第3話

文字数 3,070文字



 この世に肉眼で見てはいけない光りが太陽の他にもう一つある。
 就職説明会で遅くに帰ってきた哲也が、路地の奥にある自宅の工場の前に差しかかった。シャッターの隙間から、今日も世間の裏を照らすように、青白い溶接光が漏れていた。
 カバンを片手に、ところどころ錆びが浮いた工場のシャッターを半分ほど押し開け、中に入る。
「柿崎鉄工所」は、父の従兄の幹夫さんが亡くなる前に、父が引き継いだ町工場だ。今は父と母でやりくりしている。
 工場の奥で、アークが鉄に喰い込む凄まじい音と閃光の中に、カタツムリのように背を丸める母の姿があった。左手に木柄の溶接面を持ち、右手に溶接棒をくわえたホルダーを握っている。
 工場にはTIG(ティグ)溶接装置もあるが、それはもっぱら父がステンレスの溶接に使い、鉄の溶接しかできない母は、古くからある手棒溶接とも呼ばれるアーク溶接を行なっていた。
 TIGはタングステン・イナート・ガスの略で、仕組みは学校で習ったが、哲也もまだ使ったことはない。
 アーク溶接は電気のプラスとマイナスのショートによるアーク熱を利用するもので、装置のマイナス側に接続されたケーブル先端のホルダーに溶接棒を挟み込み、プラス側に接続される母材との間にアークを発生させ、鉄と鉄を溶かし合わせ溶接する。
 最近母は、札幌消防局に勤める叔父さんの紹介でもらったという、リゾートホテルのスキーラックの製作にかかりっきりだ。叔父さんは防火査察の仕事で旅館やホテルにしょっちゅう出かける。厳しい中にも融通がきく叔父さんは知り合いも多く、色々なことで顔が利くらしい。
 哲也は、スキー場を望むホテルの玄関に設置されたスキーラックに色とりどりのスキーが立てかけられている風景を想像してみた。ゲレンデで羽ばたく若者たちの汗と、陽の差さない工場の片隅で鉄と格闘して流す汗の比重の違いに、胸が痛くなった。
 一陣の風が工場の中をかき混ぜ、鉄や切削油のにおいが鼻腔に滲み込んできた。哲也は急に空腹の苛立ちを覚え、閃光から目を逸らせながら、「ただいま!」と声を張り上げた。
 聞こえているはずだが、溶接は中断できないことは哲也も知っていた。ほどなく光りと音がぴたりと止み、薄紫色の溶接ヒュームの中から、母の顔が振り返った。
「あぁ、お帰り。溶接中は近づいたらだめだべさ――」
「ああ、大丈夫だ。父さんはどうしたんだ?」
「組合の会合に出かけて行った。ああ、夕飯は天丼頼んでおいた。お前はそっちのほうが心配なんだろ。顔にちゃーんと書いてるべさ。この仕事納期が迫っててな、もう少しがんばっから、お湯でも沸かして待ててけろ」
 居間では三つ下の妹の智子(ともこ)が、テレビの前に陣取りひょっこりひょうたん島を見ていた。
 ほどなくして天丼が届いた。テーブルに新聞紙でくるまれた天丼が三つ並んだ。智子は台所にお湯を沸かしに行った。最近は、稼業の景気がいいようだ。
 三人がテーブルについた。
 父の場所には、父の好きなクリームパンが一つお皿に載っていた。普段あまり笑わない智子が、目の前の朱色のどんぶりを見ながら、くすくすと期待の笑みを浮かべている。
 いつも疲れが浮いている母の顔にも、やっと安堵の色が戻ってきた。母が、せっかくだから新しい箸で食べましょうと、割り箸を各々に渡した。
「それではいただきましょう!」
 母の、洗えば洗うほど染み込むような油で黒ずんだ手が、どんぶりに伸びた。
 まだ温かいどんぶりのふたを開けると、天汁がほど良くしみこんだ海老と開いた小魚の天ぷらが目に飛び込んできた。少し甘みの混ざった醤油の香気が鼻腔をくすぐり、思わず生唾を飲み込んだ。
「哲也、お前、それでは足りないべさ」
 母が、小魚の天ぷらの半分とご飯を三分の一ほど分けてくれた。哲也は二人が食べ残した海老の尻尾も、すべてきれいに平らげた。
 父はステンレスの溶接も得意だったが、幹夫さんから引き継いだ、旋盤とフライス盤を駆使する精密部品の製作でも顧客の評判がいいようだ。
 その評判を聞きつけ、量産工場では煙たがられる、半導体製造装置に使用される特殊な部品製作の仕事がくるようになった。
「今の工作機械はみな精密になった。三年も機械にかじりつけば、誰でも千分の二までは出せるさ。けどな、コンスタントに千分の一で納品できるのはそうはいない。日本トップクラスの自動機械だって、俺の力で成り立っているんだ」
 父は飲むと必ず、ちゃぶ台に肘をつき、コップを傾けながら話すのだった。
 業界でいう千分の一とは一ミリの千分の一をいい、誤差一ミクロンの世界だ。人間の髪の毛の太さが百ミクロン前後だから、目で測れる世界ではない。一ミクロンよりさらに小さなサブミクロンオーダーの精度が要求される半導体製造装置も、父が納める部品やその他多くの部品の精度の積み重ねで成り立っている。父はそのことに大きなプライドを持っていた。
 父にはもう一つ特技があった。それは、幹夫さんが亡くなる直前に父に授けてくれたという、「きさげ」の特殊技術だった。
「鏡面研磨なら、浜の鉄工所で鍛えた腕がある。人には絶対まけねぇ」
 きさげの話しになると父は、紋別時代のスクリュープロペラ磨きの話を出し、自慢していた。
 きさげとは、金属の平面を手作業により限りなく平坦に加工する作業で、平面度二ミクロン以下の精度が求められる場合は、最後は人の手による調整が必要になるらしい。
 きさげの仕事は、幹夫さんが高校を出て大阪の機械メーカーに就職し、苦労に苦労を重ねて身に着けた極意だということだ。業界ではNC旋盤やマシニングセンターなどすべてがコンピュータ化される中で、きさげ技術は自動化の狭間に落ちる、現代の刀工のような輝きを持っていた。
 父は納期が迫ってくると徹夜できさげ室にこもり、翌朝には表面がダイヤモンドのように光る完成品を、まるで仏壇でもつつむように丁寧に梱包し、その上を頑丈な木枠で補強して発送していた。
 最初は、幹夫さんから引き継いだ顧客からの仕事をぽつぽつとこなしていたが、ある時期から、父の腕を聞きつけた中古工作機械を扱う商社から仕事の話が舞い込んできた。
 新品の工作機械は高価なので、一定の精度が保証される中古品はアジアの新興国や国内の町工場に飛ぶように売れるのだそうだ。
 工作機械のオーバーホールで、精度を回復させるために欠かせないのが、父のきさげ技術だった。
 一ミクロン以下の精度を出す、きさげ作業場は、工場の奥に隔離されたように造られていた。 それは企業秘密ということもあったようだが、一ミクロンの誤差との闘いは、わずかな振動や部屋の温度変化にも影響されるらしい。
 一度哲也が、規則正しい模様に輝く作業中の中古フライス盤のベッドの表面を指でなぞっている時だった。突然部屋に入ってきた父に大きな声で怒鳴られたことがある。
 父は、人間の体温で精度が狂ってしまうのだと言った。一ミクロンとはそういうレベルのものだと、哲也はその時始めて知った。
 収入が増えるにつれ、家の中に変化が現れ始めた。それまで手の器用な父が修理しながら使っていたガスレンジや電気釜が、ちょっと故障すると新しいものに変わっていった。
 父が紋別の鉄工所で働いていた時、社長から永年勤続祝いでもらったというセイコーの丸い時計が、いつの間にか革ベルトがついた外国製らしい角型の時計に変わっていた。
 だが、父の見てくれや家の中はピカピカになっていくのとは反対に、家族の間には、どこか綻びのようなものが見え始めていた。




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