第4話

文字数 3,347文字

 四

 小学校も高学年になると体の成長に差が出てくる。背が大きく運動能力がある者はクラスでの存在感も増し、人気がある。また、勉強のできる子は学力を高めようとする生徒たちの憧れとなる。父に似たのか背はあまり伸びもせず、学業も理科以外は興味がない哲也はどっちつかずで、何をやっても目立たず、感動の薄い学校生活を送っていた。
 そんな哲也にもたった一つ、思い出すだけで胸がドキドキすることがあった。それは学校に行くと、級長の新庄直美の姿が見られることだった。六年生のクラス替えで一緒になった直美の家は、町の中ではなく、哲也がよく釣りにいく山の麓にあった。直美は女子では背が高いほうで、整った小さな顔をしていた。肩の高さは哲也と同じぐらいなのだが、首の短い哲也より、直美のほうが目線は上にあった。
 哲也がクラスの掃除当番になった時だった。直美がロッカーから掃除用具を取り出していた。哲也はドキドキしながら、彼女の背中に声をかけた。
「新庄君って、近くに半鐘がるあの堰堤の近くですか?」
「そうよ、どうして?」
 直美が振り返り、哲也の目を見た。
「俺、あの堰堤の下までよく釣りに行くんだ」
「そう、哲也君、釣が好きなんだ。今度釣りに来たとき、家に寄っていったら」
「え、本当ですか――」
 哲也は、その後の言葉を失った。
 直美が気さくに話してくれたことにも驚いたが、家にまで行けるかもしれないと思うと、空を羽ばたく鳥にでもなったような気持ちになった。
 翌週の日曜日、哲也は釣り竿を持って、心をうきうきさせながら、直美の家の近くを流れる川に出かけて行った。
 その日はまったく釣れなかった。というより、魚のことなどどうでもよかったのかもしれない。つなぎ竿をリュックに仕舞ったあと、哲也はどうしようか迷ったが、気がついた時は直美の家の前に来ていた。
 農家にしては珍しい、爽やかな色の大きな家だった。白と黒のまだらがくっきりとした牛がたくさん放牧され、見上げるようなサイロがいくつもそびえていた。何となく気後れした哲也は、引き返すわけにもいかず、農作業をするおじさんやおばさんの目を気にしながら玄関にたどりついた。直美は、見晴らしのいい窓からすでに見ていたのかもしれない。大きさの割には軽く動く玄関の引き戸を開けると、広い廊下に直美が親しげな笑みを浮かべ立っていた。
 直美はすぐに、広く長い廊下を案内してくれた。何も着飾らない夏の普段着は、学校での級長という面影はどこにもなく、哲也は素朴な親しみを覚えた。
 いくつもの部屋を通り過ぎて、居間に通された。太い柱と梁がむき出しになった広い居間の中央に大家族が使うような大きな座卓が据えられている。一角には囲炉裏があり、それとは別に、反対側には薪を燃やすペチカが備えられていた。
「あら、遠いところよく来たね」
 直美と並んで座った、母親と思われる女性が話しかけてきた。直美より頭一つほど背が低い母親も、日焼けしているが、整った顔立ちをしていた。
「あ、ああ、近くに釣りにきたので――」
 直美がそばにいるせいか、哲也は緊張して言葉が思うように出てこなかった。
「哲也君、魚、釣れたの?」
 直美が、二人に出されたスイカの種を、見たことのない爪つきの長いスプーンで上手に取りながら、哲也の目を見た。哲也は家で食べるように、厚切りのスイカにかぶりついていた口を手の甲で拭いながら、黙って首を横に振った。
 直美は弟を見るような笑みを作り、再びスイカを食べ始めた。哲也はドキドキしてほとんどスイカの味はわからなかった。
 スイカを食べ終わると、母がカルピスを出してくれた。ストローがついていたが、直美はなぜか、水滴で曇るコップに直接口をつけ、咽を鳴らすようにして飲み乾した。直美の母が、それを少し驚いた目でちらりと見た。
 帰りに直美は、母屋の裏にある、厚い壁でできた蔵に案内してくれた。蔵の中には北海道開拓時代の、様々な農機具や食器などが整然と並べられていた。予約をした観光客がたまに見学に来るらしい。
「新庄君、これはもしかして釣り針かな?」
 哲也は、マッチ箱ぐらいの容器に入った、鈍く光る大きな釣り針が三本、錨のように組み合わされたものに目が吸い寄せられた。
「ああ、それ、お爺ちゃんが若いころ、遡上してくる鮭を引っ掛けたんだって。雌と雄を選り分けられる名人だったそうよ」
 哲也は、にわかにはその漁法が想像できなかったが、なにやら難しい技量を必要とすることだけはわかった。古(いにしえ)の光を宿す小箱を、そっと元に戻した。
 外に出ると、花柄模様の手ぬぐいを姉さんかぶりにした直美の母とすれちがった。哲也は立ち止まり、挨拶をした。
「今日はどうもありがとうございました。あの鮭漁の釣り針にはびっくりしました。また来た時には見せてください」
「あれはお爺ちゃんが大切にしている宝物なの、またいつでも来てくださいね。今改装中だけど、あの二階にはまだたくさん歴史資料があるの。木村先生もたまに来るのよ」
 直美の母が姉さんかぶりの中から、顔を綻ばせた。担任の木村先生も見にくるという話には驚いたが、家庭訪問で哲也の家に来た時、父が職場の鉄工所に案内し、熱心に聞いていたことを思い出した。
 帰りに直美は、敷地の出入り口まで出てきて手を振ってくれた。
 哲也は自転車をこぎながら、コップのカルピスを咽を鳴らして飲んでいた直美のことを思い出していた。夏の工場では、父はいつも小皿に盛った塩を舐めながら、氷で冷やした水をヤカンの口からぐびぐびと飲む。家でストローを使うのは母と妹だけだ。直美は、自分に気を遣い、あえて粗野な振る舞いをしたのだろうか。それに答えはないが、その時だけは遠くの存在の直見が、すぐ手が触れるところにいるようで嬉しかった。今でも思い出すだけで顔が綻ぶ。哲也にとってこの日は、夢のような一日だった。

 その年の、秋も深まる金曜日だった。
「今日放課後打ち合わせがある。新庄君、残ってくれないか」
 帰りのホームルームの終わりに木村先生が、一番後ろの席の直美のほうを見て言った。
先生は学校で一番若く、当時NHKテレビ番組の「体操のお兄さん」によく似ていることもあり、女子生徒や母親たちから人気があった。
 ちらりと振り返えると、直美が無言でうなずいていた。その顔から、いつもの柔和な表情が消えていることに、哲也は不思議な気がした。
 校舎を後にして三十分ぐらい歩いたところで、哲也は、理科の教科書を教材室に置き忘れたことを思い出した。校門が閉まる前にと、走って学校に引き返した。校門はまだ開いていた。ほっとして哲也は、校舎の中に入った。先生たちの姿がちらほら見えるだけで、生徒は誰もいなかった。
 理科教材室は廊下の一番奥にある。呼吸を整えながら、哲也の教室のひっそりとした六年二組の前を通り、教材室に向った。
 日の差さない教材室は縦に狭く、爬虫類のアルコール漬けや、筋肉や血管が露になった人体模型が置いてある。生徒たちから何かと話題になる、校舎の恐怖スポットでもあった。
「あ、先生!」
 哲也が引き戸に手をかけようとした時、突然戸が開き木村先生が出てきた。
「柿崎、どうしたんだ、今ごろ――」
 目を見開いた先生の顔が少し赤みを帯びているように見えた。その時だった。
 先生の後ろを一人の女性徒が駆け抜けていった。先生も哲也も、それを呆然と見つめた。女性徒、いや直美の後姿はあっと言う間に昇降口へと消えていった。
「あ、すみません。理科の教科書を忘れたので取りにきました」
 哲也はその時、それ以外のことは何も言わない方がいいような気がした。
 先生も直美のことは何も言わず、少し怖い顔で「早く帰りなさい」と言うと、職員室のほうへゆっくりと歩いていった。
 翌日から気のせいか、直美は哲也と目を合わせないようにしていた。先生は何もなかったように、あの体操のお兄さんのような表情で、いつものように笑ったり冗談を言いながら、クラスをまとめていた。哲也の心にぽっかりと穴が開いたまま、学校生活は過ぎていった。
 触れてはいけない何かに、哲也は触れたのだと思った。それ以来、哲也のたった一つの楽しみだったことが、二度と脳裏を占めることはなかった。
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