたのは料理人の道だった。
 職種を選べる立場ではないが、ものづくり職人の世界とどこか似ている感じがした。
 哲也は怪しげな店やラブホテルが連なる西川口をあきらめ、川口市に足を伸ばした。
 料理人見習いの募集を探すため、来る日も来る日も、市内の飲食街を探し回った。だが、手ごたえのある仕事は見つからなかった。
 稀に「板前急募」の張り紙が風に揺れていた。哲也はふと、近野由美は板前になって、父の形見の包丁を振るっているだろうかと、懐かしく思い出した。
 夜になると賑やかに活気付く飲食店街も、日中はひっそりと静まり返り、吹き込む風に追い立てられる紙くずが、湿った路上で乾いた音を立てていた。
 今日もだめか……。哲也は疲れきった身体を引きずるように川口駅に向かった。
 電車に乗る前にふと思い立ち、構内の売店でスポーツ新聞を買った。電車の中で新聞の職業募集欄を食い入るように見つめる。突然、小さな記事に目が釘付けになった。
「急募・中華料理人見習い・龍華楼川口店」
 すべてが限界に達しようとした時、この記事は哲也にとって、神の助けとも思えた。
 哲也はこの時、「中華料理」に挑戦しようという意志が固まった。何の根拠もないが、最後のチャンスにかけてみようと思った。

 西川口で電車を降りるとすぐに、哲也は駅前の電話で連絡先電話番号を押した。
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