第3話

文字数 5,614文字

 三

 哲也は再び、川口駅前のハローワークを訪れた。長い順番を待ち、求職相談の窓口で技術職正社員の道を希望した。
 相談員がパソコンから目を離し、哲也をのぞき込んだ。
「製造工場の求人はありますが、今は派遣会社がほとんどです。正社員の募集は建設業とか警備員になりますね」
 相談員が、数枚の派遣会社案内を狭いカウンターに差し出した。給与月額は比較的高く、派遣先は名の知れた会社ばかりだった。正社員にこだわらなければ、働く場所はあるようだ。哲也は派遣社員の道を選んだ。
 登録手続きを済ますとすぐに、川口市元郷で機械工場経験者を求めている企業に、派遣の手続きが行なわれた。
 昭和初期までは鋳物生産が盛んだったと言われるこの地域は、今は東京のベッドタウンとして開発が進み、クリーンなイメージに塗り替えられつつある。
 中でも、哲也が勤務する「ミライ工業」は近代的な外観を誇り、プラスチックの成型加工では日本でも有数のメーカーだった。
 哲也はこの会社で三ヶ月ごとの更新を繰り返しながら、三年目を迎えていた。
 二年以上続いているのは哲也だけで、今は海外向け医療機器製品の成型機運転を任されていた。熟練を要する、会社の戦略製品として特殊な分野だった。
 つい先日、札幌の叔父さんから電話があり、実家の状況を教えてくれた。鉄工所は取り壊され、その後に公園ができたこと、母は今でも元気に弁当作りに勤しんでいること、妹は函館の商業高校を卒業し関西方面に就職したことなどを聞いた。
 叔父さんは最後に、落ち着いたら札幌で家族皆が顔を合わせる機会を作りたいがどうだと言ってくれた。哲也は、ありがとうございますとだけ答えた。おそらく、これからも皆が一緒に逢うことはないだろう。自分の家族には、再び逢ったところで花を咲かせる昔話などはないのだから。むしろ逢わないほうがいい。それぞれが、楽しかった思い出だけを温めていかれるように。ただ、妹が元気にやってくれていることだけを祈った。
 家庭用雑貨から自動車部品にいたるまでプラスチック製品は、樹脂溶融機構と溶けた樹脂を製品に成型する金型を搭載する射出成型機により生産される。大は十トンを超える鉄の塊である金型は、天井走行クレーンにより移動と組み込みが行なわれる。
 体育館のような広い製造現場は、作業者が小さく見える射出成型機がずらりと並び、それにエネルギーを供給するケーブルや配管類がまるで樹根のように床を這っている。
 作業者は安全眼鏡とヘルメットが義務付けられ、頭上を成型品取出ロボットのアクチュエータが規則的に往復する。取り扱う製品が鉄からプラスチックに変わり寂しい思いもあったが、鉄工所よりもはるかに大型の機械が稼動する様子は凄まじく、哲也の好きな世界だった。
 正社員の道は絶たれたが、一定の報酬と食堂や図書室などの近代的な施設を共用できることに、これ以上を望むのは身の程を忘れることだと、哲也は言い聞かせるのだった。
 今日は派遣社員対象の定期安全教育が行なわれる日だった。哲也が研修室に駆け込んだ時はすでに、プロジェクターからスクリーンに、見慣れた成型機現場が映し出されていた。
 パソコンとスクリーンを交互に睨んでいた白髪が目立つ総務課長の佐伯が、哲也をちらりと見ると、小さな笑みを作りすぐわきの空いた席に手招きした。
 哲也は食堂や廊下ですれ違う佐伯に悪い印象は持っていなかったが、わきに座るのは鬱陶しい気がした。だが、空席はそこだけだった。
 映像が切り替わった時、他の二十人ほどの出席者から驚きの声が上がった。胸に届きそうな大きな金型が無造作に放置され、コンクリート床にその角がめり込んだと思われる三角形の穴がゾッとするようなエッジをのぞかせていた。
 哲也はその穴のすぐわきを見てさらに目が点になった。鉈で叩き切ったようなケーブルの断面と並び、白くマーキングされているのは人の足の形だった。背筋に薄ら寒いものが走った。
 参加者のざわめきが治まるのを待って、佐伯が口を開いた。
「これは先月、当社で起きた事故の写真です。重量九トンの金型がクレーン作業者の足のすぐわきに落下しました。もう一センチずれていればあのケーブルと同じ運命です。おそらく会社始まって以来の事故です。ではなぜこんなことが起きたのか。皆さんも知っているとおり、金型の玉がけは必ずチェーンスリングのフックをアイボルトにかけるきまりですが、作業者はつい安易にベルトスリング二本による半掛けをしてしまいました」
 佐伯はここでクレーン作業の基本を映し出した。
「見て分るように半掛け吊りは、ズレ止めが甘いと両端のベルトが中心にずれてきて、仕舞に重量物が傾き落下するのです。幸いというか作業者は正社員で、配置交代だけで済みました。皆さんはこれからも様々な会社に行く機会が多い。でもこの会社で怪我をしちゃうと、自由に羽ばたく事ができなくなる。事故は意外と心がウキウキした時に起きます。十分注意するように。特に眼は気をつけてください。致命傷となります」
 哲也は、もしこれが派遣社員の事故であれば間違いなく契約は打ち切られるだろうと、安全が持つ二つの重大性を噛み締めた。
 佐伯の安全教育はこれで五回ほど受けているが、彼はいつも派遣社員サイドに立った話をした。皆は、「どうせ派遣社員受けを狙っているだけさ。あいつに俺たちの苦労が分るはずねぇーじゃんか」と嘲笑っているが、哲也はそれだけでもないような気がした。
 バブル経済はこの会社にも影響しているらしく、ずらりと並ぶ成型機が唸りを上げていた。だが、製造工場の宿命で、受注高は大きく変動する。この会社には派遣会社が四つほど入っており、三百人の従業員のうち約半数は派遣社員だ。会社は生産の荒波を派遣社員で吸収することになる。
 顔見知りの派遣社員がいつの間にか消え、また新しい派遣社員が入ってくる。幸い哲也の担当する製品は安定した生産を維持し、これまでの派遣切りでも生き残ってきた。
 深夜の三交代目が終わり、早朝の食堂に向っていた時だった。製造現場の係長が近寄ってきた。
「柿崎君、ご苦労さま。一息ついてからでいいから、第七会議室まできてくれないか。場所、わかるね」
 哲也はいやな予感がした。この会社の会議室は幹部会議が開かれる広い第一会議室から第二、第三と続き、七つの会議室があった。いずれも哲也には無縁の場所だが、行き止まりの第七会議室はなぜか派遣社員の間で忌み嫌われていた。
 だが係長のいつにない穏やかな顔を思い出し、まさかと思い缶コーヒーを飲み終えると、第七会議室に向った。
 哲也はドアを開けて目を見張った。部屋の隅で、哲也が所属する派遣会社の職員が神妙な顔でパイプ椅子にかけ、係長のわきに佐伯課長がかけていた。
 係長の、さあどうぞという手招きで、テーブルを挟んで二人の前にかけた。係長が、佐伯の横顔に慇懃な視線を送った。
 佐伯が、本来ならば私から言うべきことではないのですがと、前置きをしてから切り出した。なぜか、係長がわずかに眉根を寄せたように見えた。
「柿崎君、急な話だが、君の担当している成型ライン、全面的に停止することになった。あの分野は世界でも競争が激しく、マレーシアの成型会社に取られてしまったんだ。営業本部も、あちらの安いコストには太刀打ちできなかったんだろう。君は確か三年近く会社に貢献してくれ、会社も助かった。君の腕はもったいない。活かせるところが必ずあるはずだ。新たな職場に挑戦してもらいたい」
「そ、それって早く言えば辞めろっていうことですか?」
「申し訳ない……。できるだけのことはする」
 すでに結論が出ていることなのだと、佐伯の苦し紛れな顔が語っていた。
 哲也は、派遣仲間が言っていたことはやはり本当のことだったと、佐伯に持ち続けていた淡い尊敬の念が音もなく崩れていった。
 ガタンと音がして職員が立ち上がった。
「それじゃ柿崎さん、退職手続きを取りますので、事務所にお回りください」
 哲也は誰とも目を合わせず、突き上げてくる悔しさと怒りを押し殺し、踵を返した。ドアのノブに手をかけた時だった。
「柿崎君、どこに行っても安全には気をつけて――」
 痛切な佐伯の声が、かえって惨めさを増幅するように背中に突き刺さってきた。哲也は一瞬立ち止まったが、振り切るようにドアを開けた。
 馴染んだロッカーを明け渡すと工場を後にした。振り返った社屋は春先の陽光の中で、いつものように無機質な光りを反射していた。
 ただ、正社員の解雇にのみ関与する佐伯課長が、なぜ哲也の派遣切りに立ち会ったのか、それだけがわずかな温もりを持って哲也の記憶に残った。

 哲也は一人、アパートで飲めない酒をあおった。寒々とした酔いが回ってきた。無性に寂しさが襲ってきた。
 西川口駅の歓楽街を、ふらふらとさまよっていた。もう信じられるものは何もなかった。
 路地の向こうに、満たされない心を癒してくれそうな闇が、ぽっかりと口を開けていた。無機質に輝いていたネオンが、怪しい灯りに変わっていった。底が見えない世界の恐怖を感じないほどに、心はずたずたになっていた。
 黒く湿った路地のあちこちで、厚化粧の女が狐のような目で誘っている。当てもなく歩を進めている時だった。
 野球帽を深めにかぶった黒っぽい服装の男が立ちふさがった。口元に嫌な笑みを浮かべている。男が懐に右手を差し込んだ。哲也は反射的に後退さった。背中が何かにぶつかった。振り返る間もなく、後ろの誰かに羽交い絞めにされた。もの凄い力だった。まったく身動きができない。前の男がにやにや笑いながら近づいてくる。本能的に危険を感じた時は遅かった。男のサッカーキックのような蹴りが哲也の股間にめり込んできた。体の芯を、脳天へと突き破るような激痛が走った。ぐったりとなった体を支えるように、後ろの男が哲也の懐をまさぐり始めた。札は全部、尻のポケットに入れていた。
 後ろの男が、こいつ文無しだと吐き捨てると、前の男がチッと舌を鳴らし、ステップバックした。再びサッカーキックが襲おうとした時だった。
「もうそのぐらいで止めんかい」
 野太い声が、暗闇を震わせた。屈強そうな男の集団が周りを囲むように立っている。外灯に浮かび上がったのは、革ジャンや鉄骨現場で見る刃物も通さないような作業着の面々だった。皆、腰が締まった裾がやたら広いズボンをなびかせている。
 二人組みは、哲也を押しのけると、転がるように路地の闇に消えていった。
「危なかったな、あんちゃん。ここらは俺たちだって一人じゃ危険だ。獲物に飢えた野獣があちこちから集まってくる」
 革ジャンの、びんが少し白くなりかけた男が、小さな笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、本当にありがとうございます」
 哲也は体幹を貫くような痛みと屈辱に耐えながら、酒と汚物がしみこんだ路上に手をつき、同じ言葉を繰り返した。
「その土下座だけはやめてくれよ。俺たちはヤクザじゃねぇんだ」
 真っ黒いあごひげを蓄えた、厳つい顔立ちの割には目が優しい男が、哲也の右腕をしっかりつかみ引き上げてくれた。
 哲也は、これまで接したことがない男たちを、恐る恐る、見渡した。革ジャンの男が、一緒に来なと笑みを作った。
 焼肉屋の中は、ニンニクと肉の脂が焼ける香ばしい匂いが重なり、今にもダウンしそうだった哲也の体に活力が蘇ってきた。
 店は中央に大きなコノ字型のカウンターテーブルがあり、焼肉コンロがずらりと並んでいる。カウンターの中に立つマスターと若い女性の店員が客の注文を取っては、周りに生肉の皿を配っていた。二十人ほどが座れるカウンターの一隅を、哲也を含めて六人の男たちが陣取った。
「お、若いの、だいぶ顔色が戻ったな。あの顔ではもうだめかと思ったぜ。さぁ、ぐいっとやりな」
 哲也を誘ってくれた、革ジャンが良く似合う男が、徳利を差し出してくれた。
「本当に助かりました」
 哲也は、大きめのちょこに、両手を添えて酒を注いでもらった。咄嗟に出た、昔、父に教えてもらった男の酒の付き合い方だった。
 男は、みな鳶職の仲間なのだと教えてくれた。これまで、こんなに心に染み渡る酒は飲んだことがなかった。酒の美味しさは、一緒に飲む人々の和の味なのだということが、哲也はその時わかった。ほろ酔い気分になった哲也も、自分の境遇を少しずつ話した。
 革ジャンの男以外は皆若く、特に哲也を気にかけることはなかった。哲也には理解できない専門用語を使い、今建設中だという現場の段取りを話していた時だった。突然革ジャンの男が、哲也を路上から引き上げてくれたあごひげの男に声をかけた。
「健治さん、こいつ会社クビになったんだってさ。社長、いつも見習い探してこいって言ってるけど、こいつ、いや哲也君っていったな、どうだろう? よく見るとなかなか逞しい顔つきしてるじゃない」
「どうだろうって、そりゃ本人が決めることだぜ。俺らの仕事はそこいらのサリーマンとわけが違うって、頭(かしら)が一番知っていることじゃないっすか」
 この業界は、どうやら親方を頭(かしら)と呼ぶらしい。
 健治がちらりと哲也を見てから、頭と呼ばれた革ジャンの男に視線を移した。仲間の話がプツリと切れて、全員が哲也の方を見た。
「――俺、使ってもらえるのなら、やってみたいです」
 どこからこの言葉が出たのか、まるで現実味のない言葉が哲也の口を突いた。頭と呼ばれる革ジャンの男の好意に応えたかったのかもしれない。いや、そんな甘い感傷で踏み込める世界ではなく、ただ単純に、酒に酔った勢いから吐き出された言葉に違いなかった。ただ心の深層には、哲也には想像もつかない仕事であれ、命を助けてくれたこの男たちについていきたいという、原始的で、純粋な雄としての願望があったのかもしれない。
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