第5話

文字数 3,733文字



 一時は持ちこたえたように見えたが、悪いことは重なるものだ。
「最近、きさげの仕事がないようだけど、どうしたのさ」
 きさげ室にこもらなくなった父に、母は詰め寄った。
「ああ、あの商社、倒産したようなんだ。電話も切られている」
 父の顔には、すでに絶望を通り越し、表情そのものがなかった。
「え、こんな時になんで? あんたどうするのさ、あの仕事がなくなればお手上げだよ」
「な、なんとかする」
「何とかするって、どうするんだよ。借金は膨らむばっかりだべさ」
 母に詰め寄られる父の姿が、牙を失った老狼のように映り、ただ情けなく、可哀想だった。それ以上に、いよいよ我が家が断崖絶壁に立たされたことを、哲也はひしと感じた。
 見るからに別な世界の男が工場の周りにうろつくようになったのは、それから間もなくのことだった。

 哲也が学校から帰ってくると、灯りが漏れるシャッターの前に、見慣れない大きなセダンが停まっていた。恐る恐る不気味に光る漆黒の車に近づいた。ハンドルが左側につい車内には、誰もいなかった。
「こらぁ、いいかげんにせんかい! あんたの指二、三本落したところで、労災保険がなけりゃ一銭にもならん。もうそろそろ腹くくったらどうや」
 突然、シャッターの中から男の怒声が響いてきた。
 別な男の薄ら笑いに交じり、父の押し殺したような呻き声が漏れてきた。父がリンチにかけられている凄惨な光景が、シャッターの向こうにありありと見える。
 あの時、倉田に挑んだ吉井の顔が浮かんだ。あの死闘が、今、自分の身に降りかかってきたのだと思った。哲也は覚悟を決め、カバンを地面に置いた。その時だった。
「哲也!」という母の押し殺した声が聞こえてきた。一瞬、棟続きの母屋の玄関を振り返ると、母が悲壮な顔で手招きしている。哲也は、母の必死の形相に、カバンを拾い、その場を離れた。
 玄関に行くと、もの凄い力で中に引き込まれた。
「お前が立ち向かえる相手でねぇ。早く家さ入れ! 智子と一緒に押入れに隠れてろ。なんぼでも若いもんをさらっていく魂胆だべさ」
 哲也は、玄関から顔だけを出し足を震わせながら工場の様子を窺っている母に訊いた。
「親父、かなり痛めつけられているようだぜ。なぜ警察に通報しないんだ」
 哲也は、もう家族だけでは太刀打ちできない状況に陥っていることを悟った。
「警察が何の役に立つんだか。我が家の恥をすべてさらけ出し、明日から新聞記者が押し寄せて、マスコミの餌食にされるだけだべさ」
 その時、シャッターがコンクリートを叩く音が響き、男たちの靴音が聞こえてきた。母が覚悟を決めたように飛び出していった。母が、何やら聞き取れない言葉を彼らにぶつけている。哲也も夢中で飛び出した。そこには、これまで見たことのない異様な風貌を黒いスーツで包んだ二人の男が立っていた。これが噂の、闇の世界の男たちなのか――。
 わめき散らそうと全身に力を込めるが、声にもならない。圧倒的な暴力の恐怖を前に、哲也は、闘う前から敗北を舐めた。
「奥さんよ、あんたも気の毒だな、亭主が若い女に狂っちまってよ。毎日こんな真っ黒な鉄クズの中にいたんじゃ無理もないか。借金は旦那が体で払うってことで話しはついた」
 哲也より上背があり、年嵩に見えるほうの男が、声だけは憐れみの色を滲ませ母に言った。
「か、体で払うってどういうことだよ!」
 思わず哲也が声を震わせた。
 男がちらりと哲也を見た。サングラスの奥で、目が少し笑ったように見えた。
「おお、兄ちゃんいい度胸だ。お父さんには一年ほど北洋の海で異国の漁船に乗ってもらう。ダム工事のタコ部屋よりはまだましだ。前金で借金は帳消しになる」
 男はゆっくり母に視線を移し、続けた。
「来週の月明日、朝七時に黒のワゴン車が来る。必ずそれに乗せるんだ。言っておくが、警察はあんたらの見方にはなってくれない。もし垂れ込めば、北洋船の話しはなくなり借金は消えない。親父の代わりに娘が泣くことになる」
 男のサングラスの奥の目が、蛇の目玉のように鈍く光った。
 母は声も出せず、全身を爪のようにして、わなわな震えている。
 髪を短く刈り込んだ横幅のある男が、周囲に目を走らせながら、サングラスの男を助手席に促した。この路地には場違いな車が、重厚なエンジン音を響かせ消えていった。
 哲也は踵を返すと、工場に駆け寄りシャッターを少し開けた。母が潜り抜けるように工場の中に入っていった。哲也も後に続いた。
 薄暗い照明に浮かび上がった光景に哲也は凍りついた。母も呆然と立ち尽くしている。
 工場の真ん中で、椅子に縛りつけられた父の首がくの字に曲がっている。その時後ろで、シャッターが揺れる音がした。
 母が振り向くと、悲痛な声を上げた。
「智子、入っちゃだめだ! 家に入ってろ」
 智子が暗い目をして出ていった。
「母さん、救急車を呼んだほうがいいんじゃないか」
 哲也は、父の背中をさすりながら言った。
「救急車は呼ぶな――大丈夫だ――」
 父がやっと、紫色に腫れ上がった口を開いた。十歳も老け込んだような、しゃがれた声だった。
 母はもう怒鳴る気力も失せ、ただおろおろとロープをほどき始めた。
 辺りにタバコの吸殻が散乱し、父のグレーの作業ズボンの両太腿にいくつもの無惨な焦げ痕が残っていた。濡れて黒ずんだ股間からは微かなアンモニア臭が漂い、肉が焦げる臭いと重なっていた。
 哲也は、あの威厳に満ちていた父がなぜこれほどにと、ボロ雑巾のようになった父をただ呆然と見つめた。
 哲也は父の哀しい体を背負い、家の中に運んだ。居間にいた智子が父の無惨な姿を見て泣き出した。母が智子の顔を手で覆い、奥の部屋に連れて行った。
 哲也は居間に布団を敷き、そこに父を横たえた。父は体のあちこちが痛むのか、寝返りも打てない状態だった。
「哲也、バケツにお湯を用意してくれないか」
 母が涙声で言った。
 哲也は、ガスレンジでお湯を沸かした。それをバケツに移し、風呂の手ぬぐいと一緒に居間に運ぶと、母が父の下着を脱がせているところだった。汚物のにおいが鼻をついてきた。
「哲也、あとはいいから、おまえはあっちに行ってろ」
 そう言うと母は、涙をボロボロと滴らせながら、父の股間を拭い始めた。
 ちらりと振り返えると、父の白く浮いたあばら骨が哲也の目を射抜いてきた。哀しさと悔しさが込み上げてきたが、それは涙にはならなかった。
「寝室からお父さんのパジャマを持ってきてくれないか。母さんはここで父さんと一緒に休む。おまえも明日学校があるから、早く休みな」
 哲也の背中に、少しは落ち着いた母の声が届いてきた。
 その日は、父が承諾したという北洋漁船の話しは誰も口にはしなかった。想像を絶する苛酷な義務を、誰しも現実として受け入れる状況にはなかったに違いない。
 翌日の朝、哲也が学校へ行く仕度をしていると、母が口を開いた。
「哲也、悪いけど今日、学校を休むわけにはいかんかね」
 母は徹夜で帳簿整理をしていたらしく、青ざめた顔の中からげっそりと窪んだ目を向けてきた。
「お父さんの北洋行きを考えると、心配で一睡もできなかった。でもここまできてしまったら、家族皆が死ぬか生きるかだ。母さんは、今日中に仕入先の支払いをすべて終わらさねばならん。夕方まで家を空けるが、お父さんが心配だ。この上首でも吊られちゃ大変なことになる」
「やめろよ、縁起でもないことを!」
 哲也は急に情けなくなり、声を荒らげた。
 だが、自分だけがのんびり学校に行ける状況でないことは確かだった。だいたい父があの体で、氷の海で網など引けるのだろうか。幸い借金地獄を抜け出し、無事に帰ってきたとしても、その後父が工場に復帰できるかどうかは怪しいものだ。
 母はすでにあきらめ、会社をたたむつもりなのかもしれない。そこまで考えると、これから先家族は本当に飯を食っていけるのかどうかも疑わしく思えてきた。
 哲也の予想はあっけなく肯定された。
「哲也、もう一つ話しておかねばなんねぇことがある。昨晩、帳簿を全部チェックしたら、仕入先には何とか支払いはできそうだ。けども、それで家のお金はぜんぶなくなる。お父さんがいなくなれば、工場を動かすのは無理だ。母さん、道路工事に出てもおまえたちを学校に行かせるつもりだけど、大変な暮らしになることは覚悟せねばなんねぇ」

 その日遅くに帰ってきた母は、これで世間に後ろ指されることはなぁーんにもねぇ、といって玄関の上がりかまちに倒れこんだ。
 智子と二人で母を担ぎ上げ居間に寝かせた。酒のにおいが微かに漂った。
 母が手探りで、手提げバッグから紙袋を取り出した。
「哲也、これお父さんに……」
 つぶれかけた袋にはクリームパンが一つ入っていた。
 母はそのまま鼾をかき始めた。哲也が初めて見る、母の一人酒だった。
 母のやつれた顔にわずかな安堵の色を見て、哲也は独りでに、涙が溢れてきた。母の目尻にも一筋の涙が光っている。二度と帰れるかどうかもわからない、父の北洋行きを覚悟した涙に違いなかった。

 その夜哲也は、流氷の荒波を行く北洋船が目の前に迫ってくる夢にうなされ、うつらうつらしているうちに窓のカーテンの隙間が白み始めた。
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