第7話

文字数 1,815文字

 七

 終業後の誰もいない事務所で、哲也は業務日誌をつけていた。
 今日は哲也の四十歳の誕生日だった。誰かに誕生日を祝ってもらった記憶は遠い昔のことだ。これからもこの体では、寄り添ってくれる女性など、夢のまた夢だ。
 もう二十年以上も故郷には帰っていない。たまの便りで、六十五歳の母はまだ弁当を作り続け、妹も大阪の小さな商家に収まったようだ。
 今はあの、記憶を呼び覚ますような、深く暗い津軽海峡を渡ることなく函館に行ける。母の元気なうちに会ってみたいと、最近思うようになった。
 四十歳といえば、父が柿崎鉄工所の共同経営者となった歳だ。事業は順風満帆に見えたが、実際にやってみるとそんなことは夢物語に過ぎないことがわかる。父も、子供の目には見えない様々な悩みや苦労を抱えていたに違いない。
 人間は皆、紙一重のところで生きているということが、同じような歳になってわかってきた。今は、一緒に釣りに行ったことや、工業高校機械科の合格を自分のことのように喜んでくれた父の顔が、目を閉じると、あのオホーツクの、夕凪の温もりのように浮かんでくる。
 哲也はふと、左腕に触れてみた。一度は生命が絶たれたこの分身が、今ではドアの開け閉めができるまでに回復した。それは分身が、自らの壮絶な闘いの末に勝ち取ったものだ。自分も、分身の雑草のような生命力に負けてはいられない。
 だが、右手と並べてキーボードを自由に叩くまでには、まだ時間がかかりそうだ。それでも佐竹のことを思い出すと、甘ったれてはいられない。今日も、ハンマーのように重い左手をキーボードの端に置き、指が届く限りキーを叩いた。画面がもし鏡なら、鬼のような形相が映っているに違いない。
 ふと斜め前の、今は花が飾られていない芳江さんの机を見やった。あれ以来、芳江さんの行方は杳として知れず、社長の消息もわからないままだ。二人の逃避行は未だに信じられないが、自ら人生を破滅に追い込むほどの心の葛藤はどれほどのものだったのか……。
 ただ、誰しもが鉄の踏み板を歩いているわけではない。生きていく限り、あざなえる縄のごとし、希望と欲望が巻き起こす試練は容赦なくやってくるだろう。哲也は父の無惨な死を思い出し、人間の業の不可解さを思った。
 時には流れに逆らい、深い淵をさまよいながら、人生の河は流れ続けるだろう。いつか家族四人が眺めた、夕凪に包まれる時まで。

 その時、母屋から、理恵がお茶と小さな包みをお盆に載せて出てきた。
「お疲れさま。あまり無理しないでくださいね。これ、彩の手作りのクッキー。美味しいかどうか、わかりませんが」
 理恵が恥ずかしそうな笑みを浮かべ、ラップされたお菓子をテーブルに載せた。
「あぁ、ありがとう。手作りというのは素晴らしい。私も料理人時代は、苦労したことがある」
「えっ! 柿崎さんが料理人。いったい何の料理ですか?」
 理恵が目を丸くして哲也を見つめた。
「若いころ、窮地を救ってくれた仕事でした。川口の小さな中華店で修行しました。こう見えても、酢豚が得意なんですよ」
「うわー、一度食べさせてもらいたいわ」
「そうですね、理恵さんの送別会の時は、腕を振るってみますよ」
 哲也は、以前の明るさを取り戻した理恵に笑顔を向けた。
 理恵は何かを話そうとしたが、小さな笑みを残し、踵を返した。
 哲也は、どこか温もりを引く後ろ姿に声をかけた。
「彩ちゃん、来年中学二年になるんだってね。この前、私に、ディズニーランドって行ったことある? って訊いてたけど……」
「あら、柿崎さんにそんなことを――」
 理恵が驚いたように、振り返った。
「新潟に帰ったら、なかなか出てこられないかもしれない。今度の休み、一緒に連れて行ってあげませんか」
 理恵には、新潟の大きな農家の後妻に入るという、再婚の話しが進んでいた。
「きっと彩が喜びます。それと、新潟の縁談、実家は乗り気なんですが、私はせっかく覚えた今の仕事を手放すのが辛くて、もう少し考えさせてって、先日母に電話しました」
「そう……、確かに惜しい腕だけど、理恵さんが一番幸せになる道を選ぶのがいい」
 哲也の脳裏に、ふと佐竹の笑顔が浮かんだ。
 理恵は横顔で小さくうなずくと、去っていった。
 
 哲也は、重い左手を添えながら右手でラップをはがした。思わず顔をほころばせながら、クッキーの上に書かれている文字を、いつまでも見つめていた。
                  (了)
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