第5話

文字数 7,285文字

 五

 あれから三年も経つが、鷲尾組のことは、今でも目を閉じれば目蓋の裏にありありと浮ぶ。頭のこと、健治兄いのこと……。今考えれば、本当にあの世界は存在したのだろうかと、哲也は不思議な気持ちにとらわれる。

 鳶職を断念するとすぐに、哲也は建設現場歩きで土地勘がある北区のハローワーク王子に職を求めた。
 間もなく、赤羽の「明星機械」で機械工急募・工業高校機械科卒尚可という幸運に恵まれた。
 明星機械は赤羽駅に近い大日本印刷の近くにある中堅の印刷機械メーカーだ。
 入社してから一年間は製造現場を経験し、その後、技術部・製造技術課に移動してから二年の月日が流れた。長年住んでいる西川口のアパートから通勤し、工場エンジニアとして忙しい毎日を送っていた。

 印刷機には新聞や雑誌を印刷するオフセット印刷機から紙幣を印刷する特殊印刷機まであるが、明星機械は包装紙などの高速印刷に使用するグラビア印刷機を特意とする。
 グラビア輪転印刷は凹版印刷で、シリンダー状の版に印刷部分の小さなくぼみがあいており、インキが版全面に移った後、フラット部分が掻き落とされ、穴に残ったインキが圧胴で押さえられてフイルムに転写する。
 構造的には、印刷の版は鉄製のシリンダーからできており、表面にメッキされた銅面に目的のデザインを直接彫刻する。もちろん彫刻は電子制御されたダイヤモンドヘッドで行われ、さらに耐摩性を得るためクロムメッキが施される。
 シリンダー構成は印刷機の心臓部であり、技術部のシリンダー製作課が責任を持つ。
 午後五時、技術部の大部屋に終業のチャイムが心地よく響いた。
 哲也はCAD(キャド)画面から目を離し、窓の外に広がるオレンジ色に輝き始めたビル群の風景に目をやった。
 ふと背後に視線を感じ振り向くと、水谷由香里が彼女のパソコン画面の向こうから周りには気づかれないほど小さな笑顔を送ってきた。
 シリンダー製作課の由香里とは、昨年の会社のクリスマスパーティでテーブルが一緒になった時から笑顔を交わす仲になり、今日は一緒に映画を見る約束をしていた。
 その時、設計課の広瀬京太が薄っぺらな笑みを浮かべながら話しかけてきた。
「よぉー柿崎、どうだい、今日一杯つきあわないか?」
「ああ、わるい、今日ちょっと用があるんだ」
「なんだ、最近つきあい悪いな」
 京太がそれとなく由香里の席に目を向けるのがわかった。
 設計課も技術部に属し、公私共に情報が入り乱れているので、自分と由香里の仲は気づいていても不思議はなかった。
「すまん! 来週はこちらからお願いするよ」
 哲也は、手のひらを合わせ、笑顔を作った。京太は哲也のパソコン画面をちらりと見ると、口元に小さな笑みを作り去っていった。
 同期入社の京太は東京のあまり聞いたことのない私立大学工学部卒で、埼玉の浦和競馬場近くの土地成金の息子らしく、成功者がよく好む外国製の時計を腕につけ、国産だが目立つスポーツカーで通勤していた。川口市の、地下駐車場がある豪華なマンションに住んでいるらしい。
 哲也が由香里を振り返ると、このいきさつを見ていたのか、悪戯っぽい笑顔を返してきた。
 二人は池袋に出て、話題の「タイタニック」を見てから、静かなバーで飲んだ。
「哲也って、仕事はガラス張りで、考えてることぜーんぶ分るけど、自分の田舎のことって何も話さないのね……」
 由香里がグラスを揺らしながら少し不満そうに言った。
 群馬から出てきた由香里は、実家が旅館をやっていることや、卒業した東京工芸大のことをよく話したが、北海道から出てきたということだけで、どこで育って家が何をやっていたかなど、何も話さない哲也のことに不満を持っているようだ。だが、何か一つでも話せば、必ずあの忌まわしい事件にたどり着くことは目に見えていた。
 ただその半面、お嬢さん育ちの彼女は、そんな哲也の陰の部分にゲームのような興味を持っているようにも見えた。
 哲也は帰りの電車の中で、自分は卑怯な男なのだと思った。哲也が隠している素性は、由香里が考えそうなミステリー小説のような秘密ではなく、家族の無様な現実だ。由香里にだけは知られたくないという、ただ単なる見栄のようなものだった。

 翌年の由香里の誕生日。
 彼女の希望で、新宿で食事をすることになり、東口で待ち合わせた。
 原色が踊る夜の街に、人の波が川のように吸い込まれていく。初めての哲也はきょろきょろしていたが、由香里は慣れているようで、職場の廊下を歩くような素振りで歩を進めていた。
 由香里がリクエストした南国風のカフェレストランはスタジオアルタから靖国通りの方に少し行ったところにあった。
 見たこともない料理が運ばれてきて、由香里は声を上げて喜んでいたが、こういうところが苦手な哲也は、由香里の話にただ相槌を打ちながら、カットステーキを相手にフォークとナイフで格闘していた。
 カフェを出た二人は、ネオンが煌く都会の夜の光景に流されながら、とりとめのない話の中に、お互いの心を紡ぎあった。
 時はあっという間に過ぎていった。気がついたら人通りが少ない通りに出ていた。
 どうやら人の海に流されているうちに、靖国通りを横断し歌舞伎町方面に来てしまったらしい。由香里も夜の歌舞伎町は初めてらしく、新宿駅方面を目指しているはずが、辺りは人通りが少なくなってきた。
 向こうにゴールデン街という上野の街で見かけるような看板が見えてきた時だった。
 わきの細い路地から怒声が響いてきた。由香里がしがみついてきた。
「コラァ! おれらのシマでデカイつらするんじゃねぇー」
 骨が骨を打つ嫌な音が聞こえてくる。目を凝らすと小柄だがプロレスラーのように横幅のある男が二人、ひょろりと背の高い男の顔面をかわるがわる殴りつけている。
 外人のように見える男は、ぐにゃぐにゃのサンドバックのようになり、すでに意識は飛んでいるようだ。
 哲也の脳裏に、父がヤクザにいたぶられていた光景がフラッシュバックした。
 足から力が抜け、細い由香里の体が重たく感じる。由香里に引きずられるまま、その場を逃げ去りたかった。だが、由香里は動かなかった。無言で助けてあげてと言っているようだ。いや、あまりにも惨い光景に足がすくんだのかもしれない。どちらにしても自分から逃げ出せる状況ではない。
 ピタリと密着する由香里の体から伝わる体温も重なり、心臓の鼓動が耳の根元まで響いている。ここは、男として何とか乗り越えなければならない。鳶職の世界で少しは度胸が座ってきたのかもしれない。哲也の覚悟が決まった。
「お、おい、やめろ!」
 哲也はやっと上擦った声を上げた。その時、由香里の腕がやっと哲也を引っ張り始めた。が、もう遅い。
「な、なんだと!」
 海坊主のような男が、最後の一撃と大きく右腕を振りかぶったところで、殺気立った目をこちらに向けた。
 男は外人の襟首を突き放した。外人は、吊り人形の糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
「おい、あのガキどもが先だ。ちと可愛がってやろうやないか」
 二人がにやにや笑いながらこちらに向ってくる。
 その時、由香里が手を離し、通りに向って叫んだ。
「おまわりさーん、こっち。はやくー!」
 二人の男の足が止まった。早く、早くと由香里が手を振りながら人影もない通りに向かってなおも叫ぶ。チッと舌を鳴らすと、二人は踵を返し、路地の奥へと走り去っていった。
 ピクリとも動かない外人に近づいていくと、傍らにドクロのマークがついたスプレー缶が転がり、薬品の臭いが漂っていた。よく見ると、男は中東の国の人のようだ。
「だいじょうぶですか? こんなところでどうしたんですか」
 鉄也は、顔が青黒く腫れ上がり、鼻血でシャツが赤黒く染まった外人を明るいところに引きずり出し、二人で介抱を始めた。
「哲也、この人の眼、真っ赤よ。何か劇物をかけられたみたい。仲間同士の喧嘩みたいだけど、警察を呼んだほうがいいんじゃない」
 由香里が携帯電話を取り出した。その時、鱈子のように膨れ上がった外人の唇が微かに動いた。
「助けてくれてありがとう。警察呼ばないで。私ヤクザ違う。会社員です。明日、成田からアメリカに帰る。面倒なことになるとフライト遅れる」
 男は真っ赤な眼から涙を流しながら訴えた。おそらく最近増え始めた外人ヤクザと間違われて襲われたのだろう。
「わかりました。ホテルまで送っていきます。どちらですか?」
 鉄也は、男を支えるようにして歩き始めた。
「由香里、あとは俺が面倒を見る。遅いからここで別れよう。タクシーを拾ったほうがいい」 
「すみません。せっかくのデート壊してしまって」
 男が、無惨に腫れ上がった顔をくちゃくちゃにして涙を流している。この男は本当に普通のサラリーマンなのかもしれない。哲也は、体に残った由香里の温もりを思い出しながら、彼女と別れた。
 男が宿泊していたホテルは、そう遠くないところにあった。
「ああ、この方は当ホテルをよくご利用される方です。イラージさんですね。それにしてもそのお怪我はどうされたのですか? 救急車を呼ばなくて大丈夫でしょうか」
「大丈夫、どこもけがしてない。救急箱だけ貸してください」
 どこから見ても重傷怪我人のイラージが、塞がった眼を無理に見開きながら言った。
 哲也は、足元がまだおぼつかないイラージをこのまま置き去りにするのも心配で、部屋まで支えていった。部屋に入り、イラージをベッドに寝かせた。幸い、どこにも骨折はしていないようだった。
「ありがとう、本当にありがとう。私、イラン人。でもアメリカ国籍でアメリカの会社で働いてます。品川に日本支社があり、私よく来ます」
 イラージが日本語が流暢なことにやっと納得がいった。
 誰も通りかからず、あの最後の一撃を受ければ、もしかしたら命を落していたのかもしれない。哲也は、自分が鳶の人々に助けられたあの時のことを思い出し、恥ずかしくなった。もし由香里と一緒でなければ、自分一人で助けに入ることができただろうか。情けない回答しか帰ってこなかった。
 イラージは、奇跡的に歯も鼻骨も折れてなく、じょじょに顔の腫れも引き始めた。明日の午後のフライトには支障はないと思われた。
 哲也が、顔の傷をオキシフルで消毒している間、イラージは感謝の言葉を述べながら、彼自身のことを話した。
 彼は世界トップクラスの航空宇宙関連機器メーカーの社員だった。アメリカ本社の技術開発部門のマネージャーだ。実家はイランで小さな溶接工場を経営している。イランでは原油プラントやガス配管の溶接技術が重要な役割を持ち、ステンレス、アルミ合金、チタンなどの溶接の仕事がたくさんあるらしい。彼は、さらに溶接技術を磨くため、マサチューセッツ工科大学に入学し、卒業とともに現在の会社に入社した。今はアメリカ国籍を取得し、トップエンジニアとして航空宇宙産業の溶接技術に貢献しているという。
 哲也は、とんでもないエリートを助けたものだと思った。
 哲也が部屋を後にする時、イラージがよろよろとベッドから起き上がってきた。
「哲也、このご恩は一生忘れません。アメリカに来る機会があったら、必ず連絡してください。チャーミングなガールフレンドにもよろしく」
 イラージは哲也の手を両手で握り、名刺を渡してくれた。
 哲也は、この先一生アメリカに行けるチャンスなど巡ってこないことは知っていたが、いつか渡米したときは必ず連絡するよと言って分かれた。

 再び忙しい毎日が始まった。
 製造技術課では、設計課で作成した図面に従い印刷機械製造ラインの技術サポートを行なう。 哲也は印刷機械の軸受けと構造フレームの製作を担当していた。印刷機械はあらゆる技術の結集であり、高度に自動化された駆動部を組み込む構造フレームは十分な強度と精度が要求される。工程は限りなく自動化され、溶接ロボットと塗装ロボットがまるで熟練工の腕のように動き回る。
 実際には溶接も塗装もしない哲也の主な仕事は、テェーチングと呼ばれるロボットに知能を刷り込む作業だ。それはコンピュータとの格闘だった。
 だがこの仕事で哲也が、最も神経を使うのはプログラム技術ではなく、ロボットが稼動した後の安全問題だった。工程には大小合わせて二十数台のロボットが配置されている。
 滑らかな軌道で動き回るロボットも、ふいにその可動範囲に人間が入れば、薙刀が襲ったように簡単に肉は抉られる。労働安全衛生規則では、ロボットの可動範囲に人間が入れば自動的にロボットが停止する安全柵の設置を要求している。
 だが長引く不況に対処するために、一年ほど前に他社から引き抜かれて赴任した課長の黒沼の方針により、安全柵のインターロックを解除することになった。
 会社が盛衰の瀬戸際にきていることは確かだった。だが、安全の重要性を知る哲也は、衝突を覚悟で黒沼に進言した。
「課長、このままではいつかは事故が起きます――」
 だが、黒沼は聞き入れず、逆に哲也を疎むようになった。
 さらに哲也と黒沼の亀裂を広げる決定的な事が起きた。
 明星機械は、サプライチェーンと称される多くの下請け企業のバックアップで成り立っている。金属材料の熱処理もその重要な一部だ。
「金丸熱処理工業」の営業部長の坂田が、今日も黒沼に何回も頭を下げている。哲也は、よく熱処理技術のことを話してくれる坂田とは気が合い、長年笑顔で声を掛け合う仲だ。
「あんたのところの利益率なんて、こっちには関係ないんだよ。提示した値段で作って、期日まで納めてくれればそれでいいんだ。ぐずぐず言ってると、明日から発注はいかなくなるよ」
 黒沼のいつもの下請けいじめが始まった。特にロールやギヤの熱処理を発注している金丸熱処理工業の坂田には強く当たるようだ。いや黒沼は、この会社を切るつもりなのかもしれない。
 印刷機の構成部品であるロールやギヤは、「高周波焼き入れ」と呼ばれる特殊な熱処理により表面の硬度が保たれている。金丸熱処理工業は創業以来の取引だが、最近はどこでも工程の自動化が進み、大小の熱処理屋がほぼ同じレベルの技量を持つようになった。
 一方では、新任早々で実績が出ない彼の焦燥と組織の軋轢からくるストレスを、坂田へのいじめで解消しているようにも見える。
 見るに見かねて哲也は、修羅場の現場に近づいていった。
「課長、お言葉ですが、うちの製品は金丸さんの表面処理技術に支えられているところが大きいのです。若干のコストアップは製品原価で吸収できると思いますが――」
「なにぃ! き、君は上司のこの私に盾突くつもりか」
「いえ、そういうつもりは、ただ、ギヤの長期信頼性の保証には十年の実績が必要かと――」
「俺がここにきた理由を知ってるか? そういう悠長なことを言ってるやつを整理するためだ。さっさと持ち場に戻れ!」
 黒沼が踵を返そうとした時だった。坂田がふいに彼の前に出て土下座をした。冷たいコンクリート床から見上げる坂田の目が、震えるように黒沼に懇願している。黒沼は冷酷な目でそれを見下ろしていた。
 哲也は自分の無力を呪いながら踵を返し、現場に向った。途中で背中に、黒沼の「取引停止だ!」という大きな声が響いてきた。

 それから一年ほどが経った。悪夢は何の予告もなくやってきた。
 朝、ロッカー室で作業服に着替え、オフィスに向っていた時だった。待っていたかのように黒沼が近寄ってきた。視線はそのままで、無言で顎をしゃくり、会議室に連れていかれた。
 間もなく、人事を担当する総務部長が入ってきて、向かい合って座った黒沼の隣にかけた。
 総務部長が、眼鏡の奥で目を瞬かせながら切り出した。
「柿崎さん、急な話だが、会社が君に給料を払えるのは今月いっぱいということになる。君ほどの技術力があれば、どこでも使ってくれるはずだ。新たな土俵で頑張ってくれないか」
「――そ、それは辞めろということですか?」
「残念だがそういうことになる。今回は十人ほどに協力してもらうことになった」
 総務部長の説明が終わると、黒沼がぼそりと言った。
「柿崎君のように、ものごとをはっきり言う社員を失うのは本当に辛いことだが……」
 黒沼は、最後まで哲也と目を合わせることはなかった。
「――わ、わかりました」
  哲也はそれ以上食い下がることもできず、ただ唇をかんだ。
  結局、技術部からは定年間際の施設管理要員と哲也が解雇となり、京太と由香里は残ることができた。経理や製造現場からも年配の社員を中心に解雇されたようだ。
「ものごとをはっきり云々」という黒沼の言葉が、鬼火のように哲也の脳裏でぐるぐると回った。
 一週間後、わずかな退職金を手に、これからも永遠に続く自分の土俵と信じていた会社の門を後にした。いつも温かい輝きで哲也を迎えていた社屋が、今は共に闘った五年間の記憶はどこにも見当たらず、重苦しい灰色の影を落としていた。
 アパートに帰るとすぐに哲也は、由香里の携帯に電話を入れた。
 すぐに由香里が電話に出た。
「哲也君、今回大変だったよね。みんな胸撫で下ろしてるけど、なぜ哲也さんなのって、言ってる人もいる」
「うん、そうは思いたくないけど、俺、課長に睨まれてたからな……。まぁ、由香里は女性のエンジニアとして貴重な存在だ。これからも頑張れよな。落ち着いたらまた電話するよ」
 不思議だった。これまで由香里とふざけあって話した言葉は何一つ出てこなかった。すでに過去となった受話器の向こうの世界は遠くにあり、仕事を失い生活の基盤を失ったことの恐怖がじわりと襲ってきた。
「うん、哲也さんも力落とさないで頑張ってね」
 由香里の優しい声を最後に電話は切れた。だが由香里の言葉もいつの間にか、親しみをこめた呼び捨てから哲也さんに変わっていた。
 それでも哲也は、たった一人、由香里とだけは繋がっていることを感じ、少しは心に潤いが残った。また仕事さえ見つかれば、由香里とも付き合っていけるとわずかな希望をつないだ。

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