第2話

文字数 1,976文字

 二

 それから一年後、あけぼの鉄工所は何とか持ちこたえていた。
 取締役工場長となった哲也は、夜遅くまで生産管理に追われていた。
「あけぼのさん、前回の改良部品、追加で百個お願いしますよ。大変評判いいんですよ、あれ。ただ納期がきつくてね、今月末までに先行の五十個だけでも納めてくれない」
「あ、ありがとうございます。何とか頑張ってみます。ただし、単価は前回同様でお願いしますね。発注書は後からでもファックスで」
 お得意様の「了解!」という歯切れの良い声で電話は切れた。
 源さんが堰を切ったように斬新なアイデアを出すお陰で、部品加工ラインは競争力がついてきた。哲也はすぐに、改良型軸受け百個分のボールベアリングの在庫を確認し、再びデスクに向った。
 今では役員となった金丸熱処理工業の坂田が、事情を聞いたのか、製造工程の冶工具製作の仕事を専属で回してくれるようになった。この大都会でも、人間関係が基本にあることを、哲也はかみ締めた。
 理恵の家族は社長宅の離れを借り受け、今は社長と一緒に経理と事務をこなしている。週の半分は作業服に着替え、現場の仕事もするようになった。子供のいない社長は、彼女をまるで自分の娘のように接し、自分が苦労して身に着けたボール盤やタップ盤の仕事を教えている。
 最近は佐竹が使い古したスプレーガンを操りながら、塗装の仕事にも挑戦している。休憩時には、亡き夫が愛用していたTIG溶接機に手を触れ、いつかは自分もと、目を輝かせていた。理恵が明るくなったことが、哲也には一番嬉しかった。

 確かに一年間は持ちこたえたが、事業の中身は以前と何も変わらない。鉄也は、会社の将来に一抹の不安を持っていた。このままいけば、いつかは同業者とのコスト競走に負け、ジリ貧に陥ることは間違いない。サラリーマン時代だったら、儲かる会社に鞍替えすれば何とかなるかもしれない。だが今は立場が違う。こんな小さな会社でも自分は経営者なのだ。鉄也は初めて、父と母の柿崎鉄工所の真剣勝負の日々が理解できた。

 ある日夢に、溶接面を外して微笑む佐竹の顔が現れた。その時、溶接の仕事に突破口があると閃いた。当時、佐竹も意欲を示していたアルミ合金の溶接だ。
 ステンレスの溶接はどこでもやるが、アルミの溶接は、特に部材支給の仕事は、失敗すると赤字を出すので、限られた溶接専門企業だけが請負っていた。
 翌朝の会議で、鉄也は社長に将来構想について切り出した。
「社長、このあけぼの鉄工所を継続していくには、現状維持では不可能かと思います。新規マーケットを開拓し、攻めの事業展開が必要じゃないでしょうか」
「よく考えてくれましたね。私の夫は、事業の近代化とかそういう戦略には興味がありませんでした。このままでは取り残されていくと、私でさえ心配していたのです。それで何かあてはあるのでしょうか?」
「以前からぽつぽつとでしたが、アルミの溶接の引き合いはきていたのです。社長もご存知かと思いますが、現存のTIG溶接機でもアルミの溶接は可能です。あとはしっかりした技量さえあれば、受注は可能です。でも今は専門技術者を雇う余裕はありません。実は、私のアメリカの知り合いが、航空宇宙関連のメーカーにおりまして、アルミとチタンの溶接ならいつでも教えると言っております。三週間いただければ、何としても技術を習得してきます。問題は往復の旅費ですが、それさえ何とかなれば――」
「旅費は何とでもします。ただ宿泊が――」
「それなら大丈夫です。友人のマンションに住み込みが可能です」
 哲也は、ひと月ほど前、イラージの会社宛にエアメールを出していた。その返事が一週間ほどまえに届いた。イラージの喜びようが、パソコンで打った活字でさえも踊り出すように伝わってきた。
 I owe you my life.(命の恩人)という言葉が三回もつづられていた。
「会社は溶接では世界トップの技術を持っている。哲也のリクエストにはすべてかなえられるはずだ。一部屋開けておくので、会える日を楽しみにしている」と締めくくられていた。
「そう、そんな頼れる人がいるのなら、ぜひ勉強してきてもらいたいわ。それにしても柿崎君、よくアメリカなどに友人がおりましたね――」
「歌舞伎町で愚連隊に殺されそうになっていたイラン人を助けたんです。偶然にもそのイラン人がアメリカの会社に勤務する溶接の専門家でした。彼はもの凄く感激して、溶接のことならどんなことでも相談してくれって、アメリカに帰っていきました。彼ならきっと助けてくれるはずです」
「そう、それは見込みがありそうね。やっぱり人助けは大切ね。それにしても、柿崎君が不良たちを相手に闘ったというのは――」
「あ、それは、話せば長くなりますので、またの機会に――」
 哲也は情けない自分を思い出し、冷や汗が出てきた。
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