第7話

文字数 2,567文字

 七

 荒川の空にうろこ雲が浮び、堤のススキが上流に向かう風になびいていた。
 今日は朝早くから大仕事が入っていた。
 特殊洗浄装置に使用されるというオールステンレスの架台を積み込み、二人は埼玉県境にある巨大な半導体製造工場に向った。
 作業が始まった。目も眩むほどの高所作業となり、大型クレーンの運転士を始め、関係者全員が真剣な眼差しで持ち場に張りついていた。
「哲也、今日はお前が親方だ」
 佐竹が、これまで見たことがない笑みを向け、工場の二階から突き出した非常階段の屋外ステージの端に構えた。
 はるか下の地面で、ミニバンほどもある架台にクレーンのワイヤーがかけられた。クレーン車のエンジンが勢いよく吼え続け、積荷が目の前に迫ってきた。
 哲也はプラモデルのように小さく見えるクレーン車の窓と、目の前で静かに揺れる積荷の両方を睨みながら、右手で下降の合図を送った。この辺りは、鳶職の経験が生きる。
「はぁーい、オーライ、オーライ、そのままゆっくり降ろしてー」
 二トン近くの重量物が、ステージに向って静かに下降している時だった。
「先輩! どうしたんですか!」
 哲也は思わず声を張り上げた。
 積荷の向こうで位置決めをしていた佐竹が、突然持ち場を離れ、鉄柵に足をかけているではないか。積荷が邪魔して止めに行くことができない。一瞬、振り返った佐竹の視線が、何かを託すように哲也の目を捉えた。
 佐竹は、あっという間に鉄柵を乗り越え、真っ逆さまに落ちていった。
 哲也は架台と壁のわずかな隙間を抜け、鉄柵の真下を見た。
 ヘルメットの頭部が不自然に曲がった佐竹の体が、無造作に横たわっていた。
 哲也は転がり落ちるように、非常階段を下りた。無我夢中で佐竹に駆け寄った。ヘルメットが  不気味な亀裂を見せている。だが佐竹は、生きていた。鼻や耳の、顔中の穴という穴から血を噴き出しながら、ヘルメットも飛び跳ねる勢いで、佐竹は転げまわった。哲也は血だるまになるのも忘れ、佐竹を抱き締めた。噴出す佐竹の命に勢いがなくなると共に、佐竹の体も、動かなくなった。
 周りにクレーン運転士や工事関係者が集まってきた。皆、佐竹の断末魔の叫びに射抜かれたような目で呆然と見下ろしている。哲也は惨めさを噛み殺しながら、血染めのボロ雑巾のようになった佐竹を覆い隠した。
 向こうから工場の関係者と思われる男女が走ってくるのが見えた。
 左腕に安全管理者の腕章を巻いた男がしゃがみ込み、だらりとなった佐竹の腕をとり、脈を見た。女性が、血糊でごわごわになった頭部に重ねたガーゼを押し当てている。男の眉間に緊張が走り、「すぐに救急車!」と、女性に指示した。
 男は、殺人現場のような凄惨な光景にひるむ様子も見せず、転がったヘルメットを取上げた。頭頂に、まるで切り取ったような三角形の穴が開いている。男は、鉄柵を見上げた。哲也はその時、鉄柵の真下に当たる、鉄骨の基礎コンクリ―トの角が血に濡れているのに気づいた。男は、鉄柵と血に染まったコンクリートを交互に睨んだ。その視線をそのまま哲也に向けた。
「何があったんですか?」
 哲也は言葉に詰まった。なぜか、誰も口を閉じたままだ。
 やっと、クレーンの監視役を務めていた初老の男が口を開いた。
「ドサッという音で振り向いたら、この男の人が地盤に転がってました」
 初老の男は言い終えると、それとなく周りを見回した。まだ呆然としている全員が、瞬きもせずに、こくりとうなずいた。
 哲也は、一部始終を見ていたはずの全員がなぜ? という疑問が先立ったが、じょじょに熱いものが込み上げてきた。
 救急車が去ったあと、パトカーが到着し、警察官と刑事と思われる私服の男が降りてきた。安全管理者の男は警察官の事情聴取に対応している。哲也は、現場検証のため刑事に同行し二階の事故現場に向った。
「こんな高い手摺からどうやって落ちたんだ?」
 年配の刑事が、高さ1メートルを超える白色に塗装された鉄柵の手摺に手をかけた。佐竹が落下した地点をじっと見下ろしている。
「ちょうど積荷の陰になっていたので、気がついた時には――」
「ほーぉ、その時あなたはどこにいたの?」
 哲也が事故時のポジションを指し示すと、刑事はそちらに向った。
「うーむ、確かに見えにくいね。地上の関係者全員も、その瞬間は見ていないって言ってるんだよね……。偶然としてもそんなことがあるのかな」
 刑事が、正面の手摺に両手をかけ、眼下に佇むクレーン車の周辺を腑に落ちない表情で見下ろしている。
 その時哲也は、佐竹が越えた手摺の外側に背筋が凍るような痕跡を見つけた。それは自らが越えようとしない限り付きようのない、佐竹の油に汚れた軍手の痕だった。
 哲也が鳶職を断念した梁よりもさらに高い所から、佐竹はどうやって覚悟を決めたのだろうか――。ふと見ると、刑事は手摺の高さを測り、なにやら手帳に書き込んでいる。哲也はとっさに、佐竹が最後に残した死の覚悟を、作業服の袖で拭い取った。
 結局、不審な証拠は見つからず、急な積荷の揺れに突き飛ばされた労災事故と断定された。
 これで理恵は、文字通り夫が命をかけた生命保険金を全額受け取ることができる。残された家族は、身を裂かれるような世界から開放されるだろう。

 一人になった帰りの車で哲也は、あの最期の佐竹の目に応えられた安堵を覚えた。だが同時に、深い罪の意識が襲ってきた。自分がとった行動は決して許されることではない……。悶々とした視界に見慣れた風景が見え始めた時だった。ふと話がうま過ぎることに気がついた。突き落とされた物体は放物線を描き、真下に落ちることはあり得ない。工学のプロである工場の安全管理者が、その点を追求しなかったのはなぜだろう……。
 哲也は、だんまりを決めてくれた工事関係者と、もしかしたらと、あの終始悲壮な表情をしていた工場の安全管理者に、心の中で手を合わせた。
 哲也は、たった一人の友人を助けることができなかった自分を呪った。だが、人間の業をはるかに超える神の領域に触れることができ、この世は、まだ生きる価値があると思った。佐竹の分も強く生きて行こう。それが、佐竹への最善の弔いになると、哲也は心に誓った。

 街が近づいてきた。夕暮れに浮ぶ高層ビルの連なりが、溢れ出る涙で滲んだ。
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